中庭


 白い月明かりに照らされながら彼は悠々と進んでいく。

 迷いなどひとつも感じられないその歩みは、何だか見ていて気持ちの良いものだった。時折見えるものが気になってその都度足を止める私に、歩みを合わせてくれる。それどころか彼は前と変わらず私に多くの話をしてくれた。私が知りたいといったことに十分と言えるほどの答えをくれる。「女は知らなくて良い」なんて言わない。私の持つ知識を、素直に凄いと褒めてくれる。そのことは私の好奇心に更に火をつけた。


「王宮には広い中庭があると聞いたことがあるの」


 聞きかじった知識が真実なのか知りたくなって尋ねる。


「ああ。すぐ近くだ。案内しよう」


 反射的に答えが返ってきて、相手の歩く速さが増す。私はそれを追いかける。

 言われるままに知らない抜け道を通り、話でしか聞いたことがない王宮の中庭が目の前に現れて私は思わず息を飲んだ。


「すごい……」


 中庭には広い泉があり、頭上の夜空をそのままそっくり映し出していた。

 頭と足下に星々があった。星々の間に私たちは存在している。ふわふわと浮くような感覚がある。空にも足元にも幾千の星が永遠と続いて瞬いている。

 ああ、なんて私はちっぽけな存在だろう。


「夢を見てるみたい」


 他に言葉を見つけられない私に、彼は満足げに胸を張った。


「良いだろう。昼も良いが、夜は格別だ」


 相手は更に進んで水面のすぐ傍の白い床に腰を下ろし、「ここに座ったら良い」と私に自分の隣を勧めた。


「でもあなたが威張るところではないでしょう。ここは王家のものなのだから。あなたがここを整備しているのなら話は別だけれど」


 まるで自分のものだと言わんばかりだった。


「そうだとしたら?」


 にやりと口角を上げながら放たれた、思いがけぬ返答に言葉を失う。本当にこの人は庭師なのか。


「そう、なの?」

「さあ」


 彼は答えをはぐらかし、口角を上げたまま空を仰ぐ。

 その様子はこちらの反応を楽しんでいるようでもあった。

 質素な成りでありながらこれだけの王宮における知識を持っているとは、王子の乳兄弟だろうか。乳母の息子や、王の側近の息子でもあるかもしれない。


 だが彼はそれ以上私に自分のことを尋ねさせなかった。

 私自身も尋ねなかった。尋ねたら、もう会えないようにも思えた。

 彼が聞かれたくないと思っているのなら仕方がない。

 身分を明らかにしてしまえば、互いに一緒に居られない相手かもしれない。

 そこまで考えて、はたと思う。

 身分など考えなくて良い時間があってもいいではないか。今が楽しい。それ以外に今の私には何もないのだから。それだけでいい時間があっても良いのだから。


 相手から少し離れたところに私も腰を下ろした。

 大きく息を吸う。水面を覗いて、指先で触れれば、空の星々を映したまま波紋を作って広がっていく。夜空が波打つようだった。

 夜に泉を覗いたことがなかった。何もかもが新鮮で、子供のようなことをしては楽しさを覚えた。それを彼に話したら、「とんだ箱入り娘だな」とからかわれた。

 他愛のない話をする。細かい疑問を尋ねてみる。

 彼は嫌な顔ひとつすることなく答えてくれた。それが嬉しかった。不思議なことに、まるで遠い昔から知っていた相手のように話が弾んだ。


 その時不意に、誰もいないはずの暗がりの向こうから足音が聞こえてきて顔をあげた。

 誰かがこちらに走って向かっている。

 同じく足音に気付いたらしい彼は、素早く立ち上がると私の手を掴んで大きな柱の影に引き込んだ。


「どうしたの?急に何?」


 突然のことで驚き、ぐっと近づいた相手の身体を押した。


「静かに」


 人差し指を立てて声を出さないよう注意され、咄嗟に口を噤む。身を隠すように互いに身体を寄せて息を潜めた。


「王子いいいいい!!!」


 やがて自分と年の近い男性が中庭まで走ってきた。王家の従者だろうか。


「王子いいい!!!」


 泉全体に叫ぶようにして呼びかけている。王子を探しているらしい。


「どこですかあ!!!」


 今にも泣きそうな声だ。


