正体


 最後と言われた宴の日は再びやってきた。当然のように父と共に王家の宴に呼ばれた。

 彼に会えるのはこれが最後だと思うと、王宮に向かうのも気が引けたが、別れを言えないのもそれはそれで辛く、父に従い王宮の門を潜った。

 広間に入ると、今日はヘルネイトの姿が見えた。タニイの姿はない。皆が酒を浴びるように飲んで談笑し、奏でられる音楽に合わせて踊り子が舞い、踊り子の腕についた鈴が高らかに鳴り響く。

 宴の席は煌びやかで何も変わらないのに、気持ちは自分でも驚くほど沈んでいた。


 料理が運ばれ、歌や演奏、踊りが繰り広げられ、そうやって宴が始まる。

 今となっては見慣れた光景だ。

 いくつか果物を摘まみながら食事を摂り、水を少しだけ口に含んでから、様子を見ていつものように広間を抜け出した。


 自分のサンダルの音だけが月光に照らされた白い回廊に響いている。夜風は心地良く、飛んで行けそうな身軽さを感じる。

 彼と何度も会った場所まで歩いて行き、ふと立ち止まって柱の間から見える月を眺めていた。美しい満月だ。彼に出会った夜も、今日と同じような月だった。


「ティイ」


 そうして投げかけられる声がある。

 彼の声を聞いて振り返るのは何度目だろう。だがこれで最後になるのだ。

 夜風を切って振り返った先に、美しい微笑みがある。綺麗でありながら、少年のような無邪気さをも併せ持つ表情。


「また、来てくれたの?」


 そんな言葉が口から自然と零れた。

 柱の間から吹く風に、衣がなびく。


「何を今更。私がここへ来ると分かっていたから、ティイはここまで来たのだろう」


 私が頷くと、彼は嬉しそうに笑みを零す。

 柱に手をついて、相手から月へ視線を移した。こうした光景を見るのも最後。

 何もかもが今日で終わりなのだと思ったら、相手を見続けているのが辛かった。


「どうした、今日は妙に静かだな」


 相手は眉根を寄せてこちらに歩み寄り、手の届く距離のところで足を止めた。


「そんな日もあるのよ」


 彼に笑って見せたのに、弱々しい笑みにしかならない。

 どうしよう。泣き出しそうだ。


「……ねえ」


 何から話せば良いのか分からず、彼の簡素な衣を掴んだ。掴んだ拍子に手首にある金の腕輪が揺れる。


「あなたの名前を教えて」


 こちらを見つめる相手の柔らかな黒い瞳が、少し驚いたように光った。


「今まであなたの質問に答えてきたわ。だからせめて名前だけも教えて」


 何度も会ってきて、今まで私ばかり個人的な質問に答えてきたのに、彼のことは未だ何一つ知らないまま。

 だから、ずっと聞けなかった名前をどうしても最後に知りたかった。


「お願い。名前だけで良いの」


 縋るように呟くと、彼は自分の衣を掴んでいた私の手を静かに取った。手を包む暖かさは離れがたく、それだけで胸が疼くようだった。

 彼は少しだけ考える仕草をしてから、やがて口を開いた。


「──アトラー」


 ラーとは神だ。意味を考えれば、「神である」という名に繋がる。

 偽名だと即座に理解して苦笑した。結局この人は私に本名すら教えてくれないのだ。


「……とても偉そうな名前ね」

「まあ、そうだな」


 のんびりと彼が答えた。


「ありがとう、アトラー。忘れないわ」


 こちらの言い様に彼は虚をつかれたような顔で首を傾げた。まるで小動物のようで思わず笑えてしまう仕草なのに、寂しさばかりが募って俯いた。

 こんなに自分の本音を言えた人は今までにいなかった。良い友人だった。この人に会えなくなるのだと思うと、空虚ばかりが胸を貪る。


「今まで楽しかった。本当にありがとう。最後に名前を知れてよかった」


 ひとつだけ。偽名であっても私に教えてくれた。名前があるだけで、私の中にある彼との記憶はきっと色鮮やかに思い出せるものになる。


「最後とはどういうことだ」


