優しい人
翌月の王の宴にも私は招待された。
自分でも驚くほど、この前の一件を引きずっているようで、タニイからの誘いも断ってしまった。本当なら今回の宴も断りたかったが、父が王家からの招集だからと辞退を許さなかった。
王宮を訪れ、いつもと同じ席に着くと、すぐ近くにある最高神官家の席にヘルネイトの姿はなかった。
どうせ王子は来ないのだろうと言って出席をはね除けたのだという。
今まで7回ほど参加してきた王宮の宴だが、最初の時以来王は皆の前に姿を現していない。王子に至っては一度も広間に顔を出したことがなかった。
タニイの姿もない。ヘルネイトやタニイが出席を断れるのなら、自分も断りたかったと肩を落とす。とても宴に出られるような心境ではなかった。
王宮にいたら、神官として王宮に仕えているというあの親子に会うこともあるかもしれない。またあの人から嫌な視線を向けられる可能性を思うと恐ろしかった。
父の隣に腰掛けながら、身を小さくして他の着飾った令嬢たちを眺めていた。
令嬢たちはいつも通り優雅に座って艶やかな衣装を纏っている。楽しそうに自分たちの衣装や髪飾りを自慢したり、見せ合ったりしてはしゃいでいる。
私もあの子たちのようにいれば良かったのだろうか。この子たちならば、破談にはならなかっただろうか。
しかし、そうなった私は、私であるのだろうか。
「ティイ」
呼び声にはっとした。
何回か呼んでいたのだろう、父が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫か」
はい、と頷く。
「気分が悪いのか」
これには首を横に振った。気分が優れないと言うわけではないのだ。
父は気遣わしげな顔をして、小さく息を吐いた。
「ここに気の知れた女性がいるのだろう」
私を見かねた父がそう言った。
気の知れた女性、と言われて浮かんだのはタニイだったが、父が言っているのは違う人物──ここでいつも会う、あの青年のこと。
父は未だに女性だと思い込んでいる。
「その女性に会ってきたらどうだ?気分転換にでもなろう」
ふと顔をあげる。彼の顔がありありと思い浮かんだ。
あの人は、言ったのだ。広間を出れば、私に会いに来てくれると。
そしていつも私の前に現れた。あの飄々とした面持ちで。
私のことをあまり知らないあの人に、いつも私の話を聞いてくれるあの人に「会いたい」と思った。
父の提案に私が頷くと、父は安堵の表情を浮かべた。
席を外して広間を出て、以前と同じ回廊を歩く。
いつもならば風や月光、流れてくる香りに胸をときめかせたものだが、今はすべてが陰っているように、自分の中にまるで入ってこなかった。
やがて歩くのも億劫になって、誰も居ない回廊の縁に腰を下ろした。膝を抱え、そこに顔を埋める。
景色も何も目に入らない。楽しいと感じる胸の高鳴りもない。
縁談を断った男の言葉が否応なしに耳の奥に繰り返される。
あんなにも自分を否定されたのは初めてだった。私になど価値はないだろうか。他と変わっていることはそんなにいけないことだったのか。顔と体はいいからというあの男の話を飲み込んで、妻になれば良かったのだろうか。
ああ、嫌だ。自分が、嫌いになりそうだ。
「──また会ったな。元気だったか?」
声がした。
顔をあげた先に、前回と変わらない飄々とした綺麗な笑顔があった。
「今日はあまり歩かなかったのだな。いつもより宴の席から離れていない」
彼は当然と言わんばかりに私の隣に腰を下ろす。
どう返答したらいいか分からなかった。
私の言動はすべておかしいのだろうか。そう思うと何を言ったらいいか分からなくなった。
もし、この人も私の言動を変だと思っていたら。ただ言わないだけなのかもしれない。そう思うと話すのも怖くなる。
返事ができないでいる私を彼は覗き込んだ。
「どうした、ティイ」
あまりにも優しい声で言われるものだから唇が震えた。
いつもはからかうようでもあるのに、こういう時ばかり優しくされると泣き出したくなってしまう。人前でなど、家族でもない人の前で泣きたくないのに。
「あなたは……あなたは、私を変だと思う?」
どうにかして出した声だった。
「どうしたのだ、急に」
涙が貯まりつつある私の目元見て、彼はひどく驚いた顔をした。
「ムノの名家に生まれたけれど、私は普通の令嬢たちとは違う。剣を振り回すのが好き。馬に乗るのが好きよ。書物を読むことも好き。あなたはこんな私を変だと思う?」
ここで変だと言われてしまったらどうしよう。
この人にまで、あんな風に否定されてしまったらどうしよう。
