【05】
蘆田光が警視庁に呼び出されてから1週間後。
「今日も沢渡さん、来なかったねえ。どうしちゃったのかしら」
『萬福軒』の奥さんが心配そうに呟いた。おっちゃんもそれに頷いている。
「光ちゃん、沢渡さんの電話番号とか知らないの?」
「知りませんよ、奥さん。前にも言いましたけど、あいつとあたしは全く無関係なんですって」
「そんなことないでしょうに」
光は慌てて否定したが、奥さんはニコニコ顔で受け付けない。困ったものだ。
来たら来たで鬱陶しいのだが、全く来ないとなると、少しは気にかかる。
おまけに警視庁に呼ばれた時の、大蝶斉天の反応が妙に気に掛かっているのだ。
――あのオッサン、何でストーカーの名前を、あんなに気にしてたんだろう?
そう考えると、沢渡が何か事件に巻き込まれているような気がしてならない。
そしてバイトの帰り道。
彼女の行く手を遮るように、ダークスーツの2人が立ちはだかった。
――最近道歩いてて、よく絡まれるよなあ、まったく。
光はうんざりしながら思った。
「蘆田光さんですね?」
ダークスーツの2人は、予想通りの決まり文句を言う。
「違います。人違いじゃないですか?」
光が答えると、男たちは面食らったような顔をした。想定外の反応だったらしい。
「い、いや。蘆田光さんですよね」
「分かってるなら、わざわざ聞く必要ないんじゃないの?何の用?」
「あ、いや。少しお訊きしたいことがありまして。警視庁までご同行いただけませんか?」
「それって任意?じゃあ腹減ってるんで、お断りします」
その対応に2人はまたもや絶句する。
実はこの対応、篠崎渚の受け売りだった。
「この前のオッサンたちの話だと、公安とかが絡んでくるかも知れんから、こんな感じでいっとこうか」
とても軽いノリで言って、渚はほくそ笑んだのだ。
――こいつ絶対面白がってやがるな。
そう思ったが、実際役に立ったので文句も言えない。
「そう言わずに、ご協力下さいよ」
スーツの2人はそう言って、強引に光を連れて行こうとする。これまでは、そのやり方で通用したのかも知れないが、しかし今回は相手が悪かった。
「きゃあ。痴漢ですよ。助けて。痴漢ですよ」
光が大声を上げると、周囲を歩いていた通行人が一斉に注目する。公安の2人がその状況に狼狽えた隙を狙って、光はいきなりダッシュでその場から駆けだした。
「痴漢」と叫ぶのも忘れない。
俊足を飛ばしてマンションに駆け込んだ光は、既に帰宅していた渚に状況を話した。途端に渚は、ワクワクした表情を浮かべる。その笑顔は、この上なく邪悪そうだ。
「そいつら、絶対ここまで来るな。後はあたしに任せなさい」
暫くすると、案の定インターフォンが鳴った。
渚が、「どなた?」と聞くと、
「蘆田光さんのお宅ですか?」
と、さっき公安と名乗った奴が訊いてきた。しかし渚には通じない。
「だから、どなた?」
その応えに相手は一瞬沈黙したが、気を取り直したように続けた。
「警視庁公安部の者です」
「名前は?」
相手はその反応に一瞬沈黙する。
「名乗らないんだったら、切るよ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。私、警視庁公安部の田中という者です」
慌てふためいて相手が答えると、即座に渚が返す。
「証拠は?」
光はその様子を横で見ながら、
――完全に嬲って楽しんでるな、こいつ。
と思って、思わず吹き出しそうになった。しかしここで声を出すのは不味いと思い、口を押えて俯く。
「あんたねえ。いい加減にしなさいよ。こっちは遊びで来てるんじゃないんだから」
田中と名乗った男が切れ始めたようだが、渚は頓着しない。
「こっちもオッサンと遊ぶ趣味はないんだけど。さっさと証拠見せてくれないかなあ」
渚の塩対応に、マイクロフォンの向こうで、何か話し合う声が聞こえた。そしてカメラに警察手帳らしきものが映る。
「これでいいかね」
続いてぶっきらぼうな声が聞こえてきた。相当頭にきているようだ。
「ふうん。それで何の用?」
それでも渚の塩対応は続く。
「だーかーらー。蘆田光さんはいませんかって聞いてるの」
「いないよ」
「嘘をつくな!さっきマンションに入って行くのを、こっちは確認してるんだ」
――あ、オッサン切れた。
そう思った光は、遂に腹を抱える。
「マンションに入ったからって、部屋にいるとは限らんでしょ。あいつ、マンションに帰ってきたら、部屋に入る前に階段上り下りする趣味があるの。今頃途中で一休みしてるかもね」
「貴様、警察舐めとんのか!」
「悪いけど、オッサン舐める趣味もない。キモイんで。それよりこの会話、全部録音してるからね。警察が一般市民の、しかも若い女の2人住まいにいきなり押しかけて脅しかけんのって、ネットに上げたらトレンド入り間違いなしだね。後で拡散しとくわ」
「なっ!」
絶句する田中に代わって、別の声がした。
「あなた、蘆田さんの同居人の篠崎さんですね。ご協力頂けないようなので、今日は引き上げることにします。ご忠告しておきますが、伊野参事官のお知り合いだからと言って、あまり調子に乗らない方がいい。蘆田さんにも、そうお伝え下さい」
「気を付けまーす」
即答した渚は、即座にインターフォンを切った。途端に光が大爆笑する。
ひとしきり笑った後、光は真顔に戻って言った。
「しかしあんた、あんなにおちょくって大丈夫かな。公安って、一般市民を引っ張って行って、拷問するとか言ってなかったっけ?あんたまで目ぇ付けられるんじゃね?」
「流石に拷問まではせんでしょ。伊野のオッサンもそう言ってたし。それに、あんたが目ぇ付けられた時点で、あたしも間違いなく目ぇ付けられてるだろうしね」
「それにしても何であいつら、あたしを連れて行こうとしたんだろ?」
「やっぱ、ストーカー絡みだろうな。大蝶のオッサンも妙に気にしてたし」
「あんたもそう思う?しかし、あたしに訊かれても、名前くらいしか答えられないんだけどなあ。よく考えたら、あたしら、あいつのことなんて全然知らんよね。今日も『萬福軒』の奥さんに訊かれたけど、あいつの電話番号すら知らんし」
「知りたいん?だったら今度訊いてみたら?」
「あほか!別に知りたい訳じゃないわ。まったく」
「あ、でもちょっと顔赤いよ。あんた」
「嘘つけ!」
そう言いながら光は、思わず頬に手を当ててしまった。
それも見ながら、ニヤニヤ笑っている渚の顔が、とても腹立たしい。
――まったく、こいつだけは。
光はそう思ったが、口では何を言っても敵わないのは重々承知だ。
「ああ喉乾いた」
そう言ってその場を誤魔化すと、冷蔵庫から缶ビールを取り出しに、席を立つ。
「あたしのもよろしく」
背後から渚の声がかかった。
そして翌日。
『萬福軒』のお昼のピークが過ぎて、後片付けを始めた時、店の扉が開いて、そいつが入って来た。
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