【07】
帰宅した蘆田光(あしだひかる)は、今日の出来事をルームメイトの篠崎渚(しのざきなぎさ)に話して聞かせた。
渚は公安の久比(きゅうひ)という、キューピーそっくりなくせに妙に横柄な小男が『萬福軒』に押しかけて来たことや、その後やって来た自衛隊のオッサン(志賀武史(しがたけふみ)二等陸佐)との掛け合い、そして最後にストーカー沢渡裕(さわたりゆたか)からの伝言を持ってきたことなどを順番に説明する。
前半部分では大爆笑していた渚だったが、沢渡からの伝言のくだりになると、真顔に戻っていた。
「それで、メモには何て書いてあったん?」
「明日、浅草寺まで来いってよ」
光はそう言いながら、メモを渚の前に置いた。
「昼の1時過ぎね。で、どうすんの?」
「行かな、しゃああんめえ」
渚はその返事に少し考え込む。
「でもさあ。あんた公安に目え付けられてんじゃん。絶対、後つけてくるよね」
「そこなんだわ、問題は。そこで渚先生に悪知恵を出していただきたいと」
「悪知恵って何だよ。それが人にものを頼む態度かね?まあ、面白そうだからいいけど」
そう言いながら渚は少し考え込んだが、やがて邪悪な笑みを浮かべて、親友の顔を覗き込んだ。その顔は、なまじっか美形なせいで、余計に邪悪さが際立っていた。
***
翌日の昼過ぎ、光は浅草寺の境内にいた。朝起きた時から例の頭痛がして、今も続いている。それは身の回りに良くないことが起きる前兆だった。
――公安にはつけられてないよな…。
光につきまとっていた公安の刑事は、ここに来る途中でまいたはずだ。
昨晩渚が考えた方法は、単純な入れ替わりだった。
まず光が目立つ格好で、先にマンションを出る。
服装は、一張羅に近い明るめのワインレッドのロングコートに黒のパンツ。普段は持ち歩かない、ピンクのトートバッグを手にぶら下げる。これで人目を惹くこと確実だ。
マンションを出ると、さも周囲を警戒する様子できょろきょろ見まわす。そうして張り込んでいる公安に顔をしっかり晒した後で、大き目のサングラスをかけ、Lサイズのマスクで顔を覆った。これで中身が入れ替わっても、ばれないという寸法だ。
光が出た10分後に、今度は渚が黒のパンツだけお揃いの、控えめな服装でマンションを出る。そして光と待ち合わせていた、近隣の大規模ショッピングモールに入ると、予定通りトイレに向かう。モール内をぶらぶら歩いていた光も、渚に続いてトイレに入り、素早くコートとバッグ、サングラスを手渡し、自分は渚が着ていたグレイのダウンに着替えて、黒のリュックを背負った。
2人は背格好がほぼ同じで、渚の方がややスリムだがコートで誤魔化しが利く。長さは少し違うが、2人とも髪を染めていないので見分けはつきにくいだろう。
これで中身のすり替えは完璧だ。
5分ほどして先に渚がトイレを出て、公安の尾行を引き付けると、そのまま駅に向かった。そしてさらに5分後、光はトイレを出るとタクシーを拾った。
後から聞いたことだが、渚は電車の女性専用車両に乗り込んで、2駅ほど過ぎたあたりでサングラスとマスクを外して、公安に顔を晒したらしい。
隣の車両から渚を見ていた田中が、驚いて目を剝いていたそうだ。
気の毒な田中刑事は、同僚が止めるのも聞かずに我を忘れて女性専用車両に乗り込んでくると、渚に詰め寄ろうとしたらしい。そこをすかさず渚が「痴漢」と叫び、例によって股間に強烈な膝蹴りを叩き込んで、悶絶させてしまったようなのだ。隣の車両に残っていた相棒の刑事は、慌てて女性専用車両に飛び込んで来ると、乗客を掻き分けて股間を抑えて蹲る田中刑事にかけよったそうだ。
そして2人に冷笑を向けた渚は、ちょうど到着した駅で電車を降りると、悠々とその場から去って行ったらしい。
――こいつって、マジでたち悪いよな。
話を聞いた光は、しみじみと思ったのだった。
「光さん」
浅草寺の境内を歩いていた光が振り向くと、そこには帽子を目深にかぶり、顔の半分以上をマスクで覆った小男が立っていた。
沢渡だ。
「光さん。ここだと人目につきますんで、あちらに移動しませんか?」
そう言って沢渡は光を境内の隅へと誘導する。
「光さん。ご迷惑をおかけしました」
「それはもういいけど、お前今までどこにいたの?」
「後輩のところに匿ってもらってるんです。ああ、昨日光さんにメモを渡した彼です。小宮山修平(こみやましゅうへい)君と言って、僕の大学の後輩なんです」
「お前って、大学生だったの?」
「ああ。今は大学院に通ってます」
「大学院。すげえ」
光は妙なところに感心する。
「そ、そんなことよりも。光さん、連中に何かされませんでしたか?」
「連中?ああ、あの黒服の奴らね。道歩いてたら絡んできたから、渚と2人でボコってやった」
「ボコってって。さすがですね」
「それよりお前、何したの?公安がお前のこと探してたぞ」
「公安って、公安警察ですか?」
「そう、その公安。今日もここに来る時、渚と組んで、まいて来たけどね」
それを聞いた沢渡は目を丸くした。
「はあ。光さんと渚さんて、もう何でもありですね」
「そんなことはどうでもいいからさ、お前何やって黒服とか公安に狙われてんの?」
