9 雷鳴

 明けて朝。

 藍色の光に瞼を撫でられ、うっすら目を開けると酷い頭痛がした。


 暖炉では薪が燃えていて、部屋は充分に暖かい。

 ベッドのシーツは真っ白で上等。身体に掛けられた毛布も心地よく、アビーがいい部屋を取ってくれた事が実感できた。


「……昨日は無茶が過ぎたか……」


 完全に神力を使い果たし、伸びていた。魔法酔いが抜けてない。身体の調子は七割という所だ。

 頭がクラクラする。


「……ゾイ、起きてくれ。腹が減った。あと風呂に……」


 そこまで言って、俺は黙り込んだ。


 隣で眠っているのはドワーフのゾイじゃなく、とんがり耳のアネットだったからだ。

 反射的に俺は叫んだ。


「アビー! アビー!! 近くに居るなら来い!」


 何が起きているか、さっぱり分からない。

 ゾイが居ない理由も、代わりにとんがり耳が居る理由も、さっぱり分からない。


 ひたすら困惑していると、アビーと鬼娘がドアを蹴破るようにして部屋に突入して来た。


「ディ! 無事かい!?」


 俺は状況が飲み込めず、取り敢えず喚き散らした。


「なんなんだ、この女は! クソっ、伽羅を持ってこい!!」


 その大声で、とんがり耳が目を覚ました。


「ちょ、待っ……」


 俺は怒り心頭で叫んだ。


「失せろ、この売女が! 俺がお前に身の回りの世話を頼んだか!? アビー! ああアビー!! 返答次第ではお前でも赦さんぞ!!」


 喚き散らしながら、俺は何だってこんなに腹が立つのか自分でも理解できなかった。

 怒りが収まらない。

 その俺の前に、アビーが項垂れるようにして膝を着いた。


「あぁ~、ディ、ごめんよう! あんたを怒らせるつもりはこれっぽっちもなかったんだ。でも、しょうがなかったんだよぅ……!」


 アビーの目の下には、うっすら紫の隈が張っていて、憔悴の色が浮かんでいる。


「ディ、ディ……! 落ち着け、な……?」


 何故か居る鬼娘が取り成すように、俺とアビーの間に割り込む。

 俺は益々頭に血が上った。


「なんだ貴様は! 図々しい! 俺がいつ貴様を呼んだ!! 身の回りはゾイに一任していた筈だぞ! アビー! 答えろ!!」


 激怒したディートハルト・ベッカーが俺の中で怒鳴り散らすのだ。


 不潔。汚い。知らない女。意に染まぬ相手。知らない部屋。一つだって許した覚えはない。全てが気に障る。


 アスクラピアは、いつだって死を思わせる静寂が大好きだ。


 アビーは殆ど土下座する勢いで頭を下げた。


「あぁ~、ごめん。ごめんよぅ、ディ。どうかどうか、怒りを収めておくれ。この通りだよぅ。『雷鳴』だけは勘弁しておくれよぅ……」


「……雷鳴?」


 そこで、俺はぼんやりと理解した。


 この状況に腹を立てているのはディートハルトだ。成り立ての俺と違って、やつは神官として殆ど完成している。

 暫くして知る事だが……

 アスクラピアの神官は大抵が保守的で、急激な日常の変化を嫌う。意味のない変化もそうだが、早朝の変化に至っては正に地雷だ。多くの神官が早朝に瞑想や黙想のような『行』を積む為だ。ディートハルトも例に漏れず、早朝は過剰に反応する。


 まぁ、これ以外にも理由は色々とあるだろうが、神官が発する深刻な怒りから来る怒号を『雷鳴』と呼ぶ。


 まさしく、今、俺がやっている事がそれだった。


「……」


 俺は小さく息を吐く。


 今の俺はディートハルトではあるが、ディートハルトではない。


 あくまでも『俺』は『俺』だ。


「…………」


 深呼吸を繰り返し、呼吸と怒りを鎮め、強く思う。


 ――俺を振り回すな!


