書庫
走りに走って王宮の奥と思われるところまでやってきた。
彼が私を連れて行こうとしている場所は、どうやら兵の守りが固い場所のようだ。
装飾が広間のものよりも華やかで、レリーフの内容も草花などの自然を象ったものから、神々の物語になっている。
王宮でこんな奥まで来たことがない。王家や王家に近しい人間しか入れないところなのではないだろうか。
彼は何度も神々の像の影に身を隠しながら周囲の状況を確認して、目的の場所にどう侵入しようか思案していた。
「ねえ、本当にどこへ行くの?王家の衛兵に捕まるようなところなの?」
「……まあ」
息を潜め、時間を確認するように空を眺めた相手は短い返事をする。
「こんな奥まで来て、もし見つかったら大変なことになるわ。私はともかく、あなたが叱られるのは嫌。そんな無理に案内しなくて大丈夫だから、無茶はやめて」
心配になって止めるのに、「心配は無い」と簡単にあしらわれる。
「裏道を行こう」
手を引かれるまま再び回廊の下に降りて、地面を踏みしめる。サンダルは音がなるからと二人で脱ぎ、それを手に持って走った。
これでは本当に探検をしているようだ。わくわくしないと言ったら嘘になるが、もし見つかって罰を受けることになったら彼も巻き込んでしまうのではと、それが一番気がかりだった。
乱れた息を整えつつ、ある建物の傍までやってきて、相手がまた身を隠すよう私を促し、二人で柱の陰に身を潜めた。互いの鼓動が聞こえるほどの静けさに満ちている。
目の前にある大きな建物は白い壁に覆われていた。相手の様子からしてここが目的の場所らしかったが、回廊から繋がる入口を二人の兵が守っている。
「そろそろ兵の交代がある。そこを狙う」
兵の交代の時間を知っているなら、この人は兵の関係者なのか。将軍の息子とか。
「……ねえ、」
呼びかけた途端、彼は私の手を引いた。
兵たちが交代するのにその場を動いたのだ。
彼が近くに転がっていた小石を拾い、思いきり遠くへ投げると回廊の床に当たって音を成す。それを聞いた兵が異変と捉えて更に入口から離れた。
「走れ」
二人で走り出した。これでもかと一気に地面を蹴り上げる。
ぐっと近づいた木の扉を開けた彼が、私を中に押し込んだ。暗闇で何も見えず、中で戸惑っていると、彼も音無く入り込んでそのまま音なく扉を閉めた。
繰り返し肩で息をして、呼吸を整えながら、入った空間の壁に背中をつけてずるずると腰を下ろした。緊張した。怖さもあった。でも楽しかった。
同じようにして隣で息を整えていた彼を見たら、不意に目が合った。その目が得意気に笑うものだから、心ともなく笑みが零れた。
「……とってもどきどきした」
声を抑えて笑った。ここまで来たら楽しんだもの勝ちな気がしてきた。
「ティイは足も速いのだな。私について来られるのはすごいぞ」
「昔は男の子にだって負けなかったの」
褒められて胸を張った。この人は本当に何でも褒めてくれる。
「ここを見せたかった」
まだ暗闇に慣れていない目を、広い空間に向けてみる。
背の高い棚が立ち並び、その中の蔵書の多さが視界に入った。驚きで瞬時に立ち上がり、「ああ」と声が漏れた。数え切れない巻物状にされたパピルスと粘土板が棚の中に綺麗に揃えて並べられている。厳粛な空気を漂わせ、私の目の前にあったのは、見たことがない数の書物たちだった。
「ここ……王家の、書庫?」
座ったままの彼はそうだとは頷かなかったが、その目は肯定を現わしているようだった。
王家の書庫であるならば、数千年前から今までの政治や戦争の記録、医療や王位継承や神々のこと、外国のことに関してまとめられた王家の記録のすべてが、ここにあるということだ。
「好きなように読んだら良い」
信じられない気持ちで相手を見つめた。
この人は本当に何者なのだろう。王家の人だろうかとも考えたが、それならば兵たちに声を掛ければ済むはずだ。わざわざ見張りの兵が交代する隙を狙って入り込む必要など無い。
「難しいことは考えるな」
こちらが考えを巡らしていることを悟ったのか、床から立ち上がった彼は、こちらに歩み寄りながら子供でも見るかのような穏やかな眼差しで私に告げた。
「宴が終わるまであまり時間がない。見て回らなくて良いのか?」
ただただ彼を見て立ち竦むことしか出来ないでいる私を促した。
確かに広間から離れて大分時間が経っていた。苦労してここまで来たのだから、ひとつだけでも目を通したい。
「灯りがあれば良いのだが、生憎持ち合わせていない。月明かりで読めるだろうか」
彼がひとつの粘土板を棚から手に取って、天井近くに空いている窓からの明かりで読めるかどうかを試していた。
彼に倣って、私も棚に手を伸ばしてみた。夜に慣れてきた目は、月明かりのみで十分に読めた。今まで隠れながら書物を読んできた経験がここで役に立って苦笑する。
ひとつに目を通して、そのまま次のものも開いてみる。初めて見る文章が次々と頭に流れ込んできた。
「ああ、凄いわ……ねえ、見て、これ異国の書よ。これはずっと昔の国の記録……これは医学書、これは神々の創生に関する記録だわ」
胸が早鐘を打つ。読めることが嬉しかった。
「私の知らないことで溢れてる……」
古の記録を読んで、その石板の文字を撫でた。ひんやりとした感触が指先から伝わってくる。これはどれだけ昔に彫られたものなのだろう。彫った人は、どんな思いでここに記録を残したのだろう。
長い年月、これを守り抜いてきた人がいたから、今ここに納められているものなのだ。