「何かあったのか?」
彼は私がこんなことを問うのか皆目見当も付かないようだ。
この人の耳には、私が男の顔を殴って縁談を断られたと言う話は届いていないのだろうか。イウヤの娘はとんでもない狼藉者だという噂が出回っていると思ったのに。
話すのを躊躇って、相手の黒い眼差しから目を反らした。
「知らぬ相手の方が話しやすこともあろう。話すと良い」
話して良いものかと思い留まる。今回の破談は私の家の恥でもあるだろう。
「案ずるな。誰にも言わぬ」
私の心境を読むかのように彼は柔らかな声音で告げた。
その言葉が本当であるかは分からない。それでも言いたい気持ちの方が勝った。両親にも兄たちにも言えないことだった。
床に座り込んだまま相手に視線を投げる。
隣にいる青年は、とても整った顔にこちらを気遣う表情を浮かべていた。
赤の他人に話してしまえば、少しは吹っ切れられるだろうか。
「聞こう。話せるか?」
こちらを覗きながら静かに問いかけられ、私は僅かに頷いた。
「……父が」
うん、と相手が頷く。
「父が決めた縁談の相手に嫌われて、両親に迷惑をかけたの」
私はおそるおそる話し始めた。
「少し前に決まった人よ。この前初めて会ったのだけれど、私、以前にテーベの町で少しやらかしちゃって、それをあの人は見てて……縁談を断られた。自分より賢い女を妻にしたくないんですって。私は変な女なんですって」
これではただの愚痴ではないか。
愚痴ばかり言うなんて情けないと両手で顔を覆った。
「ああ、愚痴ばっかりでごめんなさい。違うの、もっと色々あって」
「構わぬよ」
穏やかな声だ。
「ゆっくり話せ。時間はある」
静かな眼差しを私に向けている。その目で見つめられていることに、何故だかひどく安堵した。
「……その人に、妾にならしてやってもいいと言われたの。顔はいいからって。子供も産めそうだって。でもその代わり、私は外に出して貰えない。好きなこともさせてもらえないと思う。ずっと閉じ込められて、その人だけの相手をさせられて……」
彼は眉間に皺を寄せた。
「私が妻であることは恥なんですって。そう言われて頭にきて……思い切り殴っちゃったの」
そこまで言うと彼は大きく笑った。
「それはいい。いい気味だ。もっと殴ってやればよかったのだ。そんな風上にも置けない男など、いくらでも殴ってしまえ」
あまりにもけらけら笑っているものだから、私は唖然と相手を見つめてしまった。
そんな私に気づいた彼は一端笑うのをやめ、同じようにこちらを見てきた。
「どうした、そんな呆けた顔をして」
「だって……笑ってくれたの、あなたが初めてなんだもの」
そうか、と彼はまた肩を揺らした。
「気持ちいいくらいに、笑うのね」
皆哀れな目で私を見て、慰めていたのに。
相手が笑ってくれると、緊張していた糸がゆるゆると解けていくのを感じた。
「悪い。続けてくれ」
促されて、膝を抱えたまま再び口を開く。
人に話すことで、あの時の怒りやら悲しみやらが薄らいでいくのを感じた。
「その人に身体も触られて、気持ち悪くて、すごく嫌だった」
未だ残るその感触が嫌で、触られた部分を擦った。
あまり深刻にならないように少しだけ笑ってみたら、口元が震えた。自分でも驚くくらい、とても笑い話にできる記憶ではなかったのだ。
「それも殴った理由よ。あの人にいいようにされるのが嫌だったの。今こうしていても、もしかしたらあの人に出くわすかも知れない。そう思うだけで漠然とした怖さがある……体が震えるの」
彼の顔が一気に曇ったことに気づいた。
「それはどこの男だ」
急に低い声で尋ねられて困惑する。
「……神官の息子よ?」
詳しくは知らなかった。正式に婚約に至れば知る事もあっただろうが、破談になった今、父が話すことも、自分から尋ねることもなかった。
「あまり詳しくは知らないの」
顔はよく覚えているのだけれど。
「名は分かるか」
「名前は、確か……」
名を教えると彼は一度小さく頷いた。
「もしかして知り合い?」
「いいや。知り合いにいたら私が代わりに殴ってやろうと思ったところだ」
一緒に怒ってくれていると思うと、ほんのり胸が温かくなる。
弱々しく笑った私を見て、彼は安堵したような顔になった。
「ティイ、続きを」
言われて膝を抱き直す。このままこの人に全部を話してしまおうと思った。
「お父様はより強い繋がりが欲しくて私の嫁ぎ先を決めた。でも私が駄目にした。両親が私のことで悩んでいるのを聞いたわ。これからどうすればって……」
両親の声が蘇る。兄たちはきちんと自分の役目を全うしているのに、私は出来ない。皆の期待を踏みにじってしまっている。
