最後

 宴の翌朝、タニイに使いを出して「会いたい」と打診したら、すぐに返事が来て、急遽タニイに会えることになった。

 昼頃にラジヤと護衛と共に宰相家に到着した私を自室に迎えるなり、タニイは安堵したように微笑んだ。


「落ち込んでると聞いてたけれど、思ったより元気そうじゃないか」


 書物に囲まれた、変わらないこの部屋の空気に、ほっと息をつく。

 促されて腰を下ろした私を、彼女は向かいに座って覗き込み、こちらの頬に手を伸ばした。彼女の香油の香りに世界が満ちる。


「大変だったね」


 頬を撫でられてくすぐったさに笑ったら、相手は更に胸を撫で下ろした。


「アネンから聞いたよ。縁談の相手にひどいことをされたって。大丈夫?」


 アネンは両親と同じで末の妹が心配で堪らないらしい。私のことはタニイに筒抜けのようだ。


「誘ってくれていたのに断ってしまってごめんなさい。とても誰かに会う気分ではなくて……」


 今回私がテーベに来ると知って、タニイが屋敷に招待してくれていたのに、断ってしまったことを謝った。


「でも大分、吹っ切れたの」


 破談の時の出来事は嫌な記憶であることに変わりないが、昨日が楽しかったという事実があの記憶をやんわり覆い隠しているようだった。


「そんなことどうだっていいよ。吹っ切れたなら良かった」


 それに、と彼女は付け加える。


「破談なんて気にすることはない。案外よくあることだしね」

「ならいいのだけど……」


 慰めてくれているのだと分かって肩をすくめて苦笑いをした。少なくとも自分の周りでは破談になった娘の話など聞いたことがない。 

 

「ティイには言ってなかったけれど、実は私も一度結婚して離縁してるんだ」


 侍女に出させた飲み物を、彼女はぐっと飲み干しながら告げた。


「えっ」


 素っ頓狂な声をあげた私に、大きく肩を揺らして笑った彼女は、椅子に足を組んで座り、テーブルについた肘枕に顔を乗せてにやっと口角をあげている。


「誰かの妻というのが性に合わなくて一年ちょっとで離縁してる」

「……ごめんなさい。私、何も知らなくて」


 あからさまに驚いてしまったことを謝罪した私に、彼女は気にしてないと肩を上下に揺らした。


「無理もないよ。あまり周りに言うなと父から言われてるし、結構前の話だからね」


 確かにタニイは私より年上だが、魅力的な女性で、私が男ならば結婚を申し込みたいくらいなのに。タニイと離縁するとはどんな相手だったのだろう。


「私ってば父親も困らせるような男勝りな性格だから、夫と折り合いが合わなかったんだ。元夫もそれを直して尽くそうと思えるくらいのいい男でもなかった」


 令嬢が離縁して出戻りとはなかなかない話だ。もしかしたら、彼女も私と同じように家と本来の自分らしさの中で苦しんだことがあるのかもしれない。だからこそ、私にこれほどまでに寄り添ってくれるのかもしれない。


「私みたいに合わなくて離縁ってなる前に破談になって良かったんだよ。それ以前にまだ婚約が確定していない娘の身体を触るとは言語道断だ。最低な男だよ。女をなんだと思ってるんだか」

「……ありがとう、タニイ」


 私の頭を彼女が優しく撫でる。同性とは思えないほどに凜々しい目元に、惚れ惚れとした。一緒に怒ってくれる相手がいるというのはなんて心強いことだろう。


「ティイには幸せになってもらいたい」


 心からの声に、まるで本当の姉のようで嬉しくなる。


「それからもうひとつ」


 タニイが私の前に人差し指を出した。


「ティイを妾になんて抜かしたあの神官の親子、お役御免になったそうだよ」


 唐突に告げられたことに、目を見張った。


「どういうこと……?」


 私を蔑みながら、物であるかのように値踏みしたあの嫌な目。こちらの身体を触ったあの手と、首筋に押しつけられた唇の感触。何もかもが忘れたいものだったが、記憶にこびりついて離れなかった。あの人が役を解かれた。それが意味するところは──。


「今朝、私の父に知らせが来てね。王からのご命令だそうだ。神官の任を解かれて王宮から投げ出された。一体何をやらかしたんだか」


 そう言われて最後まで張っていた緊張の糸がぷつりと切れた。


「貴族の身分も取られたそうだ。もうティイに近づくこともできないよ」


 王のご命令で役を解かれて身分も剥奪された人間が、どんなに私の悪い噂を流しても、それを信じる人はいない。触れられることも、あの目で見られることもない。王宮に呼ばれても、そこで顔を合わせることはもうない。