 ぐっと手を引かれて、顔を彼に向けざるを得なくなる。

 見慣れていたはずの整った顔が真剣に近くからこちらを覗き込んでいて、思わず息を飲んだ。

 告げなければ。今日この人に会った目的はこれなのだから。


「……多分、あなたと会えるのはこれで最後になるの」


 喉の奥からようやく出た言葉だった。


「何故」


 さっきまで優しい表情を浮かべていた相手の顔が曇る。


「お父様とお母様から……私の縁談が正式に決まったと言われたの。婚姻自体がいつかは分からないけれど、おそらく近い内に」


 彼が、はっとした様子で瞳を揺らした。


「誰かと結婚したら、もうあなたには会えなくなる。王宮に呼ばれることも滅多になくなるわ。だからあなたに会うのは今日で最後にしなければならないの」


 手が一段と強く握られる。まるで逃がすまいとしているかのようで、身体が動かなくなる。

 いつも悠々としている相手に焦燥が見られて驚いた。


「縁談の相手は」


 聞かれて初めて、宰相を通して縁談が決まったという事実に動揺しすぎて、自分の嫁ぎ先の詳細を何も聞いていなかったことに気付いた。


「……まだちゃんと聞けていないの。分かるのはラモーゼ様からのご縁とだけ」


 彼は独り言のように「ラモーゼ」と小さく呟いてから、私を瞳に大きく映した。

 どこに向けたらいいか分からなった視線を掴まれた手元に移す。せっかく最後だと告げたのに、このままでは別れられなくなりそうだ。


「私ね」


 相手に語りかけるように、それでいて自分を納得させるように、できる限り落ち着いた口調で告げた。


「嫁いだら、もう馬も剣も勉強もきっぱりやめるつもり。どんなに良い方でも、相手が求めるのは他と違わずおしとやかな娘だろうから、今度こそは失敗しないように全部やめにするの。じゃじゃ馬を受け入れるって言っているんだから、少しくらいへまをしても許してくれるはずよね」


 目を見開いた表情の相手に、私は無理に口角をあげて見せた。笑えているのか不安になるくらいに、自分の頬が引きつっているのを感じる。


「あなたには感謝してるの。すごく慰められた。あなただから今まで私は私らしくいられた……とても楽しかったのよ」


 すべて事実だ。生まれてこの方、こんなにも楽しかったことはない。こんなにも自分を認めてくれた男性はいなかった。


「実はね、宴に呼ばれるのを毎回楽しみにしていたの。行けば必ずあなたに会えるのだもの。いつも相手をしてくれて本当にありがとう。あなたに会えて良かった。友達になれて良かった」


 この人に抱く気持ちは何だろう。兄に対する親しみとはまた違う。タニイが言った、あの気持ちなのだろうか。

 でもこの気持ちを言葉にしたら、きっと私の決意は鈍ってしまう。

 彼も彼で裕福な生まれなのだろうから、課せられた道がある。誰か他の女性を妻にして家庭を築き、私と同じようにこの国を守るため誇らしく生きていくのだろう。私たちはそうやって決められた道を歩いていき、最善を尽くさなければならない。


「分かっていたことだけれど、あなたに会えなくなると思うと寂しいわ」


 もう失敗は出来ない。家のため、一族のために私も動く時が来たのだから。


「ならば行かなければ良いのだ」


 そこで初めて彼は口火を切った。手を強く引かれて身体が近づく。いつもは涼やかで穏やかであった眼差しに熱が籠もっていた。


「ティイの家は有数の名家だろう。一人娘がわざわざ嫁に行かなくとも良いではないか」


 身を乗り出すようにこちらへ近づく相手の胸元を、無意識のうちに押した。

 手から伝わる胸元の硬さに、相手は男性なのだと思い知る。


「いいえ、それは無理よ。私の家が王家と同じくらい歴史を持つ古い名家でも、栄えているとはとても言えない。昔からこの地位を維持するのに必死なの。ずっと血縁で地位を保てる王家とは天地の差があるわ」


