8 腕のいい神官
翌日、俺は朝早くに目を覚ました。
ゾイはよく眠っており、薄っぺらい毛布を捲って身体を確認すると、瘡蓋があった場所に早くも薄皮が張っていて驚愕した。
亜人の治癒力……
これは、正に超人だ。人間の俺とは比較にならない回復力だ。勿論、生命力もそれに比例するだろう。おそらく、この生命力差こそがアビーや鬼娘が妙に俺に目を掛ける理由の一つなのだろう。
つまり――
ディートハルト・ベッカーという『人間』は弱く、死にやすい。
暖炉では消えかけた薪が鈍い光を放って燻っていた。
生乾きの服は頗る着心地が悪かったが、そこは我慢して着る。
金が必要だ。
食い物、住む場所、替えの衣類。今の俺たちには全てが不足している。
俺は小さく欠伸して、冷たい床に胡座の格好で座り込む。
《その者、全にして一つ。全にして多に分かたる》
そして瞳を閉じ、瞑想するのだ。
静かに祈りを捧げ、母(アスクラピア)の助力を願う。
アスクラピアの神官は気が遠くなるような長期の祈りと術の研鑽を経て一人前になって行く。
◇◇
朝になり、アビーたちと合流すると、鬼娘アシタと猫娘エヴァの顔はパンダみたいに目の回りに青タンが出来ていた。
アビーがやったんだろう。
鬼娘と猫娘は揃って俺を睨み付け、続けて俺の隣に佇むゾイを見て目を剥いた。
鬼娘が羨ましそうに言った。
「ゾイ、風呂に入ったのか? 服も綺麗になってる……」
「……」
ゾイは嫌そうに鬼娘を見て、俺の手を、きゅっと握った。
その様子に鬼娘は腹が立ったのか、早速俺に噛み付いた。
「ディ、ず、するいぞ。お前たちだけが、なんで! ビーだってあたいたちと大部屋に居て、あそこには風呂なんてないのに!!」
その問いに答えたのはアビーだ。
「そりゃ役得さ。言っただろう? ディには静かに祈りを捧げる場所が必要なんだ。ディはゾイを選んだ。ゾイはディに尽くしてる」
「それぐらいなら……!」
そこまで言って、鬼娘はぐっと息を飲むように言葉を飲み込んだ。
どうでもいい。
俺はアビーに言った。
「メシはもう食ったのか?」
「いいや? あんたが起きるのを待ってたんだ」
「そうか。それは悪い事をした。次から放っておいてくれ」
「ディ、あんたは虎の子なんだよ。そうは行かないね」
その言葉に、俺は肩を竦めた。
「で……今朝はまた教会の炊き出しに行くのか?」
アビーは厳しい表情で首を振った。
「まさかね。二度とあんな奴らの世話になんかならないよ」
「……」
そのアビーの言葉には、酷い違和感があった。
食い詰めたガキの親玉のセリフじゃない。明確な理由があると思うべきだ。おそらくだが、俺が『神官』である事と無縁じゃないだろう。
◇◇
その後は宿を引き払い、近くの屋台で軽めの食事を摂った。
白く濁ったスープの中は肉団子や水とんのような具がごちゃごちゃ入っている。いかにも不味そうだが、教会がやっていた炊き出しのゴミのような嫌な匂いはしなかった。
俺は先ず、今朝の食事にありつけた事をアスクラピアに感謝し、聖印を切った後は目を閉じて静かに祈った。
「……」
そんな俺に構わず、回りからガチャガチャと食器がぶつかる音がして、目を閉じていてもガキ共が食事に手を着けた事が手に取るように分かった。
「……」
俺が黙想を始めて僅か三十秒程の事だ。
ガキの一人が、突然悲鳴を上げた。
「……やかましいぞ。どうした」
目を開くと、ガキの一人が手の甲から血を流して泣いており、そのガキをアビーが厳しい表情で睨み付けている。
「誰がそんな事をしろって言ったんだ。ふざけんじゃないよ」
どうやら、アビーがガキの手にフォークを突き立てたようだ。
「……朝はなるべく静かにしてくれ。頼むよ……」
黙想を邪魔され、小さく溜め息を吐き出すと、アビーはばつが悪そうな顔をして目尻を下げた。
