縁談
そこから月に一度の頻度で私は父と共に王の宴に呼ばれ、私が宴の席を離れて回廊を歩いて行けば、彼は必ずどこからともなく現れた。
そのひとときが楽しかった。彼は何でも尋ねる私にひとつも嫌な顔をせず、自分のこと以外のすべてに答えてくれる。王宮の私の知らない場所へ連れて行ってくれる。決して私を変だと指摘することはない。
そうして宴が終わる時間になると、彼は別れを告げる。名残惜しくて振り返るが、その時もうすでに彼の姿はないことが常だ。
相変わらず父には、「王宮で女の人と友達になり、宴に行く度に会っている」と伝えていた。
父は王宮に仕える女性と友人になることは良いことだと喜び、挨拶をしたいと言い出したこともあったが、忙しい人だからと何かと理由をつけて拒み続けた。男性と会っていると父に知れたら、もう会わせて貰えなくなるのは明白だったからだ。
宴の翌日には宰相の屋敷でタニイに会い、約束通りの一部始終を話した。
タニイ自身、私との会話から彼の正体を探ろうとしていたが、どうも絞りきれないようだった。
7回目の宴を終え、ムノに戻り数日経った頃、前々からあった縁談の話が進んだらしく、私はその相手と会うことになった。
テーベでの一件以来、すでに破談になったと思っていたのに、縁談の話が進んだという事実に驚きを隠せなかった。
何でも急な申し出で、ムノの屋敷にわざわざ出向いてくるとのことで、私は慌てて普段着ないような、それこそ王の宴の席で用意されるような衣服を身につけ、髪や胸元、腕にも飾りをつけられた。
「お嬢様、綺麗ですよ!目も眩むくらい!」
「ええ……」
「どんな方でしょうねえ。お会いした後、絶対にお話聞かせてくださいね!待ってますからね!」
ラジヤが興奮気味に話してくるが、私は何だか浮かない気持ちで頷いていた。
相手がどんな人なのか、どこの人なのか、まだ何一つ知らない。それが気持ちの根底にあった。
やがて父が部屋にやってきて、私の相手がとある神官の子息であることをそこで初めて知らされた。
神官となればヘルネイトの父、最高神官の配下の者ではないか。父が司る軍人たちは神官たちとほぼ対立していると言っても過言ではない。だからこそ息子であるアイを神官として内情を探らせているのだ。
では何故、父は私の結婚相手に神官の息子を選んだのか。
そこまで考えてから、思考を止めて肩を落とした。父や母が決めたことならば、家のためであることに変わりはないのだろう。
ここで何故と聞いても「お前が気にすることではない」とあしらわれるのは分かりきったことだ。
父に連れられて入った客間には客人が二人、私たちを待っていた。
一人は神官だという父親。もう一人が、私の夫となる相手だ。その人も父親と同じ神官であるという。
年は近い。くぼんだような小さな目を持つ顔は自信に満ち、どこか寄りつきがたい雰囲気を纏っている。
私たちを認めた二人は、頭を下げた。
立場的には私の父の方が上らしい。父親たちが話している間、私は黙って俯き、その話をなんと無しに聞いていた。
父は私を二人に紹介し終えると、あとは下がるように命じ、私は言われるまま客間を後にした。
この縁談がまとまれば、私はあの男性に嫁ぐことになる。あの一瞬しか会っていないのに。神官の息子であること以外、相手のことを何一つ知らないのに。
部屋を出て、とぼとぼと歩きながら細い廊下から見える庭を眺めた。からっと晴れた青空が広がっている。ここを出て、ナイルの方へ向かったら綺麗な景色を拝めるだろうに。
ラジヤが婚約者はどんな様子だったか聞くのを楽しみに待っている。自室へ帰らなければと思いながらも、庭をぼんやりと目に映しながら、先程会った縁談の相手を思い返していた。
あの人が、自分の結婚相手。将来の夫。あまりぴんと来ない。
年頃になってからは、外には遊びに行かなくなっていたし、少年たちに混ざって戯れることもなくなっていた。
男性と言えば、父や兄たちしか知らない──とまで考えて、王宮で会う青年のことを思い出した。
屈託無く笑って、私の質問に何でも答えてくれて。