 そうと分かって呆然とタニイを見ていたら、みるみる内に視界がぼやけていった。膝に置いていた手元に涙が落ちて弾ける。


「ああ、ティイ……不安だったね。でももう大丈夫だよ」


 椅子から立ち上がって、タニイが私を抱き締めてくれた。

 何があの人に起こったのかは知らない。分からなくても良かった。もうこれで完全に私の中で吹っ切ることができる。

 ひとしきり私を慰めた、こちらを覗き込んだ美しい面立ちは、気遣わしげな表情を浮かべながらも強く笑んでいた。


「まあ、この話をして、落ち込んでるっていうティイを励ますつもりだったんだけど、思ったより持ち直していたようで安心した」


 そこで私はようやくタニイに会いにきた本当の理由を思い出した。


「タニイ、あの人がね、話を聞いてくれたの」


 涙を拭いながら言うと、相手は怪訝そうに眉尻を上げた。


「あの人って、あいつ?広間を抜け出していつも会ってる?」

「そう。今回も彼に会えたの」


 気付けば興奮気味にタニイに話し出していた。


「私、昨日まで落ち込んでいて本当は宴を欠席したいくらいだったの……でもあの人が話を聞いてくれて、殴って当然だと言ってくれたわ。タニイと同じように一緒に怒ってくれたの」


 昨夜のことを話している内に、自分の口元が綻ぶのを感じた。嫌な記憶を覆い隠してくれるような暖かい時間だったことに違いなかった。


「彼が言ってくれたことが嬉しくて、どんどん話してしまって……もうほとんど愚痴のようだったの。でも全部聞いてくれてね」

「ティイ……」

「私は私のままでいていいと言ってくれたの。そんなこと言ってくれた男の人、初めてよ」


 ここでタニイが隣に椅子を寄せて座り、真面目な顔をして、話を止めない私の口元を軽く押さえた。


「今も名前は分からないのか」


 潜められた声音で尋ねられる。


「……ええ」


 彼女の様子に戸惑いながら頷いた。


「どこのどいつなのかも?」


 彼は決して自分のことを話そうとしない。

 初めて会った時も名前を聞いたが、言える身分ではないのだと言った。そこからは関係が壊れるのが怖くて私も尋ねていない。


「兵の交代の時間を知っている人だったわ。もしかしたら軍関係の誰かのご子息……王宮に上がれるような、将軍の息子かしらって予想はしているのだけど……聞いてもきっとはぐらかされてしまうわ。ずっとそうなの」


 できる限り、自分の見解を話したが、タニイの表情はますます険しいものに変わっていく。


「ティイ、まだ父君には女性と会っていると通してる?」


 こくりと頷いた。父に出会った人のことは話していたが、父はその相手のことを男ではなく女だと未だに思っている。男だと知れたら、おそらく父は会うことを許してくれない。


「これは慎重に行かなくちゃいけないことだよ」


 低めの声で告げられて、息を飲む。

 何故タニイがここまで真剣な様子で私に話しかけているのか分からなかった。


「どうしたの?そんな真剣な顔をして。いつもと違うわ」

「ティイ、心してお聞き」


 私は近づいた彼女の顔を見つめて思わず息を詰めた。


「そいつが好きなんだろう」


 額を寄せるようにしているタニイからの言葉にきょとんとした。

 意味を把握しかねて首を傾げてしまう。


「好きなんだよ。きっと」


 ようやく相手が言っていることを飲み込んで、慌てて首を横に振った。


「そんな、好きとかじゃなくて、ただ、楽しくて、嬉しくて」

「会いたくてたまらないんだろう。会えるのが楽しみで仕方がない。いつもそいつのことばかり考える」


 言い当てられて、かあっと顔が熱を持った。

 否定しながらも、あの人の顔をありありと思い浮かべられる自分がいる。くしゃりと子供のように笑った顔も、優しく見守るあの表情も。こちらを気遣う足取りや、つないだ手の温もりも。


