3 No.2ディ
アダ婆が死んだ。
それは間違いない。やったのはアビゲイル。通称アビー。『
◇◇
ぶっ倒れた俺は、女王蜂が率いる働き蜂のガキの手で近くの木賃宿に担ぎ込まれた。
耐え難い頭痛に目を開くと、心配そうに目尻を下げた鬼娘と目が合った。
「ああ、ディ。目を覚ましたのか!? 良かった。アビー!」
ぼんやりと霞む視界の中、アビーが俺の顔を覗き込む。
アビーは俺の手を取り、うっとりしたように頬擦りした。
「……ディ、良かった。あんたがあたしたち全員を、この糞溜めから引き上げるんだ。良かった……本当に良かった……あんたが、あたしたちの運命……」
この人殺しめ。
俺は、お前らの運命なんて妙なものになりたくない。
必ず逃げてやる。
「……ディ、あんたは三日も寝てたんだ。きっと、アスクラピアのお告げがあったんだ。あんな婆でも宣告師は宣告師。最後に祝福してくれたんだね……」
アスクラピアのお告げ? あれが?
《その者、全にして一つ。全にして多に分かたる》
《その者、多にして全。全にして永遠にただ一つなり》
《アスクラピアの二本の手》
《一つは癒し、一つは奪う》
アビーが優しげに問い掛けて来る。
「アスクラピアのお告げは、ちゃんとあったかい?」
「あった……」
短く応えると、アビーは微笑みを深くして周囲のガキ共を見渡した。
「ディ。その祝詞は、あんただけのものだ。その祝詞を捧げて、毎日、欠かさず祈るんだ。そうすればアスクラピアが全部を教えてくれる。くそったれの教会になんか行く必要はないさ」
そうだ。
俺はアスクラピアの敬虔なる使徒として祈らねばならない。
親愛なる母に祈りを捧げ、明日を生きる力を授からねばならない。
母は慈悲深く、そして嫉妬深い。捧げる祈りが強ければ強いほど、生け贄の祭壇に載せる供物の質が高ければ高いほどよい。
――しみったれた女だ。
母はケチ臭くて、しみったれている。血の滲むような研鑽を経て尚、全てを捧げて尚、ほんのちょっぴりしか力をくれない。
分かってる。全部分かっているんだ。
ディートハルト・ベッカー。
お前は、そんな女神を嫌って……
俺に、運命を全部押し付けて行ってしまったんだ。
◇◇
俺の祝詞は不完全だ。
途中で止まってしまっている。
きっと、アビーがアダ婆を殺してしまったせいだろう。
アダ婆は最期のその瞬間まで全てを伝えようと頑張ってくれたが、それは叶わなかった。
アダ婆……見知らぬ汚ならしい老婆。
安心するがいい。
母はケチ臭くてしみったれていて――復讐が大好きだ。
俺は心の中で祈る。
《アスクラピアの二本の手。一つは癒し、一つは奪う》
何も思い残す必要はない。
アダ婆。見知らぬ汚ならしい老婆よ。
痛烈な皮肉と苛烈な復讐は
いつの日か――
女王蜂には、この非道の報いがあるだろう。
俺は祝福の印を切った。
◇◇
明けて、翌日。
薄汚れた木賃宿の一室。大人なら四~五人と行った所か。それぐらいは入れる大部屋。ガキ共十人ほどがすし詰めになったそこ。
俺は一番上等なベッドの上で、アビーと抱き合うようにして眠っていた。
「アビゲイル……?」
この前、一緒に寝ていた鬼娘やドワーフ、猫娘に兎娘たちは、それぞれ別のベッドで固まって眠っている。アビーの命令だろう。
特別扱いはいいが露骨過ぎる。
悪には悪を。善には善を。これも因果の種になるだろう。
身体を起こすと、うっすらとアビーが目を開いた。
「おはよう……ディ。あたしの事は、アビーって呼んでおくれよ……」
馴れ馴れしい。だが……
「ああ、アビー……」
扱いが変わってやり易くなる。
今の俺は見た目こそチンチクリンのガキだが、中身はいい歳のオッサンだ。この
……まぁ、実際そうなるかならないかはこのアビーとガキ共次第だが……
◇◇
その朝、木賃宿の一室では、アビーがビスケットのような携帯食料をガキ共に分け与えていた。
「アビー。今朝は教会の炊き出しには行かないのか?」
「ん……」
