0325「取るに足らない僕らの正義」ーマ

 とてもいいお話だった。川野倫さんという方の書いた作品。初めて読む作家さんだと思う。


 少しだけあとで活動など、ほかに作品がないか調べてみよう。なんだかとっても読んだあとにいい心地のする漫画。いい心地といっても、なんだろう。こう、中身のぎゅっとつまった漫画を読んだあとの、あの感覚。とてもいい作品に巡り合えたときにだけある、あの感覚。ずっとその作品世界が現実世界に広がっていくだろう、そんな予感があるという感覚。


 調べてみたところ、作品数自体はかなり少なく、この「取るに足らない僕らの正義」と原作・作画系のマンガを出してるのみらしい。


 ツイッターもやってるみたいなのでフォローもした。今後の活動をとても応援したくなる作家さん。読者としていい出会いを、作品を通してできるとき、とっても幸せになる。こんな読書体験が今後も濃密にできていければいいな。


 さて、ここのテーマをしっかりと思い出して「取るに足らない僕らの正義」のなんやらかんやらを自分なりに消化していきたい所存。とてもざっくりと、ばらばらな文章になってしまう所存。


☆☆☆☆☆☆☆


 こういう漫画の形式って、オムニバスっていうんだっけ。大学の講義とかで、いろんな企業の偉いさんがきて、サクセスストーリーとかためになる話とか、いろいろとごちゃまぜにしてくれる講義形式のこともオムニバス講義なんていったと思うけれども。


 ただしこういう漫画のオムニバスというものは、最後にしっかりとストーリーが帰着しなくてはいけなくて、なおさらそれが短編、一冊完結というものになるのであれば、その傾向は強くならざるを得ないと思う。長編であれば、なんだかふわふわしていても、それなりに長いので見せ場というものが、多々あると思うのだが、短編でそれをやると(というかできないと思う)、結局なにがしたいのみたいな感じになってしまうのが常というものだと、個人的には感覚として、そういうのがある。


 だから、この漫画も最後はしっかりとタイトルがどういう意味合いを含んでいて、何を見せたかったのかが、複数人の「取るに足らない僕ら」の」心情を通すことによって、ぼんやりと、または鮮明に見えてくるという感じのものに仕上がっていたと思う。(なんだかこういう分析とまで言っていいのかわからないが、なんだか自分なりに言葉を重ねていくと、上からの文章になっているような気がしてしまい自己嫌悪になるのが、感想およびそれに準ずる文章を書いているときの常というものなのだが)


 私も大人になるにつれて、どこか心のなかに他人が住んでいるような感覚が強烈になった。なにか自分の人生なのに、他人がそこの中心にいるような気がしてならない。この感覚は多くの人が、現代人であればなおのこと、共感できる人は多いのではないかと思ってはいるが。そのような人たちに向けて、彼女のいう言葉は、とてもささった。つまり私にとてもささったということ。


 なんだっけ。私は作品の感想を書くときに、文章などを一字一句正確に書くとか、読み返しながら、書くとかそういうことをして書くことはしたくない、というか面倒くさいタイプの人間なので、ぼんやりとこういうメッセージを受け取ったという体で書くことにするのだが。


 どうせ生きているのなら、自傷しながら生きていきなよ。


 そんな感じのメッセージを、他人がそこにいる男に向けて言っているシーンがあったと思う。これにはとてもビビッときた。このほかにもびびっとくるセリフが散りばめられていた。


 どこか心のなかに闇のある人というものは、どこにでもいるのだろう。そんな人から発せられる、ふとした言葉のもつ重みだったり、ワードチョイスだったり。そういうものが、普通ではない響きを持つことがあるから、文学というものは、今も生き続けているのだろうなと、なんだかそんなことも書いてみたりする。


 言葉が生き生きしていた。なんだか作られた言葉という感じがしない。漫画のために作られた言葉とでもいうのだろうか。なんだか、創作における言葉と現実における言葉というものには、確かにそういう壁があって、乖離を感じる場合がある。でもそれが現実であるし、文学であるし。そこは切り離して考えているのがコンテンツを楽しむ私たち人間というもの。


 でも、創作のために作られた言葉であったとしても、それがすんなりと心に響くというのが、現実感のある言葉であり、実際に現実にある言葉であり、そういう類の言葉が実際の人たちを突き動かすのだろう。現に私もこうして駄文をつづるまでには感化されてしまっているし。。。


 なんだろう。もっと、もっとこの世界にのめりこみたい。これはどういう感情により引き起こされているのだろう。どういうセリフ、顔、表情、身振り、コマ、、、、によって引き起こされているのだろう。


 こういうことを体系だって言語化することを考えるのがこの場所なんだよな。しっかりと書かないと。無駄な文字が多いぞ。回数を重ねるごとに成長を感じる文章であらんことを。。。


 ということで、もうしばらく文章を書いていく。


 ヒューマンドラマという部類に入るのだろう。そういう人と人のやり取りを描き、心象風景を特に大切にしながら描く作品というものは、深く人間のこころを揺り動かす力がある。というか、ヒューマンドラマなんて要素、どんな創作においても、微小なりとも、過大なりとも(表現がなんだか斬新?)必ず入っている。それがどれだけ主になっているかというだけの話であって。長編になればなるほど、いろんな要素をいれることができるというだけの話。


 感情に向き合っていくのが人間というもの。なんだか人間らしく生きることを肯定してくれる、そんな感覚。神様としての存在、嫉妬の対象としての存在、友達としての存在、普通の子としての存在。


 みんな他人をみるとき、かかわるときは、存在でしか見つめることができない。究極的にはそうなんだ。たとえ多角的?複眼的?客観的?とかいう不明瞭な言葉で理解をしようとしても、とどのつまり、そこにはどこまでも自分というなかでしか紡ぐことのできない、いや、感情というもののなかでしか言葉を紡ぐことのできない私たち、動物としての特性が表れてしまう。要するに、究極的にはという条件付きを外すことができないということだ。


 でも、それでいいんだと思う。存在というのは、認識することによってしか成立しないものだと、なんだか哲学の言葉であったと思う。それが正しいか間違っているかはわからないが。でも、その感覚というものは、おおよそ間違っていないとも思う。だって、パッと思い浮かぶ印象だったり、そういうものは、その都度どうしようもなく抗えないものだから。


 私がこの漫画という存在に感動しているのも、そうだし。いつかこの漫画を理解しない存在として見つめる存在になっているのかもしれないし。私は永遠にその都度の状況に活かされている人間でしかありえないのだから。


 そういう僕らの正義、というものの多様性を、やはりオムニバスというものは、ある意味、主観的に見せてくれる。そういう手法的な役割がオムニバスにはあるのだろう。一人の主人公では、どうしても臭くなってしまう(そんなことにはなりえないほどに素敵な作品になりえると思う)ようなものでも、オムニバスというものを採用すれば、作品世界に幅を持たせることができる。読者に対して、多数のインパクトを与えることができるという、そういう特性もあるのかもしれない。だから、いろいろな個性的な存在が、そこにはあるのだろう。オムニバスを活かすということについて、もっと私は考えていく必要があるな。


 

 なんだか疲れたので今日はここまで。また思い出したら書きにこよう。素晴らしい作品だった。また読み返すぞい。


 ありがとう、作者様。本当にありがとう、みんな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る