 兄たち二人は家のために懸命に努力している。いくらありのままでいたいとは言っても、やはり大事なのは家族だ。家族のためならば自分を押さえ込んでどこかに嫁ぐことは致し方ないことなのだ。

 古くから続く家柄を守るため。一族が上り詰め、守り続けてきたこの地位を確実なものとするために。


「家を守るために、私を他の名家に嫁がせることで結びつきを得て、一族の地位を維持していく。私は家を守る切り札なのよ。それが私のあの家での役割なんだわ。娘と言うのは本来そういうものでしょう」


 自分に言い聞かせる。何も自分に限った話ではない。他の令嬢たちもそういう役目を背負っている。


「過去にファラオのご側室が私の家から出ていても、それだけでは家は保てない。彼女もすでに死んでしまって、今では王家と私の家との関係性は皆無。娘をそこらの有力一族に嫁がせないと落ちぶれてしまうの」


 自分が置かれた立場を相手に伝えて、なんて惨めだろうと悲しくなる。

 逃げたいけれど逃げられない。自分はそういう生まれなのだ。兄が教えてくれたことが、今この時になってようやく身に沁みて分かる。


「あなたのことは忘れない」


 私の左手を掴んだままの相手の手を、そっと包んだ。

 絶対に忘れない。他の誰かを夫にしても、きっと私はこの鮮やかで楽しかった日々をどこかで思い出すのだろう。


「今までありがとう」


 言えた。言い切った。

 これで本当に最後だ。


 肩で大きく息をした。もう全部終わりにしなければ。

 緩く掴まれていた手をそっと引き抜く。離れても尚、彼の体温が自分の手に残っている気がした。

 沈黙が流れる。おそるおそる相手を見上げるが、彼は口を引き結んだままだ。

 ここからどうしたら良いか分からず、私が口を開きかけた時。


「……面白いことを教えよう」


 黙り込んでいた彼が唐突に告げた。


「え……?」


 私を映すその目が、何を語ろうとしているのか読めなくて戸惑う。


「そなた、剣術の試合に参加していただろう」


 どきりとして目を瞬かせた。


「美しき谷の祭りの翌日、正午に民の間で催された試合だ。引っ張り出されるようにして参加したそれに、そなたは男たちの中で勝ち進んだ」


 父に内緒でラジヤと屋敷を抜け出して、初めてテーベの街を歩いた日。

 街の大通りで行われていた庶民の催しものに、眺めるだけのつもりだった私は少年と間違われて引っ張り出された。


「どうしてあなたがそれを……」


 この人に言ったことはない。「テーベでやらかしてしまった」とだけで、その内容は一度も。何故知っているのか。


「そなたの最後の相手は私だ」


 こちらに放たれる声は静かでありながらも強い芯があった。

 陰っていた彼の顔が月明かりに照らされて明らかになる。


「……まさか」


 全身を上着で隠すようにしていた最後の相手。惚れ惚れとするほどの優雅な身のこなしだった、決着が着かぬまま終わった、あの人。


「嘘などつかぬよ」


 ふっと息を吐くように彼は口元に小さい笑みを浮かべた。

 信じられず、首をふるふると振った。思考が追いつかなかった。


「剣術の試合に女が紛れ込んでいたのだ。それも男を負かして勝ち上がって自分と戦っていた。被り物が外れて見えた長い髪は、そう簡単に忘れられるものではない。あの時の、そなたに負けた男共の顔は傑作だったぞ。まさか自分が女に負けたとは思ってもみなかったのだろう」


