0401「老人Z」(大友克洋&江口寿史 先生)

 大友克洋と江口寿史がコンビを組んで製作されたオリジナルアニメ映画ということになっている作品。監督は北久保弘之という方。芋づる形式でどんどんと作品を漁っていきたい所存。新学期も始まってしまったが、なんとかして時間を作るぞい。ファイト!


 アマプラでなんの映画を見ようかなと帰宅後にウォッチリストを眺めていたところ、古の地層にてこれを発見。あらすじの確認をせずに視聴。ただ、いつかの大友ファンが語っていたのを覚えていたので、うっすらと内容は把握していた。


 所感としては、やはりかつてのアニメーションというもの、特に大友作品に関しては、メッセージ性が必ず多く込められているもの。作品自体がこの世に対する問題提起となっていて、そこが多くのアニメと異なるところなんだろう。


 端的にいうと、萌え文化というのが誇りのアニメ界隈とでもいうのだろうか。そういう気質に属さない、大友作品。といっても、まだ私は大友作品にあまり触れたことがなく、読んだこと、見たことのあるのはAKIRAとか童夢くらいしかまだない。有名どころしか把握していないので、まだ語るには早すぎるというところではあるが。


 それでも、やはりアニメという媒体を純粋な表現な場として、周りからほぼ独立した可能性を追求しているような肌感。これには私の知るなかでは、阿部共実先生のマンガがこれに類似していると思う。


 阿部共実先生も漫画というものを一つの媒体として表現の限りを追求しているような気がする。古き良き漫画の最先端を切り開く漫画家さんだなと、勝手に想像して興奮している次第。


 やはり、最近のアニメーションや漫画は表現の一元化、ストーリーの一元化がとても目立つ。そしてこれははるか昔の「動物化するポストモダン」でさんざん指摘されてきたことでもあると思う。


 大友作品、阿部共実作品を摂取すると、そのような路線からははるか遠くにいることが本当によくわかる。もちろん、多くのコンテンツを否定しているわけではなく、そのコンテンツにはそのコンテンツの役割があり、それを消費している私がいるものもまた事実だ。だから、感謝すらしている。


 ただ、やはり何が好きかといわれると、私はそのような表現を追求する、表現をもってしてメッセージを放つという行為としての、漫画、アニメに強く心惹かれる。


 今後、さらにアニメ、漫画としてのコンテンツが一般的に浸透していくためには、このような媒体としての表現の限りを尽くすという姿勢が大事なような気がする。雰囲気のなかで作るのではなく、雰囲気を作り、そしてメッセージを届ける。それが主体にある創作というものに、普遍的な価値がつく。なんてんだろう、時代の試練にも耐えうる、作品というものが出来上がるんだと思う。そして、それは往々にして、コンテンツ媒体の融合という方向へ進んでいくのだと思う。それが、自由で有意義な創作の本質でもあると思う。


 なんだか、駄文を生産してしまったが。


 老人Z。面白かった。細かいところを理詰めすることは重要ではなく、映画鑑賞とか何かのコンテンツを自身に落とし込む際に必要なことはなんだろうと考えてみる。今はまだあまり明確な言葉が浮かんでこない。


 あらゆる目についた、心に響いた情報から外へと思考を広げることが一つかなとは思う。時代背景とか、社会問題とか。見ているとぼんやりとした輪郭が出来上がってきて、それについてググるなり人と話すなり、そうして作品の世界領域を現実に浸食させていく。それが落とし込むという現在進行性の行為につながっていく。これは一つの解であるように思う。


 消費社会の精神にずぶずぶの私は、なかなかこういうことができないところがあるので、気を付けたいところ。どこまでするのかというラインがあるが、それは細かくは決めずに、気の済むところまで。でも、これが難しいんだ。次から次へとやることが降りかかってくるとなおのこと。


 こうして記録をつけているという行為においても、なんだか実際的にはどのような意味があるのだろうとか、抽象的なことで思考が止まってしまうことがしばしば。


 とまぁ。なんだが、話があっちへいったりこっちへいったりし始めたので。夜も遅いので、今日はここまで。大友作品の摂取はまた今度。


 少しだけ他人の評価も見てみよう。


P.S.


 老人の介護問題というもの。とても深刻であることは1991年9月14日と2024年4月1日を比べても変わりない。愛のない介護に意味はない的な発言があったと思う。それに対して愛という定義が揺れ動き、合理化を働こうとする官僚の姿も描かれていた。


 こうした時代の強制力によって生み出される諸問題というものは、得てして様々な正義のもとに語られる。だからどこへ向かっていけばよいのかわからない。国際問題なんかもその類だ。


 それでは落としどころを付けるというのが、必要不可欠になってくるわけだが、それに伴い責任の擦り合いという事象がどうしても人間社会、生じてしまう。


 なんとも、世の中は難しく複雑に、それでも回っていくしかないということを思い知らされる。

 

 果たして介護問題の正解とはなんなんでしょうか。愛があれば非効率的であってもいいのか。愛がなくても効率的であればいいのか。


 効率的であるという価値は資本主義経済が成り立つうえで欠かせない概念。まったくの対極に位置する、トレードオフの関係。


 豊かさとか愛とか効率とか生産性とか、いろんな大切なことが、概念がごっちゃまぜになってしまった時代に私たちは生きているんだなと、そんなことを老人Zを見ていて思った深夜の時分。

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