「ご、ごめんよ、ディ。この馬鹿が、あんたの食事を取ろうとしたんだ……」
「……腹が減ってるんだろう。半分分けてやれ。後、怪我をさせるんじゃない」
「何を言ってんだ。ちゃんと食わないと、力が出ないってごねたのはあんたじゃないか」
「その程度の事で腹を立てるなと言ってるんだ。口で言えば済む話だろう」
「……」
アビーは、そっぽを向いて黙り込んだ。意見を変えるつもりはないようだった。
「……アビー。寛容になるという事は……」
俺は説教をしかけて、止めた。
どうにも面倒に感じたからだ。
そのやり方が、あんたの命を縮めない事を祈るよ。内心でそう思うだけに留め、血を流して泣くガキにメシを半分分けてやろうとしたが、ガキが泣きながら謝るので、まあ遠慮なく全部食べた。
怪我は治さない。
神力の使い途は決まっているし、亜人の治癒力は驚異的だ。人間(おれ)ならそうはいかんが、亜人の場合は放っておいてもすぐ治る。アビーの躾が少しばかり強過ぎただけの事と思う事にした。
食事を済ませ、屋台を出た俺たちは昨日と同じように暗い路地裏を抜け、ダンジョンの方へ向かった。
途中、露店の並ぶ通りに出た所で、俺はアビーに香木をねだった。
「……ああ、お香の滲みたやつだね。いいよ。安いし。すぐ買ったげるよ」
アスクラピアの教会でよく使うやつだ。欲しがったのは俺じゃない。俺の中のディートハルトだ。
アビーはポシェットの中からびた銭と呼ばれる色付きの石を取り出して、猫娘に買って来るように言い付けた。
「……なんであたしが!」
まぁ、猫娘ならそう言うだろう。
ハッとしたゾイが手を上げて名乗り出ようとしたが、それを押し退けて鬼娘が言った。
「じゃあ、あたいが買ってくるよ」
なんだ、コイツ。というのが俺の感想だ。俺には鬼娘の考えが全然分からない。反発したかと思えば、妙に気を遣う素振りを見せる時もある。俺をはっきりと嫌っている猫娘の方が、まだしも好感が持てる。
俺は、そういう中途半端なヤツが嫌いだった。
人には嗜好品がある。
ディートハルト・ベッカーの場合はこの香木だ。『
俺は、その伽羅をアビーにナイフで小さく削ってもらい、小さな破片を口の中に放り込んだ。
「…………」
僅かな甘味がして、ハッカのような匂いが鼻腔を突き抜けて行く。
「ふむ……悪くない……」
これも一致というやつだろうか。そう考えていると、ゾイが物欲しそうにしていたので、同じぐらいの破片を口の中に入れてやった。
「口に含むだけだ。食うなよ」
ゾイは口の中でもごもごして、よく分からないが、納得したように頷いた。
「ちょっと甘い。ディの匂いがするね……」
鬼娘も欲しそうにしていたが、そっちは無視した。
ゴミはゴミ箱に。そういう事だ。
◇◇
この日のアビーは上手くやった。
俺は昼までに五人の怪我人を診て、報酬として銀貨五枚を手に入れた。
この時点で昨日の倍の稼ぎを得た事になる。これは簡単そうに見えて簡単じゃない。アビーには交渉の才能があるようだ。
そして大量の神力を使い、また目を回した俺だったが、俺の中のディートハルトはまだ行けると言っている。
「……アビー、予定通りだ。暫く休んで、午後から三人診る。行けるか……?」
アビーは銀貨五枚の儲けに頬を緩ませながらも、心配そうに俺の顔を覗き込んで来る。
「あぁ、ディ……今日はもう充分だよ。あんたはよくやった。もう休みな……」
「いや。あのクソ宿より、もっといい部屋で休みたい。あと三人だ。俺の事を思うなら、今夜の宿の心配をしてくれ」
俺はゾイを贔屓しているが、この状況が続くのはゾイにいい影響を与えると思わない。鬼娘や猫娘も風呂に入れてやるべきだし、小さいガキ共には腹一杯食わせてやりたい。
無論、金の為だけじゃない。