「あの時は自分の気持ちが抑えられなくて相手を叩いたけれど、我慢すれば良かったのかしら。何もかもを捨てて従えば良かったのかしら。あの男についていけばよかった?家のために自分を投げ出せばよかった?」
ずっと考えていたことなのに、言葉にすると悲しさが増した。
「あんな人の妾になっていたらきっと苦しかったと思う。あの縁談はもうどうでもいいと両親は言ってくれるけれど、お父様とお母様が困っている姿を見る今も辛いの。私がこんなんじゃなかったらと思う」
こんな自分が嫌いだ。私が私のままであり続けては両親を困らせるだけだと分かっているのに、駄々をこねる自分がいる。
「そんなに泣くな。困ってしまう。どうしたらいいか分からない」
そう言われて気づいた。
自分が、泣いている。
目から零れて、零れて。止まらない。
「でも、私……私ね、」
泣くなんてみっともない。もっと強くありたいのに。
手で涙を拭った。それでも次から次へと溢れてくる。
「ティイは正しい。何も間違っていない」
相手の言葉に顔を上げた私に、彼の手が伸びてきた。
頬に手が触れたと思ったら、ぐっと指が動いて私の涙を拭った。
あの人の手とは違う、暖かな優しい手だった。タニイに触られてはいけないと言われたのに、それを拒む気にはなれなかった。縋っていたいと思ってしまう。この宴の席でしか会わない相手に、この人はなんて優しいのだろう。
「普通と違くとも私は良いと思う。そもそも普通とは何なのか、誰もその答えを知らない。明確な答えを言える者もいない。そうではないか?誰一人、同じ者はいないというのに」
彼を見つめた。
やはり綺麗な、澄んだ黒い瞳だ。その中に私がいる。私が、映っている。
「それに皆同じであってはつまらぬ。何より、学ぶことが好きで、剣が好きで、馬で走ることが好きで、何に関しても興味を持てる──それがティイであるということだろう。自分を殺してどうする。己自らの幸を求めずしてどうする。そなたの生であるというのに」
零れかけていた涙をもう一度拭われる。何だか急に恥ずかしくなって、その手をやんわりと払って相手に微笑みを向けた。
慰めであっても、彼の言葉が素直に嬉しかった。
「ありがとう」
礼を言うと、隣の彼の顔が緩く綻んだ。ほっとして泣いてしまいたいほどの優しい笑顔だった。
「……あなた、今までで会った誰とも違うわ」
このとき初めて夜の風が心地良く過ぎていくのを感じた。
「それはこちらが返す言葉でもある」
そう言われて思わず笑いがこみ上げた。
くすくす笑っていると、彼も肩を揺らした。心地良い日だまりでも見つけたような気持ちになる。
「ティイは文字を読むことや、勉学も好きなのか?男がするように自由にやりたいと?」
こくりと頷いて膝を抱く腕に力を込めた。
「……新しいことを知りたいの。だって私は何も知らないのよ。この世に知らないことが溢れているのに知らないまま、無知のまま死んでいくなんてごめんだわ。知らないことを知るほどに感動する。楽しくなって止められなくなるの」
分かった、と頷いた彼はすっくと立ち上がった。
回廊に流れ込んでくる風に、焦げ茶の髪が揺れている。
「良い場所に連れて行こう」
そう言いながらも少し考える素振りをする。いつもとは違う様子だ。
「どこへ?」
「何も聞かず、手を取れ」
よし、と顔をあげた相手は未だ座ったままでいる私に手を差し出した。
この人は私をどこへ連れて行こうと言うのだろう。
「何もせぬよ。怖がることはない」
目の前に男性の手がある。父とも兄たちとも違う、自分より大きくて骨張った手。
タニイに「手にも触るな」と言われた記憶が頭の隅を掠めるのに、私の手は迷いながらもそれに触れようと動き出す。
「さあ」
戸惑いつつも伸びかけた私の手を、彼は待ちかねたように強く取った。
じんと沁みるような暖かな手を、私は握り返す。
「時間が惜しい。走るぞ」
促されて立ち上がり、そのまま手を引かれて回廊を走り出す。容赦のない足の速さに、懸命に足を動かした。息が上がるが気持ちは高ぶっていた。
こんなにも思いきり走るのはいつぶりだろう。
すべての煩わしいことから解き放たれるような感覚があった。
──何があってもその男に触るな。触らせるな。
タニイの言葉が頭の中に響いた。
それでもこの手を取ったのは、彼が連れて行ってくれるという場所がどこであるか知りたかったから。そして何より彼にもう一度触れたいと思ったからだった。
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