「そう、だけど……私、好きだなんて……」

「ティイ、あんたの目はもう恋する人の目そのものだ」


 私の両頬を両手で包まれて、視界がタニイだけになった。


「とって食べちゃいたいくらいに今のティイは可愛い。きっとこうさせてるのは、そいつなんだろうね」


 そこまで言うと、彼女は「でもね」と溜息をついて私から手を離した。


「ティイ、こうなってはあまり良い知らせでもないが、おそらく縁談が決まった」

「……縁談?」


 意味が上手く飲み込めないまま、言われた単語を漠然と繰り返した。


「私の父を通して、イウヤ殿に申し込まれたんだ」


 本当ならば私から言うことではないのだけれど、と彼女は続けた。


「娘が破談になって落ち込んでいる。良い人はいないだろうかとイウヤ殿が宰相である私の父に頼んで繋がった縁だ」


 はっとした。父は私をひどく心配していた。宰相に、誰か良い相手がいないか尋ねたのか。


「私の父は友人の娘ためにいい男を選んだよ。宰相に頼んで宰相につなぎ止めてもらったこの縁談を、イウヤ殿が断るはずがない。今度は私も知っている男だが、悪い奴ではない。少なくともティイを傷つける人間じゃない」

「私に……」


 縁談。今度はタニイも知る人物で、それなりの相手。あまり思考が働かない。

 私の縁談が決まったということは、それはつまり──。


「もうこれは決定事項だ。他は諦めなくちゃいけない。好きな男ができたら辛いだけになる。もう会わない方が良い」


 頭を何かに強く打たれたかのような感覚に襲われる。


「彼に、会わない……?」


 声が震えた。


「正確には、会えない。会えなくなる。ティイには夫が出来るんだから」


 私は、夫を持つ身となる。全身から力が抜けるようだった。


「会うのは次を最後にするんだ。いいね?」


 本当なら会わせないのだが、とタニイは言った。


「ちゃんと別れてくるんだよ。全部綺麗に吹っ切られるように」


 呆然と彼女を見つめることしか出来ないでいる。

 あの時間ができる限り長く続いて欲しい、そう思った矢先、自分の縁談が決まるとは。

 会うのは次が最後。そこで「もう会えない」と伝えなければならない。

 それはとても、悲しいことのように思えた。






 タニイの屋敷を出て、翌日父と共にムノへ帰った。

 ムノに到着したその夜、両親と共に食事を摂りながら、それでも脳裏を過ぎるのは王宮で会っているあの青年ことだった。タニイから言われた新しい縁談について両親から何も聞かされていないが、本当なのかと気がかりで仕方がなかった。


「……お父様」


 意を決して、目の前で酒と共に食事を口に運ぶ父を呼びかけた。母と楽しげに話していた父の視線がこちらへ向けられる。夜の闇に灯りだけが揺れて、両親の姿を幻想的に浮かび上がらせていた。


「どうした、ティイ。浮かない顔をして」


 そう言いつつも父は侍女に酒を追加で持ってくるよう伝えた。


「あの……タニイ殿から聞いたの。私に縁談があると。本当ですか?」


 それを聞いた両親は二人顔を見合わせて微笑んだ。


「ティイ、その通りです」


 嬉しげに告げたのは母だった。


「あなたを是非にもとおっしゃる方がいらっしゃったのです」

「……ほ、本当に?」


 目を見開く私に父も顔を綻ばせて頷いた。

 心臓がバクバクと胸を大きく打つ。


「ああ、とても良いお方だ。前のようなことはない。お前のことを知って是非にと。年は十ほど上だが、常識のある御方だ」


 ああ、と息を吐くようにして頷いた。声帯の震えが両親に伝わらないように、口を閉じて目を伏せる。


 そうか、決まったのか。

 もう、失敗はできない。相手が良い人ならば、私がそれに応えなければならない。

タニイが言ったとおり、自分に夫ができる。そうすればもうあの人には会えなくなる。


「またテーベへお呼びがかかろう。その際に都合をつけてお会いくださるそうだ」


 私を驚かせようとその時まで言わないでいるつもりだったらしい。

 きっと、次こそは本当に自分の嫁ぎ先が決まる。自分は年頃だ。この家の娘として、いずれは必ずどこかの男性に嫁がなければならない。


「……楽しみにしています」


 ずっと心配していてくれた父に笑って見せた。


「ティイが王宮へ伺うのも最後になるやもしれぬ。次は思う存分楽しむと良い」


 手元の杯に視線を落とす。両親の「めでたい」「良かった」という話し声を聞く。

 楽しい日々は、呆気なく終わるのだと知った。


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