神力を絞り出し、俺自身の限界値を上げなければ、いつまでも経ってもディートハルトに追い付けない。神官『ディートハルト・ベッカー』にはなれない。
「ディ……」
アビーは心配そうに目尻を下げ、ひたすら俺を気遣う様子だった。
ぐったりとした俺を引き連れ、アビーは路地裏の更に奥まった場所に移動した。
人目を避けた袋小路。
アビーは手際よくガキ共に命令して木箱を並べ、その上に布を敷いた簡易ベッドを作ってくれたので、午前中は、そこで休んだ。
何故、そうするのかは分からなかったが、俺が休んでいる間、アビーや鬼娘は気を張っていて、ずっと周囲を見張っていた。
神力を回復させ、限界ぎりぎりまで術を行使して俺は俺自身の限界値を引き上げる。
俺はこの日もヘロヘロで、二人程に術を行使した時にはゾイが泣いていたし、アビーは頻りに中断を訴えた。
「……いや、まだだ。俺たちには何もかもが不足している。もっと……金は幾らあっても足りんぐらいだろう……」
疲れに滲む視界を擦る。
気が付くと泣き腫らした目のゾイが腰にへばりつくみたいにして、俺の身体を支えていた。
そしてこの日の最後の客はアレックスだった。
「……あんたか」
筋肉質のデカい女。
勿論、普通の人間じゃない。何か混じってる。一つは
アレックスは昨日と同じ凶悪な笑みを浮かべていて、その笑顔にアビーは完全にビビっている。
それでもアビーは言った。
「わ、悪いね。今日はもう店じまいなんだ。明日に――」
そのアビーを遮って、アレックスは言った。
「よう。ディ、だっけ? 今日も頼めるかい?」
「そうだな……疲れてる。傷の具合によるな……」
「なあに、今日は小さい傷さ。そいつをアンタに診て欲しいんだ」
「……分かった。先ずは見せてくれ……」
俺は疲れ切っていて、今にもぶっ倒れてしまいそうだったが、神力の限界値を引き上げる為にはこれぐらいの無理が必要だった。
「よし。んじゃ、アネット。来な」
アレックスに呼ばれて、その背後から顔を出したのは、昨日一緒だったとんがり耳の女だ。
「……?」
俺はとんがり耳を『診て』、首を振った。
「……元気そうだ。怪我をしているように見えない……からかっているのなら帰ってくれ……」
答えたのはアレックスだ。
「まぁ、待てって」
アネットと呼ばれたとんがり耳は、俺の前まで来て膝を屈め、レギンスの裾を捲って脹ら脛の辺りを見せた。
「……何もない。怪我をした痕はあるが、既に治っている。特に問題ない……」
アレックスはニヤニヤ笑っている。一切笑顔を崩さないのが却って不気味だった。
「そりゃ、分かってるって。だからさ、その傷痕を消して欲しいんだよ」
俺は鼻を鳴らした。
「……それなら簡単だ。だが、相場通り銀貨一枚。負からんぞ……」
その俺の言葉に、アレックスとアネットの二人は一瞬たじろいだように見えた。
「へぇ……簡単と来たか」
「ふん……馬鹿にするな。そんなもの、そこら辺のモグリでも充分やれるだろう……」
「じゃあ、やっとくれよ。金なら、ちゃんと払うからさ」
既に塞がっている傷だ。神力の消費は少なくて済む。俺は安心して、今にも目が潰れてしまいそうだった。
「眠い……痺れ薬は持っているか?」
それに答えたのはアネットだ。
「あ、うん。えと……
「……全然違うが、まぁいい。それで行こう……」
アネットから緑色の薬が入った小瓶を受け取り、眠気に潰れそうな目で確認する。
「使えんとは言わんが……毒性が強すぎる。アビー、水と針を持ってこい」
「えっ、水と針? 水はあるけど、針は……」
「ならナイフでいい。なるべく尖ってて、細いやつなら尚いい」
「……これでいい?」
小さいナイフを差し出したのはアネットだ。
「……貸してくれ」
眠気に霞む目を凝らして見ると、よく研がれてあった。
投げ刀子というやつだ。
それを水でよく洗い流し、薬液は少量別に取って十倍程に希釈する。局所に使うなら、そんなもんだろう。
