ヘカワセト
肩で大きく息をしていた。
何が何だか分からない。自分がひどく動揺していることだけが明らかだった。
右手にじんとした痛みを感じながら、背にある柱に寄り掛かりながらずるずると床に座り込んだ。
「あ、アトラー……?」
目の前に、顎を押さえて倒れ込む彼がいた。ううう、と呻いている。
自分が殴ったのだと知って、慌てて膝をついて彼の傍に寄った。
「ごめんなさい……!」
流血はしていないものの、顰めた顔の彼は目を閉じたまま動かない。
「しっかりして、お願い、起きて……!」
身体を揺さぶっても目を開けてくれなかった。
「ああ、どうしよう」
「ティイ!」
狼狽しているところに、聞き慣れた声が飛んできた。
神にも縋る思いで振り返ると、こちらへ駆けてくるアネンとタニイの姿が見えた。
「アネン兄様!タニイ!」
できる限りの声で二人を呼んだ。
宴の席にいなかった二人がどうしてここにいるのかは分からない。ただ、今は助けを求めなければと思った。
「ティイ、会えて良かった。タニイから聞いて心配になって来てみたんだ。で、その男はどこに……」
アネンはそこまで言って、私の目の前に仰向けに倒れる存在に気づいたらしく、あっと息を飲んでアトラーの顔を覗き込み、タニイもアネンの傍に膝をついた。
「王子!」
アネンとタニイが揃って悲鳴のような声をあげた。
おうじ。おうじ?オージ?
「王子!何故こんなところに」
いつも穏やかであまり動じないアネンが狼狽していた。
王子。いや、そんな。まさか。
「王子!王子!!どうなさいました!!」
アネンは必死だ。何度も彼の身体を揺さぶって呼びかけ、真っ青になってアトラーの状態を確かめている。
「誰か来てくれないか!殿下がお倒れになられている!」
タニイが辺りの衛兵や侍女に聞こえるよう、大きな声で呼びかけた。それからすぐに沢山の足音がこちらに向かってくるのを聞いた。
どうしたらいいか分からなかった。三人を目の前に、私は座り込んだまま動けずにいる。
訳が分からない。頭がついていかない。
アトラーが王子とは、どういうことだろう。
「王子いいいいい!!!」
またもや聞き覚えのある声が風のように飛んできた。
「あああああああ、王子!!なんてこと!!!!しっかりして!!!しっかりしてくださいよおおおおおお!!」
年の近い青年が現れ、アトラーの姿を見るや否や悲鳴をあげて、その肩を両手でひっつかんで思いきり揺さぶり出した。ぐわんぐわんとアトラーの身体を揺さぶるその人は、いつだったか、王宮の中庭で王子を探していた従者らしき人物だった。
「まだ死ぬのは早いですよう!!」
「ウセルハト、やめなさい。落ち着きなさい、ウセルハト」
アネンが取り乱す側近を宥めようとアトラーから引き離した。
私はその光景を呆然と眺めることしかできないでいる。
駄目だ、頭が回らない。自分だけが取り残されている感覚ばかりが鮮明だ。
「あの、タニイ、これってどういう……」
混乱する私を落ち着けるように、タニイは私を抱き込んで肩を撫で、アネンに支えられているアトラーを指差した。
「ティイが今まで会ってたのって、この男?」
「ええ、でも、あの、王子ってどういうことなの?」
タニイは空いている手で自分の頭を抱えるように抑えた。
「私ももっと早くに気づくべきだったよ」
兵や侍女たちが悲鳴をあげながら集まる中、アネンはタニイの腕の中にいる私を、神妙な面持ちで見ていた。
「ティイ」
呼ばれてびくりと身体が跳ねた。大好きな兄の声さえ、初めて耳にする音に聞こえた。
「この御方は我が国の王子殿下であらせられる。ここで一体何があった」
低められた声だ。自分が深刻な事態を起こしたことに違いなかった。
「アネン兄様、わ、私……」
この場に集まった皆の視線が一斉に私へ向けられる。
私の口から言葉が出る前に、更に多くの人々が駆け込んで私たちを取り囲んだ。衛兵や女官たちの他に、私の父、宰相ラモーゼ、宴に参加していたであろう人々も。そして王子のことを聞きつけたヘルネイトも。
「へカワセト!」
ヘルネイトは王子の存在を認めるや否や、甲高い悲鳴で叫んで私の前を通り過ぎると、アトラーの傍に走り寄った。
「へカワセト、しっかりして!」
そう。
今の王子の名はアメンホテプ・へカワセト。
この目の前で倒れている人が、まさか。
まさか。
何も、何も、知らなかった。
本当に何も、知らなかった。
──惚れている。
彼の先程の声が蘇ると、顔に血が上るようだ。
「……ああ」
思考がうまく働かない。駄目だ。どうにかなってしまいそうだ。
頭を抱え、身を小さくした私を、タニイが落ち着かせるように再度強く抱きしめた。
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