後編 部下
「とりあえず生で」
そう言って俺は居酒屋の店員にビールを頼んだ。
本当はビール以外が飲みたかったが、疲れている所為か考えるのが億劫になってしまった。
本当にここ最近疲れが溜まっている。
家に帰って寝ても疲れが全く取れないのだ。
気分転換に旨いものを喰っても、女を抱いても疲労感は一向に拭えない。
この前なんかは疲労のせいでミスをしてしまった。
全く原因がわからない。
だが、仕事でミスを連発するわけにはいかないため……
「とりあえずそれで」
「とりあえずそのプランで」
「とりあえず明日にしましょう」
そんな言葉で何とか仕事を先延ばしにして、できることだけを細々と熟していた。
その場凌ぎなのは重々承知だが……
ミスをすることの方が怖いため、現状これしか手立てが無かったのだ。
無論、病気かと思って病院に行ったこともある。が、なんら病気は見つからなかったのだ。
至って健康と言われ、じゃあ何故こんなにもしんどいのだろうか、と自問する日々。
ただ、まぁ……心当たりはある。
ストレスだ。
それも過度の。
それが一番考えられる。
俺はストレスによって精神を蝕まれていたんだ。
新卒で入った会社が大ハズレだった。
いや、会社自体は問題なかったが直属の上司である課長が大ハズレだった。
こいつが俺のストレスの元凶だ。
仕事内容を教えてもらっていないのに、「やれ」としか言わない。
それによって起きた些細なミスを、さも大損害でも出したかのように怒る癇癪持ち。
加えて、俺がしていないミスも俺の所為にされ、反論すれば「黙れ」と恫喝してくる始末。
余りにも理不尽で、パワハラだと部長に訴えたが、課長はあと数年で定年だからそれまで辛抱しろと宣う。
馬鹿か。
はっきり言ってパワハラ以外の何物でもない。
ただ、会社もあの課長の扱いに困っているのは目に見えてわかるが。
考えれば部長より年下なのにまだ課長職ってところが、救いようがない。
本人は気付いていないようだが。
一回、皮肉を込めて『課長は部長職に興味ないんですか?』と聞いたが……
『会社の評価には満足している。そもそも私は現場で働き続けないのだからこれより上にいく意味はない』
と、言っていた。
愚かすぎる。
部長か、会社にそう言いくるめられただけだろう。そしてそのおべんちゃらにも気づけない哀れっぷり。
所詮お荷物。
上の役職に置くことができないから現場で輝いてくれと騙されて奴隷になっているだけだ。
それに評価もクソも新規開拓をスローガンにしている我が社の命令に反して、昔馴染の相手しかできないロートルではないか。
それも先達たちが用意していた得意先ばかりで、己では何一つ開拓できていない。
つまりは無能。
ここまで無能すぎると逆に滑稽だ。
傍から見ていれば道化師みたいなもの。
だが、直属の上司となると鬱陶しいことこの上ないのだが。
俺はスマホを取り出し、マッサージ屋を調べる。
寝ても取れぬこの疲労感。
次なる手はマッサージ屋で物理的にほぐしてもらうしかない。
ただ、これも気休めのような気がするのだが。
こうした出費も痛い。
病院代も、豪華な飲食代も、交際費も全部自腹だ。
それもこれもあの無能の所為で。
本当に辞めたい。
そう思っていたが……
「ビールお待ち!」
店員が注文したビールを持ってきてくれた。
この時になって俺はまだ食い物を頼んでいないことに気付く。
急いでメニューを取り、慌てて選んだ。
「とりあえず、だし巻きとホッケの開き、あと梅茶漬け。とりあえず、そんなものかな」
メニューの見開きにあったものを適当に選ぶ。
この辺りのメニューなら当たりハズレは少ないだろう。
店員はまだ待機したままだった。
「あぁ……とりあえずそれで」
店員は「はい喜んで」と言って厨房に消えていく。
そういえば、「とりあえず」という言葉を使うとあの無能はよく怒っていたな。
何が気に喰わないのだろうか。
とりあえず……
良い言葉じゃないか。