 懐かしい記憶を振り返るように、相手は目を細める。

 あの剣術の試合に参加していたのは皆テーベの民のはずだ。父や兄も見向きもしない、貴族とも王家とも何の関りもない平和な人々の催し。ならば何故、あそこに参加した人が王宮にいるのか。


「あれからずっと気になっていた」


 彼が一歩、私に近づく。サンダルの音がいつも以上にあたりに響く。

 思考がぐるぐると回るようだった。

 この人も私と同じように身分を隠して参加したということか。だから上着を深く被って姿を隠していた。ならばこの人は一体。


「あの催しにイウヤが現れた。そのイウヤがそなたを指さして叫んだのだ、『娘だ、捕まえろ』と。忘れられなかった。話してみたくなった。だから次の宴に呼んだ。イウヤが娘を連れてくるよう根回ししたのは私だ」


 はっと息を飲んで、相手を凝視した。

 宴の席に誰を招待するかを決めるのは王族だ。

 ならば、この人は王族の出か。


「もう一度会いたかった」


 彼の肩越しに月が昇っているのを見て焦燥が募った。宴が終わる時間だ。父が探しているかもしれない。もし迎えに来た女官にここを見られて、男性と会っていたことが父に知れたら激昂するに違いなかった。


「ティイ」


 名を呼ばれて、胸がどきりと音を立てた。


「そなたは美しい。強く、賢い。それでいて傍にいて楽しい」


 何を言わんとしているのか気付かないほど、自分もウブではなかった。


「お願い、待って」


 追い詰めてくる相手を、後退りながら手で制した。


「もうこれが最後なの。私には夫となる人がいるの。他の人の妻になるのよ。明日初めてお会いするの。お願いだからそれ以上何も言わないで。寄らないで」


 私の制止をものともせず、彼は私を柱に追いつめていく。そうしていく内に背中が柱に当たって逃げ場を失った。

 こちらを見つめる黒い目に吸い込まれそうだ。熱を孕み、私を映して、反らすことを許さない。


 そうだ。私は剣術の試合の時、この目を見た。

 そして思ったのだ、美しいと。


 あの時の対戦相手と目の前にいる相手が、この瞬間に初めてぴたりと重なった。


「お願い、もう……」


 自分の中に燻る想いもあるのに、相手に告げることは許されない。どうしたらいいか分からなかった。


「ティイ」


 また名を呼ばれ、宙を彷徨っていた手を再び強く取られた。

 自分の手を取った腕は、男性らしく勇ましいものだった。


「私はそなたに惚れている」


 息が止まるような心地だった。

 身を固める私の頬に彼の手がゆったりと伸びる。

 触れる直前に一度躊躇った手は、私が拒まないのを見て、そのまま愛おしむように触れてきた。

 暖かい手だ。泣きたいほどに。縋っていたいほどに。

 大丈夫だと言われているようで、身体から力が抜けていく。

 彼は私の頬を両手で包むようにした。タニイにも同じことをされたことがあるのに、それとは違う。甘ったるいものがあった。夢心地のような。

 縁談を断ったあの相手とも違う。嫌悪感は微塵も湧かない。むしろ、触れていて欲しい、離れないで欲しいと願ってしまうほどだ。

 こちらを労るような暖かさが、ますます離れがたくさせる。

 頬に触れ、髪に触れ、片手が流れるように私の後頭部の首の付け根あたりに添えられる。

 彼が私の名を呼び、伏せがちの目元でこちらに顔を近づけて──口付けようとしている。そうと分かった途端、止まっていた思考が動き出した。


 私は誰か他の人のもとに嫁ぐ身なのだと。


 ──駄目だ。


 ぐっと目を閉じる。

 互いの唇が触れるかどうかの距離になった時、自分の右手に力が集中して、そのまま拳を形成し、気持ちがどこかへ飛び立つように、それは拳と共に上へ突き抜けた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る