これだけではない。他の書物も皆同じようにして存在している貴重な存在に違いない。
「私は、本当に何も知らないのね」
ひとつの歴史書をざっと読んでから、顔を上げてくり抜かれた窓からそそぐ月の光に目を細めた。回りに立ちならぶ数え切れない書物の存在に感嘆が漏れる。
「すべてを知りたい。生きていられる時間の限り、私が知れることのすべてを……ここにあるものすべてを」
寿命を全うしても全部を知ることなんてできない。だからこそ今、少しでも多くのことを知りたいと思えて仕方が無い。
男として生まれていたのなら、王宮に仕えて、ここの蔵書を読むことを許される道もあったのだろうかと思わずにはいられなかった。
そんな私を彼は眩しそうに眺めていた。
「文字はどこで習った?」
聞かれて肩を落とした。
「最初は上の兄から少し教わって、そこからは独学なの。父や下の兄は女が文字を読める必要は無いという考えの人たちだから」
そうかと彼は呟く。
「ならば読めるようになるまで大変だっただろう。頑張って勉強したのだな」
咄嗟に顔を上げて相手を見つめた。
文字を読めることを、褒めてくれる男性がいるとは思わなかった。
月明かりの中で、夜の闇に浮かぶその人から目が離せなくなる。
黒い瞳を埋めた形の良い目元、通った鼻筋。気品あるその顔立ちに笑みが浮かべられ、それが私に向けられていた。
自分の顔が火照るのを感じた私は、思わず目を背けた。
時を見計らって私たちは書庫を出た。
夜更けの風は涼やかでむしろ寒いくらいなのに、小走りで行く間に繋がれた手は、暖かくて身体の芯までもじんわりと暖めるようだった。
回廊に登って見慣れた場所まで来ると、名残惜しげに私の手が放された。
「……今日はありがとう。すごく楽しかった」
いつものごとくお礼を告げる。
「喜んでくれたなら何よりだ」
彼はくしゃりと笑って答えながらも、少し寂しげな雰囲気を醸し出していた。もしかしたら、自分と同じ気持ちでいてくれているのだろうか。この時間が終わらなければ良いと。
「それから、話も聞いてくれてありがとう。なんだか気持ちがとても軽くなったの」
「それは良かった」
泣き顔を見せたのは恥ずかしかったと身を竦め、胸の前に手を組んで、自分の手元に視線を落とした。自分の手に、相手の手の感触がまだ残っている。
「……私ね、手に負えないじゃじゃ馬だって自分でも分かってるの。でも馬に乗るのをやめられない。馬が好きよ。どこまでも私を連れて行ってくれる。剣術も好き。勉学も好き。これが私なんだわ」
自分が好きなものを、真っ直ぐ好きだと言えるのが嬉しかった。
「ティイはそれで良い」
さらりと言われて心が浮き立つ。
初めてだった。私のことをそのままでいていいと言ってくれる人は。
「あなたといると何だか感覚が麻痺しそう。駄目だと言われてもなんでもやってみたくなっちゃう」
「それはいい。色々やってみよう。次は何をしたいか考えておくと良い」
嬉しさに動かされて反射的に微笑んだ。彼も優しい笑みを口元に浮かべてくれる。
「男女の差はどうしてもあるのは分かっているの。でも私は好きで女として生まれたのではないもの」
別れるのが惜しくて、次から次へと話してしまう。穏やかな表情を浮かべて頷きながら聞いてくれる彼の存在がとても心地良い。もっと話して、もっと彼の話を聞いていたい。
「私がやりたいことを自由にできる兄たちが羨ましい。男たちが羨ましい。自分が男として生まれていたならと思うこともあるの」
こちらの胸の内を見透かして、優しく理解するような眼差しから、目が反らせなくなる。
男だったなら、私はこの人ともっと仲良く出来たかも知れない。
男に生まれて王宮に仕えていれば、宴の席に限らず、この人に会いに行けたかも知れない。
「だが、ティイが男であったなら私は困る」
不意に言われて、きょとんとした。
風に、固そうな焦げ茶の髪が揺れている。私の髪も後を追ってそよぐ。どこからか名の知れない花の香りが、自分と相手の間を吹き過ぎていった。
「私はティイのそういうところが好きだ」
どういう意味だろう。意味を計りかねて次の言葉を探していると、女官の声がした。
「ティイ様!お帰りのお時間ですよ!父君がお探しです!何処に!」
女官が柱の陰にいる私たちの方へ駆けてきているのが見えた。宴で父についていた女官だった。父が私を探させているのだ。
「行かなくちゃ……」
別れがたく思って彼を振り返ると、ゆっくりと後ろに下がって私から離れていく彼の姿があった。
「ティイはそのままでいれば良い」
口元を綻ばせて告げる相手は、まるで夜の闇に飲まれていくようだ。二度と会えなくなったらどうしようと不安が込み上げ、咄嗟に追いかけたくなるのを堪える。
「また会おう」
いつもと同じ台詞。私はいつまでこの時を過ごすことができるだろう。いずれ最後がやってくるだろうに、そうならないで欲しいと願う私がいる。名前すらも知らない相手だというのに。
「いらっしゃった!探しましたよ」
女官が私の傍にやってきた時には、彼の姿は完全に見えなくなっていた。
「父君がお帰りになられるそうです。参りましょう」
女官に背を押され、ついさっきまで握られていた右手を左手で握り込んで歩き出した。
今日のような時間が、できる限り長く続いたら良い。そう願いながら。
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