考えるのが面倒、セオリー通り、最低限で済む素晴らしい言葉だと思っている。
考えるのが面倒というとネガティブだが、つまりは従来通りでいいということだ。
とどのつまり、問題にぶつかってから、やりかたを変えればいいのであって、問題が無いのであれば、セオリー通りに突き進めばいい。
そして最低限から最高の成果を齎す。
素晴らしい。
ただ、あの無能は酷く怒っていた。
『とりあえずで済ますな。考えろ!』
笑える。
何もできないやつに限って『考えろ』と吐くものだ。
従来通りのやり方を変える必要性がないというのに。
無能もそうだが、こういう言葉を使うやつに限ってたいしたことは考えていない。
考えた結果、上手くいっていたことの二番煎じ、若しくは下位互換の答えしか出してこないのだから。
それは「とりあえず」以下の答えだ。
あの無能はそれに気付かず、無知蒙昧な仕事ぶりを発揮していた。
尻拭いをしていたこっちの身にもなってほしい。
苛立ちと共に酒を飲むペースが速くなる。
そういえば……
何度か酒を飲まないかと誘われたが、勘弁してほしいものだった。
あんな無能と酒を飲んで何が楽しいのか。
一度だけ付き合ったが、本当に地獄だった。
部長とは何度も酒を飲んだし、行きつけのスナックにも連れて行ってもらえたが。
部長との酒は楽しかった。
俺たち若い世代にも気を遣ってくれるし、ちゃんと御馳走をしてくれる。
まぁ部長からすればあんなハズレの部下をしている俺へのせめてもの詫びなのかもしれないな。
無能との酒はずっと不味かった。
あいつはずっと自分の昔語りばかりだ。そこに気遣いなど無い。
最初だけ「仕事にはなれたか」と聞くが、少しでも頷けばそこからずっと昔はこうだった、昔はよかったとどうでもいい話しかしない。
最後にはパワハラまがいに酒の共用、「俺の酒が飲めないのか」だからな。
剰え、割り勘だ。
一体、いつの時代の人間なのか。
パワハラに続いてアルハラまでしてくる始末。
質が悪い。
部長にもそれを密告したが、渋い顔をしただけだった。
多分、あと数年辞める予定だから問題を大きくしたくないのだろう。
なんでうちの会社はあんなお荷物に気を遣うんだろうか?
弱みでも握られているのか?
本当に疑問だった。
だが、今となってはどうでもいいことだ。
なんせ、あの無能、死にやがったからな。
自宅で心臓発作だと。
あの無能、一人暮らしだったからか、発見が遅れてかなり腐乱していたらしい。
課長に相応しい最期じゃないか。
部長も笑顔で俺に報告してきたからな、よっぽど嫌いだったんだろう。
無能故に誰にも看取られず、無能故に寂しく独りで死んで、無能故に誰からも悲しまれない。
本当に哀れだ。
しかし、これから新しい上司の下で伸び伸び仕事ができる。
こんなに嬉しいことはない。
だからこそ、さっさとこの疲労を取り除いて、百パーセントの力を出せるようにしないと。
やっと俺にも未来が見えてきたな。
酒が入ったからか、俺はいい気分のまま立ち上がった。
「すみませーん! とりあえずお勘定!」
会計を済ませ、外に出る。
ふと、空を見上げれば満点の星空だ。俺の新たな未来を祝うかのように美しい。
そんな中ほろ酔い気分で歩き出した瞬間、背中に怖気が走った。
俺は慌てて振り返る。
誰もいない。
いるわけがない。
一人で居酒屋に入って、一人で出てきたのだから。
それなのに、何故か背後にあの無能がいる気がした。
冷汗が止まらない。震えが止まらない。鳥肌が止まらない。
俺は……
走るように帰路に着いた。
言いようのない恐怖がねっとりと俺の身体にしみこんでいく。
「え?」
不意に……
酒の所為か、幻聴か、一瞬だけそれは聞こえた。
無能の声で……
『愚カな部下ヨ、ミッチリ、しごイテやるゾ……』
と……
とりあえず 京京 @kyoyama-kyotaro
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