第7話 神林紫は変な人

神林紫。

この人は、本当に―――変な人だ。


確かに、勝手にステータスを覗いたんだから、何か文句を言われてもおかしくはない。


悪い人だったら、その事を理由に脅してくるだろう。


神林さんも、きっとそうなんだって思ってた。


でも、この人は私のことを脅しているくせに、謎に優しい。

……というか、一々私が言わないと、脅してる事を忘れてる。


この人には、人を脅しているということの自覚が無いんだと思う。


「……ん?私の顔になにかついてる?」

「何もついてないです。ちょっと見てただけですよ」


身長182センチ。


とても、日本人女性とは思えないような高身長。

小さい頃から『チビ』とバカにされてきた私からすれば、羨ましい身長だ。


……逆に、『のっぽ』ってバカにされそうだから、もう少し低くても良いね。


(本当にスタイルいいなぁ…)


神林さんは、自分は人よりも美人だ、という自覚はあるらしい。

でも、モデルとか女優になるほどでは無い、と思っているみたいだ。


自己肯定感が高いのか低いのか…

まあ、低くはないか。

ただ、高くもないっていう、中途半端というか―――何と言うか。


とりあえず、神林さんは少なくとも自己肯定感はあまり低くはない。

低くないんだけど……高くもない。


うん、面倒くさい。

考えても無駄だ。

私は、私のことを考えよう。


「ほら、着いたよ」

「……社畜のくせに、良い物件に住んでるんですね?」

「社畜のくせには余計よ」


案内された神林さんの家は、割りとセキュリティがしっかりとしてそうなマンション。

格安マンションに住んでるのかと思ってたけど、そうでもなさそう。


この感じだと、割りと水準の高い生活をしてるのかな?

家具が一通り揃ってて、キレイに配置されてるみたいな。


キレイな部屋を期待して、神林さんが鍵を開けるのを待つ。

そして、ドアが開かれた先にあった部屋は―――


「……え?」






           ◇◇◇






「何も無い所だけど…まあ、ゆっくりしていってよ」

「は、はぁ…?」


(何も、無い…?これが?)


私は、目の前に広がる光景を見て、ツッコミを入れそうになるのを、グッと堪える。

そして、目を擦ってもう一度、神林さんの部屋を見た。


(……典型的な、ゴミ屋敷)


汚い…とにかく汚い。


玄関を開けて、まず飛び込んでくる光景は段ボール。

何処から持ってきたのか分からない、お菓子やお茶が箱詰めされていたであろう段ボール。


それが、組み立てられて、中にパンパンにゴミが詰まったごみ袋が入れられている。

なんで、わざわざ段ボールを置いているのかは不明だけど、とりあえずそれから目を逸らそう。


そして、ごみ袋の入った段ボールから目を逸らすと、見えてくるのは決してキレイではない床。


そこら中にチリゴミが散らばっていて、所々にコンビニの商品のゴミが捨てられている。

その光景は、さながらスラム街の路地裏だ。


(帰りたい…)


どうして、東京のど真ん中にこんな、スラム街みたいな光景が広がっているんだろう?

まるで理解出来ない。


「…どうしたの?」

「え?な、なんでも無いです!」


本音を言えば、今すぐに帰りたい。

帰りたい所だけど……あの、神林さんの悪意がカケラもない目を見ると、帰るわけにもいかない。


意を決して一歩踏み出すと、私の鼻を突くのはゴミとヤニの臭い。


「〜〜!!」

「ん?何か言った?」

「いえ……なにも……」


今までに嗅いだことがないような不快な臭いに、私は思わず声が出てしまった。


私の声を聞いて、神林さんが振り返ってきたけど、何とか表情を戻して誤魔化した。


できれば口呼吸で過ごしたいけれど、変なことをすれば、神林さんに気付かれるかも知れない。

必死に臭いに慣れようと、静かに何度も息を吸って鼻を慣れさせる。


密かに、臭いと格闘しながら神林さんの後について行く。

その先で、私のSAN値は更に削られた。


(うわぁ…)


足の踏み場もない。

そんなレベルでは無いにしても、とても過ごしたいとは思わないような………とにかく、『汚い』以外の言葉が見つからない汚部屋。


ゴミに埋もれた部屋よりも、こういった中途半端に汚い部屋の方が、精神を削られる。


見渡せば、そこら中に散らばった謎のちり紙。

ゴミ箱から溢れ出したティッシュ。

食べカスが乾燥しきった、コンビニスイーツのゴミ。

カビの生えている……サラミ?


とにかく汚い。


「………こんなモノまで…」

「ん?ああ、そう言えば捨ててなかったね。解雇通知書」


ゴミで埋もれた机の上に、謎の汚れがそこかしこに付着した、解雇通知書があった。


よく見ると、日付が一ヶ月前。

つまり、神林さんは一ヶ月前にクビになった事になる。


……一ヶ月でこの汚部屋が出来上がったの?


「ごめんね〜、いつも散らかして片付けないからさ。前からこんな感じだから、安心して」

「そ、そうですね……?」


(……何処のナニを安心しろと?)


