とりあえず

京京

前編 上司

「とりあえず生で」


 居酒屋に入るなり、部下はそう言って酒を注文した。


『とりあえず』


 私の嫌いな言葉だ。

 それは即ち思考の放棄である。


 とりあえず……

 考えるのが面倒、セオリー通り、最低限、そう言いかえることもできる言葉だと私は思っている。


 現にこの部下はその言葉を普段から多用していた。


「とりあえずそれで」

「とりあえずそのプランで」

「とりあえず明日にしましょう」


 とりあえず……

 そればかりを連呼する。


 己が無能だと吹聴しているようなものだ。悲しいことに当の本人はそれを理解していない。


 この部下は今年の春から私の下に就いたがはっきり言って使い物にならない。

 

 ミスをすることは日常茶飯事。

 剰え、そのミスを隠蔽、転嫁することも当然のようにある始末。


 態度も悪く、謝意を示すこともできない。

 自分は悪くないの一点張り。

 反省など微塵もない。


 何故、会社がこんなお荷物を雇ったのか、理解に苦しむ。


 一度だけ私は上司である部長に直訴したが返ってきた答えは芳しくないものだった。


『育ててやってくれ』

『まだ新卒だ』

『そのうちできるようになる』


 甘すぎる。

 加えて、何故そのような楽天的観測でいられるのだろうか。


 この時ほど怒りに震えたことはない。

 血が滲むほど己の拳を握りしめていたのだから。


 今思えば、あの時……一思いに上司を殴ってしまえばよかった。


 それだけは後悔している。


 しかし私も会社の歯車である以上、上司の命令は絶対だ。

 特に我が社は上意下達が顕著。それはそのまま自分たちの評価に繋がる。

 故に従う他ない。


 居酒屋に入ってから私は部下に気を使って……本来ならこんな気も使いたくないが、世間話をして間を繋いでいた。

 

『仕事には慣れたか?』

『取引先の会社には行ったか?』

『部長の指示でわからないところはあるか?』


 プライベートなことを聞くのはこのご時世御法度だ。それは私も重々承知している。

 兎角、世知辛い世の中になったものだ。

 昔などはそうした垣根を越えて中を深めたというのに。


 だが、興味のない人間のプライベートを聞かなくて済むのだからこちらとしても有難い。

 その所為で当たり障りのない仕事関係の話しかできないが、それでも譲歩しているほうだろう。


 本来なら無視しておきたい。一言も喋りたくない。

 いや、こんなバカと飯など喰いに行きたくもない。


 だが、部長の命令で「軽く懇親会でもしたほうがいい」と言われた。

 これまた、従わざるを得ないのだ。


 しかし、腹が立つ。

 こいつはさっきから何も返さない。上司である私の前で平然とスマホを見続けている。

 私が気を使っていることにすら気付かない。

 本来なら率先して私の話を聞くべきだし、なんならこのバカから話すべきだ。


 それなのに……

『とりあえず』と宣うような愚鈍な輩であるからして、返答に期待などしていなかったがここまで舐められるとは業腹だ。


 ただ、こんな場所で怒りを発散するほど私は未熟ではない。

 目の前にいるのは人の形をした猿だ。

 そう思えばまだ可愛いもの。

 

 加えて、昨今の若者など得てして皆こんなものだろう。

 私が若い頃は誘われれば断るなどといった選択肢はなかった。寧ろ率先して飲みに行っていたくらいである。

 酒の場で機嫌の良くなった上司と盛り上がり、それまで培ってきた経験を享受してもらうことで仕事に活かせるようになるのだ。

 つまりは仕事を覚える近道とも言える。


 また、こうした場でコミュニケーションを育み信頼を得て、新しい仕事を任してもらえるようにもなったものだ。

 それが今度は自分の経験として力になっていくのである。


 現在もそうやって得てきた力があるからこそ若造にも遅れは取らんし、何なら結果を出し続けていた。

 その自負もある。

 

