ふたたび
ムノに戻って少し経ってからのことだった。タニイから手紙が届いた。
『ティイが宮殿で会った男の素性は分からなかった。少なくとも今回の宴に呼ばれた者ではないと思う』という内容だった。
確かに、あの宴の席にいた記憶はない。でも彼にはどこかしら高貴な雰囲気があった。兵士や従者という訳でもないだろう。ますます不思議な人だ。
手紙を膝に置いて、当てもなく宙を眺めた。
ここまで何も分からないとは、最早あの時の出来事が夢だったのではと思えてくる。
相手は何も答えなかった。宰相の娘ですら彼の正体が分からないと言う。
ならばもう、忘れてしまった方が良いのかも知れない。そんなことを考えながら、タニイにお礼の返事を書いてタニイの従者に渡した。
そこから翌月のこと。父から「再び王の宴に呼ばれた」と知らされた。
「おそらくファラオに気に入られたのだ」
父は嬉々として母と私にそう言った。だが、王の目に私が映る機会は、王が姿を現したあの時だけだ。あの短時間で、それも言葉を交わしてもいないのに気に入られるとは到底思えない。存在すら把握されていない気がする。
宰相から話を聞いたのだろうかとも考えたが、宰相がわざわざ私について王に話すこともないだろう。
「テーベに赴けるのだぞ。もっと喜んだらどうだ」
首を傾げる私に対して、父は上機嫌だった。
以前と同じように慌てて準備をして、新しい衣服を仕立ててもらうことになった。
私がこの前と同じ服でいいだろうと進言したのにも関わらず、父が「他の令嬢たちに引けを取らぬよう、王宮に赴くに相応しいものを用意せよ」と命じたからだった。
テーベに向かうだけでも費用が嵩むだろうに、またこんな豪勢な服を仕立てて、我が家の家計は大丈夫なのと心配になってくる。
一週間が過ぎ、ラジヤを始めとした侍女数人と父の従者たちを連れて、父とテーベへ向かった。
到着したその日に宴だったため、テーベに着くなり忙しなく準備をして、タニイに急ぎの手紙を送りつつ王宮へ向かった。
王宮に入る前に脳裏に浮かぶのはあの青年のことだ。また会おうと言ってくれたのだから、今度は宴の席にいるのかもしれない──そんな期待を胸に参加したものの、多くの人々の中に探してもやはりそこに彼の姿はなかった。
代わりに船上で出会った令嬢たちが自分の父親の隣で食事をとり、繰り広げられる芸たちをうっとりと眺め、互いに挨拶を交わし、それから王族が座るはずの空席に何度も目をやっていた。
王族の姿はない。王どころか王子の姿もなかった。
今回はタニイも出席しており、彼女は父ラモーゼの隣で上品に酒を嗜みながら、私に気付いて手を振ってくれた。
私が話したあの青年が誰であるか、彼女も気になっているらしい。もしいれば教えてほしいと先に言われていた。
王家の席を挟むように軍事一族の席と、神官一族のための席があり、少し離れた後ろに宰相の席、そして芸が披露される広間の中心を囲むようにして多くの貴族の面々が腰を下ろしている。
「お父様」
宴が始まってしばらくして、凜とした声がした。ヘルネイトだと気づくのに時間はかからなかった。
「どうして王子はいらっしゃらないの」
苛立っているようだ。その美貌と鈴の鳴るような声は、どうしたって注目を集めた。
「私は王子がいらっしゃるというから来たのに。皆を集められたのも王家の方々ではなくて?何をお考えなのかしら」
隣の父親である最高神官はおろおろと狼狽えている。神官の最高位とは思えない表情だ。
「愛しいヘルネイト、お前のことは王子に進言しているから、心配することはないよ」
最高神官は「王子に自分の娘を側室に」と勧めているということか。
それを察したであろう周りの貴族方の空気がぴりりと張り詰めるのが分かった。きっとこの場は、王子に「是非自分の娘をお傍に」と勧める場でもあるのだろう。
「私は王子のお目にかかりたいのです」
彼女の言い分はもっともだ。皆、この宴の主催者である王族に会いに来ている。娘たちは次期王位継承者に見初めてもらうために。息子たちは顔を売り、王宮のできる限り上の地位に登用されるために。
