これから


 縁談は破談となった。殴ったことを思えば当然のことだった。

 一部始終を聞いた母は、「縁談がなくなって良かった」と言って私を抱き寄せた。髪を撫でるその手は優しい。


「そんな相手だったと嫁ぐ前に知れて良かったというもの。ティイ、あなたは何も間違ってない。怖い思いをしましたね。母が気づけば良かったものを……許してちょうだい」


 夜の薄暗い部屋で私たちの前を行ったり来たりして落ち着かない様子の父も「問題はない」と言った。


「妾とは聞いていない。我が一族を何だと思っているのだ」


 父の声色には怒りが込められている。やはり父は妾の件を許していなかった。


「ティイ、お前は何も気にすることはない」


 あちらからも断られたが、こちらからも断ったのだと父は声を荒げながら私に告げた。

 果たして本当にそれで良かったのかは分からない。父は色々と考えを巡らせて、あの男を私の夫として選んだのだ。

 あの男の妻となれば、家のためになれたのだろうか。そもそもテーベでの一件がなければ、あの人が私を蔑むこともなかっただろうか。


「今日は休みなさい」


 何も言葉を発しない私に、両親が眉尻を下げて部屋へ促した。

 メティトに付き添われ、自分の部屋に戻って寝台に横になるも、どうしてもあの人から言われたことやされたことが頭から離れない。怒りのあとに悲しみが尾を引くようにやってくる。

 寝台にしがみついてぐっと目を閉じた。

 私は、そんなに嫌な女だろうか。私はそんなに変だろうか。ありのままの私は、蔑まれる存在なのか。役に立たない存在なのか。

 ラジヤが心配して隣にいてくれたが、何も話すことができなかった。

 涙が止まらなかった。今まで生きていた自分のすべてを否定されたような気持ちだった。

 あれだけありのままでいたいと強く願っていたのに、知りもしない男に言われただけで悔しさと怒りがない交ぜになって分からなくなる。



 眠れないまま朝が来て、いつもならまだ起きないような時間に、母のいる部屋に向かった。母ともう一度話したかった。

 私が起きるといつも飛んで現れるラジヤの姿は見えなかった。私がこの時間に起き出すとは思っていないのだろう。


 早朝の屋敷は静まり返っていた。見慣れた場所だというのに、何だかいつもと違って見える。

 母の部屋の前で、母の侍女に声をかけて入れて貰うと、奥から父の声がした。


「これからどうしたものか……」


 母は父と共にいるようだ。

 扉の前に立ち竦んで、両親がいる奥を見やった。広い部屋で、寝台がある奥には天幕があり、それに隠れて両親の姿は見えない。声だけが聞こえてくる。


「今回のことでティイの悪い噂が広まらなければ良いのだが」


 自分のことを話していると知って、つい息を潜めて聞き耳を立ててしまう。父の困った顔がこれでもかと想像できた。


「あの親子の様子だと、ティイのことをあることないことで言い立てるだろう」


 父の言葉に、母は「いいえ」と強く否定する。


「ティイは良い子です。そのようなことをされようとも問題ありません。必ず良い御方が現れます」

「だが、近いうちに嫁いで貰わなければ。ティイには背負ってもらわねばいけないものがある。この私の娘として」


 両親は、私のことで困っているのだと知った。

 私があの人を叩いたから、私の悪い噂が広まり、嫁の貰い手がなくなるかも知れない。

 これでは本当に私は、役に立たない娘ではないか。


 ああ、と声が漏れた。

 奥へ行って天幕の向こうにいる両親に会っても、合わせる顔がない。

 私はそのまま逃げるように自室へ戻った。



 あの男の妻になることは今でも嫌だが、それでも落ち込んだ。

 私はどうしたら良かったのだろう。

 私は外から見るとあの男が言っていたように見られているのだろうか。

 あのように面と向かって言われてしまうと、今まで気にしていなかったことの数々が急に気になって仕方がなくなる。

 考えても仕方がない、これが私なのだと言い聞かせても、自然ともとの思考に戻っては落胆することを繰り返した。


 好きなことも手につかない。

 父が珍しく私の好むような書物を持ってきてくれても、お礼を言って受け取るだけで、到底読む気にはなれなかった。


「ティイ」


 母がいつもと様子の違う私を案じて、部屋へやってきた。


「大丈夫ですか。最近元気がないとお父様やラジヤが心配していましたよ」


 父がくれた書物も机に置かれたまま手をつけられた様子がないと知ると、母は更に心配そうな顔をして、私の隣に座り、私を抱き締めて髪を撫でてくれた。

 母に抱かれながら、瞼を閉じる。

 家のために生きていくのであれば、それが私の役目なのであれば、これから私が変わらなければならない。

 名家に生を受けた娘として、他に順応できるように。


「お母様」


 私は母の腕を解いて、母に向き直った。


「私に名家の娘としての作法を、教えて頂けませんか。誰にも恥じることのないように」

「ティイ」


 気遣わしげに母は私を呼ぶ。


「お願いします、お母様」


 母は少し戸惑った表情を浮かべたが、それ以上は何も言わず、「分かった」と頷いてくれた。

 それから母は自ら私がいつ嫁入りしてもいいようにと今まで以上に様々な貴族の令嬢としての嗜みや作法を教え込むようになった。楽しいものではなくとも、自分のやるべきことなのだとそれらを淡々と覚えることをした。

 楽しい、楽しくないの問題ではない。やらなければならなかった。

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