【06】
光がカウンターの中で食器を洗っていると、店の扉が開きスーツ姿の男が3人入って来た。
「いらっしゃい」
そう言いながら男たちに目を向けると、後ろの2人は昨日、公安と名乗った連中だった。
――来やがったか。
光はそう思って、先頭の男を見る。
背は後ろの2人よりかなり低い。色白のぽっちゃり童顔。髪は細めのくせ毛で、額のところでくるりと巻いている。
――こいつ何かに似てるな。
光がそう思っていると、男が横柄に名乗った。
「警視庁公安部公安第三課長の久比だ」
「キューピー?!」
光が咄嗟に叫ぶと、隣でおっちゃんが手にしたお玉を取り落とす。そしてそのまましゃがみ込んで、肩を震わせ始めた。相当ツボにハマったらしい。奥さんに至っては、お腹を抱えて大笑いし始めた。
その様子を見た男は、顔を真っ赤にして怒り出す。
「きゅうひ、だ!ひ!間違えるな」
キューピーと呼ばれるのが、相当嫌なようだ。
「きゅう『ひ』さんね。それで何の用?」
『ひ』の部分を強調しながら、光はまた笑いだしそうになるのを堪える。
――だって見た目、まんまキューピーじゃん。
久比と名乗った男は光のその様子に、益々怒りを募らせたようだ。
「あんたが蘆田さんかね。きのうこの2人が、ご同行願ったのに拒否したそうだね。それは警察に協力する気がないということかね?」
その時奥さんがカウンターにコップの水を置きながら、今にも笑い出しそうな表情で言った。
「お客さん。立っていないで、どうぞお掛け下さい。ところでご注文は?」
――奥さん、公安相手にいい度胸してんな。
光が感心していると、久比は遂に切れた。
「お前たちは、警察を舐めてるのか?わざわざラーメン食べに来る訳ないだろうが!」
しかし奥さんは動じない。
「いや、そんなこと言われましても。うちはラーメン屋ですんで。ラーメン食べて頂かないと」
久比は予想外の反応に絶句した。くりくりした目を更に大きく見開いた様子は、益々キューピーそっくりだ。
久比は反応に困って少し顔を歪めたが、仕方ない様子でカウンター席に座る。
「じゃあ、ラーメン食べてやるから、さっさと作りなさい」
「味の方は?」
「そんなの、何でもいいから、早く作れ」
「それじゃあ、醤油でいいですかね。後ろのお二人も同じでいいですか?」
奥さんが訊くと、2人は顔を見合わせた。
「この2人はいいよ。私の分だけで」
すると光はすかさず口を挟んだ。
「いやあ、お客さん。ラーメン食わずにそんなところに突っ立ってられると、商売の邪魔なんですけど」
久比は彼女を睨んで何か言いかけたが、すぐに諦めて部下らしい2人に言った。
「君たちは、外に出てなさい」
2人は言われるままに店を出て行く。そして久比は仕切り直すように光を睨んだ。
「蘆田さん。さっきも言ったが、あんたは警察に協力する気はないのかね」
しかし光もめげない。
「それよりさあ。1個訊いていい?」
「何だね?」
真顔で訊かれた久比はつい、ペースに乗ってしまった。
「久比さんと伊野のオッサンって、どっちが偉いの?」
「は?」
「だから、警察って階級とか決まってるんでしょ?どっちが上?」
久比は一瞬、物凄く嫌そうな顔をしたが、ぼそりと呟いた。
「彼は警視長で、私は警視正」
「で、どっちが上なの?」
既に察しはついていたが、光はさらに追い打ちをかけた。
「警視長の方が1つ上!しかし、そんなことあんたに関係ないでしょ!」
「はい、醤油お待ち」
久比が切れた瞬間、おっちゃんが絶妙のタイミングで、ラーメンをカウンターに置いた。
「冷めないうちのどうぞ」
すかさず奥さんが合の手を入れる。
久比はまたもや気勢を削がれ、憮然とした表情でラーメンの鉢を取った。そして仕方がないという顔で、麺をすすり始める。
光は、そろそろ揶揄うのは止そうかと思い、
「あんたらが、あたしに訊きたいことって、ストーカー、沢渡のことでしょ?」
と声をかける。途端に久比は麺を少し噴き出して、光に顔を向けた。
「残念だけど、あんたらのご期待には沿えないわ。だって、あたしは名前以外にあいつのこと全く知らないから」
光が畳みかけると、久比は途端に顔を真っ赤にして言い返す。
「嘘をつくな。あれだけあんたに付きまとってる男のことを、知らない訳がないじゃないか」
「いや、知らんもんは仕方がない。あいつが勝手に付きまとってただけだから」
「じゃあ、何で連中が」
そこまで言って久比は口を噤み、しまったという表情をした。光はそれを見逃さない。
「連中って、あの黒服の奴らのこと?あいつらのことも、あたしは全然知らんよ。そもそも、何であんな連中に狙われるのか、全く意味が分からん。こっちがあんたに訊きたいくらいだわ」
久比がさらに何か言おうとした時、店の外で誰かが騒ぐ音が聞こえて来た。そして店の扉が開き、見上げるような大男が入って来る。
「あ、自衛隊のオッサン」