勿論、ここで貴族間の交流を増やすという点も大きな目的の一つであるはずだが。
私には縁の無い話だと、水を飲み、運ばれてくる料理をつまんで、父と言葉を交わす。
──また会おう。
宴が始まって数刻が経ったが、そう告げた青年は、待てども待てども現れなかった。
単なる社交辞令だったのかもしれない。私は何を本気になっていたのかと自分に呆れてしまう。
タニイに視線を送ると、彼女はもう退屈になっているらしく、こくりこくりと寝始め、父親に叱咤されている。
私もここに居るばかりでは段々辛くなってきた。何しろずっとヘルネイトの小言が聞こえてくる。彼女は連れてきた自分の侍女に当たっていた。その様子が視界の端に見えるのはあまり心地良いものではなかった。
「お父様、少しだけ外の空気を吸ってきても良いかしら」
父も同じことを思っていたのか、すぐに「行っておいで」と返事をしてくれた。
「遠くまで行かないように」
「ええ、分かっています」
タニイも連れて行こうかと悩んだが、ほとんど寝ている様子の彼女を外へ誘うのは気後れがして結局一人で行くことにした。
回廊に出たら、纏わり付いていた熱気が風に攫われて、一気に目が覚めるようだった。
微睡みが吹き飛び、しがらみもなくなっていくような感覚。
侍女も誰も連れていないからだろうか。どこでも行ける気すらしてしまう。
柱の間から覗く空には月が見えた。煌々とこちらを照らしている。
月光を浴びながら、私は白く長い回廊を歩き始めた。
「ティイ」
どれくらい経ってからだろうか、背後から声がかかった。聞き覚えのある声に反射的に振り返ると、前回会った青年がぽつりと立ってこちらに手を振っていた。
あの時と変わらない薄着で、飾り気のない姿。
闇夜に月光を浴びた黒い瞳は柔らかに光っていながら、何もかもを見透かしているかのようだ。
「……また会えるとは思ってなかったわ」
ずっと探していた相手が現れたのに、なんだか度肝を抜かれた気持ちで告げると、彼はおかしそうに笑った。
「また会おうと言ったではないか」
「そうだけれど」
彼は軽やかな足取りで私の隣へやってきた。
「私は約束を違えぬよ」
傍らで柔らかく笑む相手に、聞きたいことが山のようにあった。
あなたは誰?あなたはどこの人?あなたは──。何から聞けばいいのだろう。
「宴の席にいなかったのね」
飄々としている相手に尋ねた。
「実はいたかもしれないぞ、端あたりに」
「嘘ばっかり。探したけれどいなかったもの」
本当のことだ。私は探した。探してもいなかった。そして宴の雰囲気に耐えられなくて出てきて、そこで初めてこの人が現れた。
「気づかなかっただけかもしれない」
この人ははぐらかすつもりなのだ。答える気など更々ない。
「さあ、歩こう。今日は月がこの上なく綺麗だ」
私を促して、彼は回廊を歩き始める。
あまりにも軽々と歩を進めるその人の後をついて行こうとしたら、タニイの顔が浮かんだ。今広間に戻れば、タニイを呼んで彼に会わせることができる。宰相の娘を前にすれば、彼は何かしら言わざるを得なくなるかもしれない。
「待って。会わせたい人が居るの」
私の声に、彼は足を止めて振り返る。
「タニイというの。綺麗な人でね、ここに連れてきても良いかしら。彼女もあなたに会いたがっているの」
彼はタニイの名を聞いた途端、嫌がるような表情を一瞬だけ垣間見せた。それからすぐに表情を戻して「いや」と首を振った。
「人数が多いのは好まない」
今の反応は、タニイを知っているためのものだと思った。
タニイを知る人物ならば限られる。有力な貴族の子息であることは間違いないようだが、そうなると宴の席にいた貴族たちの前にいた一族たちのどれか。だが、あの広間にはいなかった。ならば、この人はどこの──。
「行かないのか」
問われて、この前のように多くのことを知りたい欲求に負けた私の足は、そのまま彼の方へ進み出した。彼は、月光の下で嬉しそうに柔く微笑んだ。
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