「いやあ、僕も何が何だか、訳が分からないんですよ。2週間くらい前に大学から帰ろうとしたら、突然黒服の人たちに連れ去られそうになって。必死で振り切って逃げれたんですけど」
――そう言えばこいつ、逃げ足だけは抜群に早かったな。
光は話を聞きながら思った。
「それで、マンションの近くまで行ったら、待ち伏せされてるのに気がついて。取り敢えず小宮山君の所に逃げ込んで、匿ってもらったんです」
「それからずっと、その小宮山って子の所にいるんだ。何ですぐに警察に保護してもらわなかったんだよ?」
「いやあそれが。うちは警察嫌いの家系でして。警察に保護されたなんて言った日には、親父から勘当されてしまうんですよ」
「はあ?お前んちは親子そろってバカなの?」
「違うんですよ、光さん。うちの親父、昔バリバリの学生運動の闘士やってて、機動隊とバチバチにやり合ってたとかで。その時に警察から受けた傷が、梅雨時になると、じんじん痛み出すらしいんです」
「つまり根に持ってると」
「まあ、端的に言えばそうなんですが。そんな親父に物心ついた頃から、反警察教育を受けているんで、いつの間にか僕もそうなってたというか」
――この親子は絶対バカだ。
光は確信した。
「それでお前、これからどうすんの?」
「そこなんですよ。光さん、警察にお知り合いがいるって、『萬福軒』の奥さんから聞いたんですけど」
「ん?あたしあの人に、そんなこと言ったっけ?」
光は首を傾げた。
「まあいいや。それで?」
「光さんの方から、その警察の方に頼んでもらって、あの黒服の人たちの素性を探ってもらえませんか」
光は、「何であたしが」と言いかけて、ぐっと堪(こら)える。よく考えてみると、沢渡には<ストリーム>災害の時に一度助けてもらっていたのだ。
――まあ、伊野のオッサンに頼んでやるくらいはいいか。
そう思っていると、突然後ろから声がかかった。
「光ちゃん?」
振り向くと『萬福軒』の奥さんが立っていた。
「あら、あなた。沢渡さんじゃないの」
奥さんは沢渡にも気づいたようだ。
「あ、奥さん。ちょっとこれには事情があって」
光がそう言った途端、黒服の男たちが数名、2人を囲むようにして現れた。
反射的に光が、沢渡を逃がそうと動きかけた時、腰にしがみついた者がいた。
光が見ると、それは『萬福軒』の奥さんだった。
「光ちゃん。ごめんね。本当はこんなことしたくないんだけど。ごめんね」
奥さんは必死にしがみつきながら、済まなさそうに言った。
光が唖然としている間に、沢渡は男たちに連れ去られて行く。声も出していないところを見ると、スタンガンか何かで気絶させられたようだ。
それを呆然と見送る光に、『萬福軒』の奥さんはひたすら謝り続けていた。
***
目の前で沢渡を拉致された光は、事情を訊くために取り敢えず『萬福軒』に向かった。
店には臨時休業の札が掛けられている。
店の中に入ると、おっちゃんがカウンターの向こうで立ち上がって2人を迎えたが、すぐに顔を伏せて座り込んでしまった。どうやらおっちゃんも事情を知っていたらしい。
光がカウンター席に座ると、奥さんも隣の席に腰かけた。
暫くの間、店内に決まずい空気が流れたが、やがてそれを嫌うように光が口火を切った。
「奥さん、どうしてあんなことを」
「本当にごめんね。でも仕方がなかったのよ。娘に泣きつかれて、どうしようもなくて」
涙ながらに奥さんが語った経緯はこうだった。
おっちゃんたち夫婦には娘さんが1人いて、おっちゃんたちが名前も知らないような宗教に入信しているらしい。そしてその教団が、何故か沢渡を探していたのだ。娘さんもその理由を聞かされていなかったので、おっちゃんたちにも何故沢渡を探しているのか、理由は分からないらしい。
そこへ光が『満腹軒』でバイトするようになり、それを嗅ぎつけた沢渡が店に足繫く通ってくるようになったことを教団に知られたことが、今回の一連の騒動の発端だったようだ。
沢渡を拉致しようとして失敗した教団は、今度は光に目を付けて連れ去ろうとして、また失敗した。それ以来、娘さん経由でおっちゃんたちから、光の情報を得ようとしたようだ。表立って動かなくなった理由は、公安が動き始めたからだろうと光は思う。
そして昨日、小宮山が持ってきた沢渡のメモの中身を、偶然奥さんが目にしたのが、今日の事件に繋がったようだ。奥さんは何の意図もなく、いつも通り娘さんに伝えたらしい。しかし娘さんから情報を得た教団は絶好の好機ととらえ、光たちを待ち伏せしていたのだ。そしてあろうことか、光の足止めのために、奥さんを引っ張り出したのだ。
奥さんは最初断ったそうだが、教団のトップに呼ばれて直接指令を受けた娘さんに泣きつかれて、しぶしぶ従ったようだ。
奥さんは話し終わった後、さめざめと泣き続けている。
「奥さん、でもね。ストーカーの奴は、攫われた後、何されるか分からないじゃないですか。それなのに」
「違うの。沢渡さんには乱暴なことを絶対しないって言うから」
さらに光が言いかけた時、店の扉が乱暴に開いた。
そこには顔を真っ赤にした、公安の田中刑事が立っていた。
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