思わずそう言いそうになるけれど、グッと堪えて比較的キレイな場所へ視線を移す。


ブランケットが置かれた、布生地のソファー。

あのソファーだけはキレイで、ソファーの周りにはあまりゴミが無い。


……ブランケットがある辺り、あそこで寝てるんだと思う。


ベッドは無いのかベッドは…


「……寝室は?」

「寝室?……無いけど?」

「じゃあ…あっちの部屋は?」


私が指差したのは、ドアが閉じられた部屋。

……なんか、近寄るなって本能が言っているけれど、気になるものは気になる。


神林さんに聞いてみると、神林さんは嫌な表情をして私を見つめてきた。


「……まあ、本当はあそこが寝室になる予定だったんだけどね。ベッドを買わなかったから、使ってない」

「じゃあ何が……」

「あそこには入らないでね?分かった?」

「は、はい!」


……まあ、神林さんにも、人に見せたくないようなモノが、一つや二つあるんだろう。

あの部屋については、触れないようにしよう。


「……ソファーにでも座って、ゆっくりしてよ。飲み物用意するからさ」

「そう…ですね………」


神林さんに座るよう促され、仕方なく座ることにした私。


正直、絶対に座りたくない。

アレなら床に座ったほうがマシだ。


……ただ、それで座らないと失礼だから、嫌々ながら座ることに。


ぷるぷると震えながらソファーに腰掛けると、私の体を不快な臭いが包みこんだ。


(ヤニ臭っ!?)


強烈なタバコの臭いが、ソファーから吹き上がる。


多分だけど、神林さんはこのソファーに座りながら、タバコを吸っている。

その臭いが染み付いて、取れなくなっているに違いない。


さっきまでの、鼻が折れ曲がりそうな不快な臭いとは打って変わり、今臭うのは頭がクラクラするようなタバコ臭。


謎のめまいが私を襲い、猛烈に気分が悪くなった。


(ゴミの臭いすら感じない……どんだけタバコ吸ってるのよこの人!!)


絶対に言えない事を心の中で叫び、思わず神林さんを睨んでしまう。


……ただ、神林さんは何を勘違いしたのか、心配そうな表情でコップを二つ持ちながらこっちに駆け寄ってきた。


「大丈夫…大丈夫よ。何があったのか、私に言ってみなさい?」

「……え?」


……対応が、泣いている人を宥める女性のそれだ。

私、泣いてたかな?


…なんか、無意識に涙が出てるね。


「なんでも無いです……本当に、なんでも無いです…!」

「そう言わずに……とりあえず、水でも飲んで落ち着きなさい」


そう言って、神林さんは持ってきたコップの片方を渡してきた。

中身は水で、あまり冷えていない。


「水道水だけど、ちゃんと浄水器は通してるから大丈夫よ」

「浄水、器…?」

「ほら、アレ」


神林さんが指差すのは、蛇口に取り付けるタイプの浄水器。


…それも、カビまみれで黒く変色しているモノ。


それを見た瞬間、一気に食欲が失せ、吐き気を催した。


「うっ……おぇ……」

「だ、大丈夫!?」

「大丈夫…です」


本当に吐くかと思ってたけど、何とか気合で持ち堪えた。

こんなゴミ屋敷で吐いたりしたら、掃除されずにそのまま放置される可能性すらある。


今ここで吐かなかったのは、ファインプレーだと思いたい。


「吐き気は収まった?これ飲んで落ち着きなさい」

「はい…」


私の横に座り、背中を撫でてくれた神林さんは、カビまみれの浄水器を通した水道水を渡してくる。


断るわけにもいかず、私は差し出されたコップを受け取り、恐る恐る水を飲んだ。




……水は、カビ臭かった。








            ◇◇◇








「はぁ〜!!東京の空気が、ここまで美味しく感じたのは初めて…」


1時間近く時間を掛けて、何とか神林さんを説得した私は、汚部屋からようやく開放された。


排気ガスの臭いしかしない東京の空気が、ここまで美味しく感じたのは人生で初めて。

それくらい、神林さんの部屋はヤバかった。


「ん?誰からだろう?」


某アプリの通知音が聞こえ、私はスマホを取り出した。


私にメッセージを送ってきたのは、『神林ゆかり』という人。

間違いなく神林さんだ。


どうして名前をひらがなで書いているのか謎だけど、そこはまあ気にしないでおこう。


『帰り道は気を付けてね!』


神林さんのメッセージを見て、思わず溜息が出そうになった。

時刻は既に6時。


説得に時間が掛かったせいで、こんな時間になってしまった。


『分かりました!』


一応、相手を不快にさせないように配慮したメッセージを返信し、スマホをポケットに仕舞った。


「……帰ろう」


これまでにないくらい、精神疲労を溜めた状態で、私は帰路につく。


電車に乗って、いつもの駅で降りると神林さんのモノよりも古臭くて、あまり金があるとは言えないマンションに帰ってきた。


……複雑だ。

あんな汚部屋に住んでいる元社畜が、どうして私よりも良い物件で生活できるんだろう?


そんな事を考えながら、私は我が家のドアノブを捻った。


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