その男は、志賀武史(しがたけふみ)二等陸佐だった。外の騒ぎは、店に入ろうとする志賀を、公安の2人が止めようとしたらしい。
「嬢ちゃん。久しぶりだな」
そう言いながら、志賀は久比の1つ開けて隣の椅子に腰かけた。そして久比は何故か彼から顔を背けるようにしている。
その様子に気づいた志賀は、久比の顔を覗き込んだ。
「なんだ。誰かと思えば、キューピーじゃねえか。お前、こんな所で何してんの?」
途端におっちゃんがお玉を取り落として、しゃがみ込んだ。どうやら笑い上戸らしい。
「ああ、志賀君。久しぶりだね」
久比は物凄く嫌そうな顔をしながら、志賀に返した。
「オッサンたち、知り合い?」
「ん?ああ、こいつとは大学の同期だ」
「マジ?ということは伊野のオッサンとか、大蝶のオッサンとかも同期ってこと?」
「おお、そうなるな」
2人のやり取りの間、久比は無言でラーメンをすすっている。相当志賀が苦手な様子だ。
「ところでオッサン、今日は何の用?」
「何の用はないだろう。ラーメン屋にラーメン食いに来る以外、何の用事があるよ」
志賀の言葉に、光と奥さんが大きく頷いた。
「ところでキューピーよ。さっきの質問だが、お前ここで何してんの?まあ、ラーメン食ってるのは見りゃ分かるけど。お前がそんだけの用事で、わざわざ台東区まで来ることはないよな?」
志賀は自分のことは棚上げして、久比を問い詰める。光がすかさずそこに口を挟んだ。
「何か、ストーカーのことを、あたしに訊きたいんだって。だから、あたしは何も知らんって言ってんのに、そんな訳ないだろうって。しつこいんだわ。このキューピー」
「あんたにキューピー呼ばわりされる覚えはない!」
久比が顔を真っ赤にして席から立った。それでも座ったままの志賀に背が届かない。
「まあ、落ち着けよ」
志賀が肩を抑えると、その圧力に負けたのか、久比はストンと椅子に落ちた。
「ストーカーってのは、あの時保護した坊やのことか?」(ストリーム参照)
「そうそう」
「おい、キューピーよ。多分この嬢ちゃんは、本当のこと言ってるぞ」
「何で君にそんなことが分かるんだよ?」
久比は口をとがらせて抗議するが、志賀には通じない。
「俺の勘だよ」
「はあ?」
「俺の勘。お前知ってるだろ。こういう時の俺の勘が外れたことはないって。違うか?」
最後は半ば脅迫である。
――公安脅迫して大丈夫なんか。
光は思ったが、意に反して久比はあっさりと引き下がった。
「分かったよ。でも、蘆田さん。あんたのことは監視対象にするからね」
そう宣言して久比は席を立つ。ラーメンはきっちり食べ終わったようだ。
――よっぽどオッサンが怖いみたいだな。
光がそう思って、出て行こうとする久比を見ていると、奥さんが声をかけた。
「あのキューピーさん」
「何?」
怒って振り向く久比に、奥さんは手を差し出した。
「ラーメン代、800円です」
久比は一瞬顔を引きつらせたが、ポケットから財布を出すと、きっちり小銭で800円を支払った。
久比が出て行くのを見計らって、志賀が光に警告する。
「嬢ちゃん。一応言っとくが、あのキューピーって奴は、小物だけどしつこいぞ。おまけに陰気で根に持つ奴だから、あんまりおちょくるのは止した方がいいな」
――あんたには言われたくないわ。
光は思ったが、口には出さない。
「ところでオッサン、何ラーメン食べるの」
「おお、そうだった。塩の大盛りで頼むわ」
「はいよ。塩大盛りね」
おっちゃんが注文を繰り返す隣で、奥さんが心配そうに声をかけてきた。
「光ちゃん、ややこしいことに巻き込まれてない?大丈夫?」
「全然平気っすよ。ご心配なく」
本当は多少不安だったが、心配かけたくないので、光は笑顔でそう答えた。
志賀は塩ラーメン大盛りをあっという間に平らげると、帰り際にメモを光に手渡した。
「そこに俺と伊野の番号が書いてあるから、何かあったら電話寄こしな」
そして、「美味かったよ」と一言おっちゃんに声をかけると、店から出て行った。
――今日わざわざ来たのは、伊野のオッサンに何か言われたのかな。そうでなきゃ、あのオッサンも、わざわざ台東区までラーメン食べに来るはずないよね。
そんなことを考えながら後片付けをしていると、店の扉が開いて、小柄な男が入って来た。
――今日はやたらチビッ子の客が来る日だな。あ、オッサンはでかいけど。
男は光の前に座ると、味噌ラーメンを注文した。
ラーメンを食べ終わると、男は光に向かって小声で呟く。
「蘆田光さん。沢渡さんから伝言があるんですけど」
「何?」
「あ、あんまり反応しないで下さい。外にスーツ姿の人がいたんで」
そう言うと小男は1000円札と一緒に、紙切れを手渡した。
「後でそれを読んで下さい」
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