 そして、次は私のこの経験を次世代に紡いでいきたいと思っていたのだが……

 よもや私の次世代がこのような輩だとは努々思わなかった。


 一言でいうなら不幸である。


 私は湧きあがる怒りと悲しみを抑え、お通しのサラダを食す。

 二束三文の居酒屋のサラダは野菜の味しかしない残念なものだった。


 こいつに高い金を払うのが嫌で大衆的な居酒屋にしたがここまで低レベルだとは思わなかった。

 眼前にいる愚物と相まって非常に腹立たしい。


「ビールお待ち!」


 定員が威勢よく生ビールを持ってきた。

 泡の薄いビールがドンとテーブルに置かれる。

 雑な置き方だ。

 しかも酒は一つしかない。どうやら私の注文を待たずに部下のビールだけ先に持ってきたようだ。

 不快極まりない。


 一々、客商売のいろはも知らぬバカに文句など言いはしない。それよりもさっさと消えてほしい。


「とりあえず、だし巻きとホッケの開き、あと梅茶漬け。とりあえず、そんなものかな」

『私は梅茶漬けだけ頂こうかな』

「あぁ……とりあえずそれで」


 とりあえず、とりあえず、とりあえず。それしか言えないのか。


 今晩だけで何度その言葉を吐いたのか。

 喋るたびに浅慮であることが露呈していく。


 店員は「はい喜んで」と言って下がった。やっと消えてくれたか。

 

 部下はスマホを見ながら食事を始める。

 まだ酒が来ていない私を待つ気などさらさらないようだ。

 

 怒りが滾る。

 私は次、こいつが『とりあえず』と吐いたら殴ってしまうかもしれない。


 そんなことをすれば忽ち私の首が飛ぶ。

 それだけは避けなくてはならない。

 

 怒りを飲み込み、我慢に徹した。

 

 このバカはここからどうやって挽回して私を認めさせるつもりなのだろうか? 

 仕事とはチームワークによって成り立っている。


 このように自分勝手ではサポートすらできない。サポートをしたいという気にすらならない。


 それとも、このバカは己は一人で仕事ができると思っているのか?

 こいつに限っては失敗ばかりでなんの実績もないのに。


 実力のない人間ほど己はできると思いがちだが、このバカはその典型だった。

 だからこそ、救い難い。


 部長の命令がなければこんな有象無象に私が気に掛ける必要など無かっただろう。


 いや、待て。


 私は部長との会話を思い出す。

 そうだ、部長は私に『頼む」といった。


 上司である部長が遜り、私に『頼む』と言ったのだ。

 

 それに気付いた時私は震えていた。


 上位の者が下位に頼む。これほど甘美な言葉だとは気づかなかった。

 それに気付いた時、私は己の中にあった怒りすら消し飛ぶほど喜びに満ち溢れていた。


『頼む』

 

 その一言が、部長の一言が私を目覚めさせる。


 そうだ。これはもう使命なのだ。

 このバカを立派にすること。

 それこそが私に課せられた使命だったのだ。


 部長が、引いては『会社』が私にこいつを育てろといったのだ。


 私の嫌いな言葉で敢えて言うなら……


『とりあえず、やれるだけやってみよう』


 そうだ。

 会社の命令は絶対だ。


 ならばこそ、この愚鈍な部下を一人前にしてみせようじゃないか。


 私は漸く笑うことができた。

 もう、怒りも悲しみも、跡形もなく消えている。


「すみませーん! とりあえずお勘定!」


 また『とりあえず』か。

 まぁいい。今回は許してやろう。


 部下は財布から金を払い、居酒屋を出ていった。

 最後まで挨拶も無しか。

 本当に愚かだ。


 しかし、だからこそ育て甲斐があるというもの。

 性根から叩き直してやろうではないか。


 私も部下に続いて店を出た。

 

 空を見上げれば満点の星空だ。私の新たな覚悟を祝うかのように美しい。


 明日から楽しみだ。

 

 愚カな部下ヨ、ミッチリ、しごイテやるゾ……

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