「よし、足を出せ」
「ちょ、待ってよ。切るの?」
アネットの脹ら脛の傷痕は昔のもので既に完治しており、機能的には問題ないが、傷痕自体は瘤のようになって小さく膨らんでいる。
アレックスもアネットも何も言わないが、その瘤を取って欲しいのだろう。
「……瘤を取って欲しいんだろう? 違うのか?」
「いや、そうだけどさ……」
「なら口答えするな。さっさと足を出せ。俺は眠くてしょうがないんだ」
「……」
本当なら針が良かったが、ナイフしかない。やむを得ずナイフの先に希釈した薬液を着け、瘤とその周囲を少しずつ、ちくちくとやる。
「……痛いか?」
「いや、全然。刺さってないよね、それ」
「俺は神官だ。治すやつだ。痛くしてどうするんだ。そんなヤブが何処にいる」
俺は、ちくちくとやり続ける。
暫くして、アネットが首を傾げた。
「なんか、感覚がなくなって来たんだけど……」
「そうか。なら頃合いだな」
説明するのも面倒だ。
俺は、アネットの脹ら脛の瘤に切れ目を入れた。
すると傷口から黒い血が溢れ出し、続いてどろりとした白い塊が顔を出したので、そいつをナイフの先端に引っ掛けて抜き取る。
「……痛みは……ないようだな……」
「う、うん。痛くはないよ……でも、な、何、それ……あたしの身体から出て来たそれ、なんなの……」
一部始終を見ていたアネットが、怯えたように息を飲む音が聞こえた。
「悪い癒者に診てもらっただろう。傷口に異物が入ってたんだ。そいつが腫瘍化してる。まぁ、見たとこ、良性で問題なさそうだが、下手したら悪さしたかもな」
「悪さって……どうなるの?」
「将来的には、血中で細かくなって結晶化する。影響が出たのが関節なら、そこが痛んで動きが鈍くなる。内臓なら癌化するかもな」
「ガン?」
意識が混濁しているせいか、今の俺は適度にディートハルトと混ざっている。だが、そんな事とは関係なく、俺は眠くて眠くて堪らない。
「説明するのも面倒だ。知らないままでいてくれ。そのままの馬鹿なあんたが大好きだ」
後は開いた傷を術で消しておしまいだ。傷自体は小さいから、とても楽な仕事だった。
「……終わった。もういい」
俺は限界だった。
視界がどろどろに歪み、何もかもが遠くに聞こえる。
「帰れ。今日は店じまいだ」
ゾイに凭れ掛かった格好で、昨日したのと同じように手を振って筋肉ダルマととんがり耳に消えるように促した。
「……」
だが、筋肉ダルマととんがり耳には帰る気配がない。恐ろしく真剣な顔付きでアビーを睨み付けている。
「……、……………!」
「…………」
大声でアビーと何か話し始めたが、その声が酷く遠い。聞き取れない。
アレックスとアネットはクソ真面目な顔をして、そのうちアビーを恫喝するみたいにして何かしらの交渉を始めた。
「……!」
アビーは殆ど泣きっ面で、何か言い返しながら、ちらちらと俺に視線を送って来る。
どうやら助け船がいるようだ。
俺は肩を竦めて言った。
「……冒険者ってのは、チンピラヤクザと変わらんな……」
治療は上手く行ったが、何故かアビーを脅しているようだ。
俺は鼻を鳴らした。
「礼に倣わざるは卑賤の輩。金はいらんから失せろ。二度と来るな」
眠くて眠くてしょうがない。
とんがり耳が激しく首を振って何か否定しているが、意識が遠くなって来た。何も聞こえない。そして、当然興味もない。
今日はこの辺にしておこう。
俺は心の赴くままに言った。
「この痴れ者が。言い訳は全て卑劣と知れ」
筋肉ダルマは、困ったものを見るように眉を八の字に下げて俺を見つめている。
「……
面倒を掛けるんじゃない。
意識に、眠りの帳が落ちる。
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