 鼻から深く息を吸い込み、時間を掛けて口から細く吐き出す。


 怒りが抜けて行くに従って、ディートハルトの苛立ちも抜けて行ったが、悲しい事に胸の中にある嫌悪が晴れる事はなかった。


 この状況を不快に思っているのは、ディートハルトだけじゃなく、俺自身もそうだったからだ。


「…………」


 怒気を鎮める事に集中している間、部屋の中は恐ろしいぐらいの静寂に包まれていた。


 そうだ。

 朝は、いつだって新鮮な死を思わせる静寂であるべきだ。


 俺自身もそうだ。

 

 冷たくて青い朝の光が好きだ。


 鳥の囁き。無関心に通り過ぎて行く車のエンジン音。TVはいつもの女子アナがいつものように今日の天気を話題にしている。


 代わり映えする必要はない。静けさに集中力が宿る。いつもの時間が、いつもの力を約束するという事だ。


 シャワーを浴び、髭を剃って身なりを整える。


 鏡の前には、いつもの俺がいる。


◇◇


 才能は静けさによって磨かれる。


 性質は激流によって作られる。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 俺は右手で顔を拭った。


「……アビー、怒鳴って悪かった……」


「……うん、うん……こっちこそ、ごめんよぅ……」


「ゾイに言って伽羅を持って来させてくれ。後、風呂の準備だ。それからメシにする」


 それだけ言って、俺はベッドの上を睨み付けた。


「売女、じろじろ見ているんじゃない。筋肉ダルマにも言っただろう。二度と顔を見せるな」


 とんがり耳は、こいつは年頃でアビーなんかより余程年上のはずだが、何故か怯えを含んだ視線で俺を見つめている。

 震える声で言った。


「わ、私は売女じゃない……」


「知らんのか。男の寝所に無断で入り込む女を売女と呼ぶんだ」


 不潔な女だ。殊更、潔癖を気取るつもりはないが、行きずりの女と寝床を共にする趣味はない。


「……」


 そこで奇妙な沈黙があった。

 とんがり耳の顔が真っ赤になり、目尻がつり上がった。


「ここは、私の部屋よ。馬鹿野郎。ちょっと優しくしてやりゃ、ガキが調子に乗りやがって!」


「……」


 おっと、こいつは不味い。


 どうやら酷い行き違いがあるようだ。


 まぁ、神官の『雷鳴』は、度々こういったトラブルを呼び、行き違いを悪化させる。


 ……まぁ、早朝だ。寝惚けている事が多いからしょうがない。


 俺は自らの髪を掻き回した。


「そうか……それは、すまなかった。ディートハルト・ベッカーは己の否を認め、母(アスクラピア)の名の元に謝罪する」


 俺は右手で聖印を切り、胸に手を当てて静かに頭を下げた。

 ――正式な謝罪だ。

 まぁ、許されるとは限らんが。


「……」


 斯くして俺は沈黙を選ぶ。


◇◇


 賢き者は、そっと黙って居よ。


《アスクラピア》の言葉より。


◇◇


 俺が口を閉ざし、雷鳴を収めた所で漸くアビーが言った。


「ここは、アレックスさんのクランハウスなんだ」


「そうだったのか……」


「昨日、瘤を取ったろ? それで色々あったんだ」


「色々……?」


 曖昧な言い方に嫌悪の視線を向けると、アビーもそう思うのか、静かに首を振った。


「色々は、色々さ……。とにかく、あんたは寝床に酷く拘るし、あんたがアネットさんの部屋に居たのは、ここが一番いい部屋で、アネットさんの厚意なんだ……」


「そうか……そうだったか……」


 それを聞いて、俺は大きく溜め息を吐き出した。


「……アネット、さん。重ねて、申し訳なかった……」


 とんがり耳は小さく舌打ちして、漸く分かったか、と言わんばかりに強く鼻を鳴らした。

 まぁ、とにかく……


「アビー、お前が納得しているんなら、それでいい……」


 とんがり耳は、身体にシーツを巻き付けた格好で、ずっと俺を睨み付けている。


「……あんたはガキで偉そうだけど、安くて腕がいいからね……」


 それだけじゃないだろう。他にも狙いがある筈だ。アビーが『色々』と曖昧に言ったのには深刻な理由がある筈だ。

 先ず、それを知る所から始めよう。


「……筋肉ダルマは何処だ。筋肉ダルマと話がしたい……」


 ずっと引っ掛かっていた。

 俺の力で金を稼ぐ癖に、俺を隠そうとするアビーの行動には理由がある。それが恐らく、アダ婆が死ななければならなかった理由でもある筈だ。


 俺は、もっと『神官』というクラスの特殊性について知る必要がある。


 さて、意図せず垂らした釣り針に引っ掛かったのは大物か。


 それとも……

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