振り返ったアビーの顔は、なんだか頬が窶れて見える。忘れていたが……
一丁前に殺しをやるようなやつでも、本来は大人の保護が必要な年齢だ。
「ちゃんとメシを食わせろ。これっぽっちで力が出るか」
手渡された三枚ほどのビスケットを指差して言うと、アビーはやけに素直に頷いた。
「そうだね。うん、そうしようか」
配給が倍に増え、ガキ共は大喜びだが、アビーは腰のポシェットを逆さまに振って苦笑している。
「これでもうオケラだよ……なんもありゃしない……」
アビーは泣け無しの食料を振り絞ったようだ。
ここの宿代と食料分で終わり。
そういう事だろう。それでも俺の言うことを聞くというのは、『神官』という立場が非常に優位なものであるという事が想像できる。
「金の宛はあるか?」
「……」
アビーは疲れたように首を振り、じっと俺の顔を見つめた。
「アダ婆にやった金は、どうした? 死人に金はいらんだろう」
「あたしも悪魔じゃない。持たせてやったさ……」
「そうか」
やりたくなかったが、やむを得ずという訳か。
異世界から来た俺にはよく分からないが、アビーが『
俺は暫く考えて――
「俺がやると言えば、方法はあるか」
その俺の言葉に、アビーはぱっと笑みを浮かべて頷いた。
「アンタがそう言うなら、うん!」
最初から当て込んでいただろう。そうじゃなきゃ、この扱いの良さの説明にはならない。
ガキ共はとっくの昔に食い詰めてる。
俺がなんとかできるなら、俺がなんとかするしかない。そして、俺の中のディートハルト・ベッカーは『できる』と言っている。
とりあえず――
俺は何ができて、何ができないのか。
それを知る事から始めなきゃいけない。
◇◇
ガキ共を引き連れ、アビーは宿を引き払った。
風に乗って砂の匂い。
見上げると、中空に浮かぶ太陽がギラギラと目に痛い。
夜は凍てつくほど寒く、日中は灼けつくように暑い。
『人間』の俺には過酷な環境だ。アビーに拾われなければ死んでいただろう。個人的な感情は別にして、俺はアビーに恩があった。
「それで、どうすればいい」
アビーは小さく頷いた。
「ヒール屋をするんだ」
そこからのアビーの立てた作戦はこうだ。
俺……ディートハルト・ベッカーには『神官』として『アスクラピア』の力がある。
代表的な力は、闇を祓い、傷を治す癒しの力だ。『レベル』が上がれば他にも色々出来るようだが、今は何も分からない。俺の中のディートハルトも答えてくれない。
単に癒しの力を使うだけなら、神官の下位職に当たる『癒者』というクラスがあるそうだが、『神官』はその癒者の上位互換に当たるそうだ。
「ディ。アンタの力で一稼ぎするんだ」
「それが金になるのか?」
「ああ。教会で癒しを受けられるならそれが一番だけど、喜捨とかいうクソ高い寄付金を要求されるからね。モグリのヒーラーはクソほど居るし、それに混じって一稼ぎさ」
言葉にすれば簡単だが、果たしてそう簡単に事が運ぶだろうか。
「客はあたしが引っ張る。後はディ、アンタの出番だ」
そこで鬼娘が衣服の袖を引っ張った。
「できんのかよ?」
「やるさ」
生きる為に何かやらなきゃいけないのは、何もこっちの世界だけの話じゃない。あっちじゃ上手くやって来たんだ。こっちでも変わりゃしない。
「上手く行けば、あんな下水道とは、おさらばさ」
「そうか」
なら、最低限、住む場所に食い物ぐらいはなんとかしたい。あの場所に留まるようじゃ、『人間』の俺は、そんなに長くない。
「……」
ふと違和感を覚えて辺りを見回すと、十人近いガキ共の視線が俺に集中している。
アビーが言った。
「ディ、これからアンタがNo.2だ」
その地位に価値があるとは到底思えない。でも、なんとかしなきゃ俺も浮浪児の仲間入りだ。そんな事は御免被る。
俺は応えず、右手で聖印を切った。
――
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