「誰が叱られると思ってるんですううう!もうおおおおおお!あのお調子者!」


 ふええ、と情けない声をあげて、その人はこちらに気づかず通り過ぎていった。


「……王子殿下を探していらっしゃるのかしら」

「どうやらそのようだ」


 走り去っていくその人の背中を眺め、柱の影から出ながら彼は頷いた。


「泣きそうだったわ」

「泣きそうだったな」


 愛想無く相手は答える。


「何だか可哀想」


 あれほど泣きそうになって叫んでいたのだ。

 宴に王子が現れないと苛立っていたヘルネイトを思い出す。もしかすればあの青年は、皆に言われて必死に王子を探しているのかも知れない。


「どうして王子殿下はおいでにならないのかしら。ご体調が優れないのかしら」


 父王が病に伏せって、大きな責任を背負う立場になり、体調を悪くしているのかもしれない。そう思った私に、隣の青年は「いや」と否定した。


「責任感がないのだろう。皆もそう言っている。父親が病に伏せって真面に動けないのに、王子は姿も現さずにうろうろ動き回っていると。王子の噂に良いものはない」

「あなたはお会いしたことがあるの?」


 振り返って問うと、相手は虚を突かれたような顔をした。


「お会いしたことがないのならそう言うものではないわ。とても良い方かも知れない。噂に左右されては駄目よ」


 相手の返答を待たぬまま、私は王子の側近と思われる人物の背中に視線を戻した。

 彼は回廊を行ったり来たりして、「王子いいいい!」と未だに呼びかけては地団駄を踏んで、「あのお調子者」「あのぼんくら王子」と悪口を並べまくっている。そんな姿を見た女官たちが、くすくす笑い合っていた。

 王家の方々の耳に入れば一大事だと思えるのに、こんなにもほっこりとした光景を眺めていたら、私まで小さく笑わずにはいられなかった。


「私は一度も王子殿下にお会いしたことはないけれど」


 振り返ると、なんとも言えない表情をした相手がいた。


「きっと王子殿下はお優しい方なのよ。だって、あの人ったら女官たちの前であんなに自由に悪口を言ってるんだもの。その悪口が王子の耳に入っても許してもらえるってことだわ」


 どうだかと肩をすくめて見せたその人は、私の背を押した。


「もう良いだろう。先へ行こう」



 やがて宴が終わる時間がやってきた。今回は席を抜け出した時間が遅かったのもあって、あっという間に二人の冒険は終わりを迎えてしまった。

 帰り道を教えてもらいながら、あとは真っ直ぐ回廊を進むだけで良いという道まで出て来た。これならば私一人でも戻れる。


「ティイ」


 別れ際、名を呼ばれてどきりとする。振り返った闇の中で、彼は囁くように告げた。


「私は宴の席ではそなたに会えない」


 囁くようでありながら、その声ははっきりと私の耳に届く。


「……どういうこと?」


 咄嗟に眉を顰めた。彼は穏やかな表情で私を見ている。


「私に会おうと思うのならば、席を抜け出せ。抜け出せば私がそなたに会いに行く」


 まるで、私がまたここに来ることを見越しているようだ。


「ティイ殿!」


 突如弾かれるような声が響き、私は宴の席の方向に目をやった。見覚えのある女官がこちらへ駆けてくる。今回の宴で父に付いていた女官だ。


「ティイ殿!このようなところに!」


 私を迎えに来たのだ。彼女は私の目の前まで来て「良かった」と安堵の息をついた。


「父君がお探しですよ。また王宮で会ったという女人とお話ししているのではないかと言われ、お迎えに参りました」


 身体を固める。私の後ろにいるのはどこからどう見てもれっきとした男性だ。どうやってごまかしたものか。


「して、その女人はいずこに?父君がご挨拶をしたいと仰せでしたよ」


 言われて振り返ると、いつの間にか彼の姿はなかった。

 暗い回廊が月明かりに照らされて真っ直ぐ続いているだけだ。


「……お忙しい人なのだわ」


 呟いた私に、「仕方ないですね、戻りましょう」と女官に促され、私は宴が終わろうとする空間に戻った。


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