0320「華氏451度 新訳版」ーシ

 レイ・ブラッドベリの書いたSF小説。


 恥ずかしながら私が初めて読んだSF小説になる。知ったきっかけは、施川ユウキ先生のバ嬢に出てきていたからだと思う。そのなかでは、SF小説の表紙、黒くなりがち問題を扱っていたように思う。例えば一九八四年だったりとか(未読)。これって村上春樹の1Q84だったかの作品と関連しているとも言われてんだっけ。なんだかそんなこと言ってる人の文章を読んだことがある。


 書店では、SFをコーナーとして扱っているところが多く、キャッチコピーを飾っているなどして、世間のSFマニアの熱狂を感じながら手に取った次第であったんだけれど。


 なるほど。なんだかSF小説というのもの人気になる理由がわかったような気がする。とってもおもしろかった。多少、翻訳書としての読みにくさはあったが(やっぱり海外文学を嗜むには原著でその国の言葉で読まないと、あまり良さが分からないというのがある。といっても日頃から論文くらいしか読まない身にとっては、レトリック満載の文学作品を時間をかけて読む気にはなれない。現代の小説であればまだなんとかなるだろうが、かつての名著ともなると一気に読みにくくなるんだよな)、SF小説にはやはりエンタメ性と文学性(メッセージ性)あるいはもっとたくさんの重要な要素が複合的に存在しうる本なのかな、とかそんな抽象的なこと書いてみたりする。


 ※本の具体的な内容などは、私のために書いている記録でもあるのであまり重要ではない。以後はそのようなことはあまり書かないでおく。


 本を燃やすということが、市民の苦痛をなるべく減らし何も考えない市民を形成していくというプロセスになっているという。


 そしてまた、その燃やすという行為が、大衆が変わり果ててしまった暁にはただのコンテンツとしての機能しか果たさなくなっているという、そんなことが書いてあったと思うのだけれど。

 

 最後の描写もただコンテンツが溢れる世の中にある市民が、そのただ中において、一瞬のうちに消えてなくなってしまうという、あまりにも壮大で凄惨な最後というもので……


 とてもとても、なんだかしっくりきた。別にこういう終わり方が好きだからとかそういうものでもなくて。なんだか、あ、そういう、あ、なるほどって感じ。


 書店のキャッチにも「今の世の中への警鐘だ」的なことが書いてあったけれど。多くの人はSFをそういう風に読むのだろうな。私もまた同じような読み方をしていると思う。別につられているわけではなく。なるべき自分視点の読み方がしたいなと思いながら、日々読書を楽しみながらしているわけでありまして。なんだかもっともっといろいろな書物に触れていかないといけないなと思った次第であります。


 何も考えなくなる市民。という誇張された描写は、今の世の中にどれくらい当てはまるのだろうか。物事はそれほど一元的ではないけれども(この華氏451度の世界では、少しだけ設定を誇張して、メタファーとして要素を担わせているところがあるように感じた。そしてまたこの手法は、SFというフィールドにおいて、突飛な設定を作り出すためにも非常に重要な事だと思っている。と、ここでそんなことを考えているときに、クラークという方のSFはかなり現実ライクなものであるという帯の文章を書店で読んだことを思いだしたのだが、どれだけ現実に寄せて書けているのだろうかと、そんなことを思っている)


 私はメタファーだらけの作品も好きでして、それでいて現実感溢れる小説も好きでして、SF小説を読んでいくなかで、その描き方、ストーリーの組み立て方などを少し勉強できたらなと思っている。もちろん楽しんで読むが。それは大前提ではあるが。


 SFに関しては、しばらくは名著とされているものを読むことにする。最後に少しだけ「華氏451度」についてちょっと感想を書いておこうと思う。


 私は英語圏文化の叙情的と呼ばれる表現などに出会うと、それを日本語であまり読みたくないと思う人間であって、その気持ちは「華氏451度 新訳版」を読んでいるときであっても付きまとっていた。

 やはり私は叙情というものは、その国の言葉でしか感じ取れないものだと思っていて、そこは翻訳書を読んで時短で風情を理解するという行為をしている限りで、仕方のない諦めるしかないことなのだと思う。その中で私は今後も翻訳書を読んでいく。

 一番こころにきたのは、本という情報伝達としての形式が人間に与える影響をSFというフィールドを通して、また新しい解釈ができたというところだろうか。その解釈というものは、ただ単純に言語化できるものではなく、彼らの生きざまを通してみた過程のなかにあって。それを体験できたことにこそ、SFを読んでいく意味があるなと、あれ、これってSF以外にも言えることだよね、ということはそうなんだけれども。SFは比べて壮大なメッセージというものがコンパクトに収められているという代物でもあると思うので。


 火を花火を見るだけで、それがなぜ生まれたのかどのように生まれたのか、少しも能動的なものがない。受け身な存在としての型が出来上がってしまった。花火をみてただ綺麗だと思う。それでおしまいだ。情報の垂れ流しだ。出力だと思っているモノも実はただの入力がそのまま出力になっただけだ。同値にしかならない関数だ。しかしそれは学び始めの君であっても同様になりえてしまう。大切なことは少しも驕り高ぶるなということだ。謙虚であれということだ。決して知らぬ間に操作されてしまうなということだ。そのために本は記憶されなくてはならない。受け継がれいかねばならない。間違った利用の仕方をされたとしても。それが隠されてしまったとしても。検閲があったとしても。歴史を見てみるとわかる。決して本は消えることがなかった。ただの記録であるというのに。これが人類の少し先を歩き続けているというのだから、不思議だ。


 本についての一側面により紡がれた壮大な物語だった。ありがとう。なんだかSF初心者ではあるので、概念を理解できないまま読み飛ばしたところもあるのだけれど、これから少しだけSF書評してる人の文章を眺めて考えてみようと思うわよ。


 さよなら、さよなら、さよーなら。



※以下個人的な情報まとめ(追記していく感じ)------------------------------------------------------


Ray Douglas Bradbury(August 22, 1920 ―

June 5, 2012)



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る