あの人みたいに、話していて楽しい人だったら良い。私のことを変だと言わない人が良い。
窓辺に手を添えて王宮での出来事を思い出していると、背後に気配がした。
ラジヤがしびれを切らして迎えにきたのかと思ったら、先程会った縁談の相手が立っていた。
「……どうしてここに?」
驚いて問いかける。
相手は返事をしなかった。私を頭から足先まで舐めるように見ている。
居心地の悪さに戸惑っていると、相手が重い息を吐いた。
「見てくれはいいのだがな」
「え……?」
予想外の言葉に私は目を瞬かせた。
「お前、変わり者なんだろう。どれだけ取り繕っても無駄だ。泥で衣を汚して棒を振り回している姿を私は見たのだから」
身が固まった。相手が言っているのはおそらく、テーベでの剣術の試合のことだ。
見られていたのだと知って、急に恥ずかしさが込み上げた。
「お、お恥ずかしいところをお見せしてしまいました。あの時のことは反省しております」
あの時会う予定だった相手に、慌てて謝罪した。
「テーベが久々で、少し興奮してしまったのです。見るもの全部が新鮮で、それで」
「言い訳はいらない」
弁明を断ち切られる。
冷たい声だと思った。この人が私を見る目も。態度も、口調も。
王宮で会うあの人とは違う。
「あの姿を見て縁談を一度断ったのだが、今回来たのは一つ提案をするためだ」
「提案……?」
家のためだと、沸き出た不安を胸に押し込める。
「いくら高貴な生まれであっても、そんな下劣な正妻はいらない。我が一族の汚名になるに決まっている」
相手がじりじりとこちらに近づいているのに気付いて、思わず後退った。
私を映す相手の目には、蔑みがあった。
父と共にいた時は、身分の違いからこちらを立てて話していたのに、二人になった途端こちらが下だと言わんばかりだ。
父と私では扱いが異なるのは理解できる。同時にテーベで不祥事を働いて迷惑を掛けたのは私だと自分を納得させるも、下劣と呼ばれたことに押し込めたはずの不安がまた溢れ出した。
「今、我が父がお前の父親に話しているが、お前を妾として迎えようと考えているのだ」
「……え?」
妾。正妻ではない存在だ。己の家柄と血筋を誇りに思っている父が、それを許すとは到底思えない。
「お前を妾としてもらってやろうと言ってる」
言葉を失う。
「あの、それは一体」
「お前の一族は私の一族との繋がりが欲しい。そうではないか?お前の父親が言っていた。我らの名が欲しいのだと。さらなる神官との繋がりを得たいのだと」
そういうことか、とこの婚姻を成立させようとした父の思惑を理解した。
王家を守る者として王宮内の結束を取りなそうとしているのだ。その手始めに、父は私を神官の息子に嫁がせることで、最初の神官側の繋がりを得ようとしている。
「我が一族も、その身分と血筋を欲しいと言っている」
相手は大きな足取りで追い詰めるように近づいてきた。
身体の奥底が震え上がるのを感じながら、相手を見上げた。
この人を夫とすれば、父の力になれるのか。家は守れるのか。
でも、この人はとても。
とても、冷たい。
言葉を失ったまま動けないでいると、相手の手が動いたのに気づいた。
「噂通り美しい顔立ちをしている」
顎をぐっと捕まれ、顔を上げさせられた。
「や、やめ……」
反射的に相手の腕を掴んで拒んだが、相手の指が頬に食い込むばかりだ。
私の様子など気にもとめず、相手は私の身体を壁に押しつけ、値踏みをするように私の顔を眺めていた。
「自慢は出来そうだ」
自慢とは何だ。
この人の私を見る目は、人を見る目ではなかった。物を見る目で私を見ている。
「もともとお前は美人と評判だった。だが、その令嬢とも思えない行動と知識が有り余ることで嫁に欲しいと言う男がいない。父親もさぞやお困りだろう。だがそこを私が妾に貰い受けてやろうと言っている。いい話だろう?」
そんな風に、私は周りから思われているのか。
よく似た嫌味は次兄から言われていた。でも家族でもない人間から、そういうことを面と向かって言われたのは初めてで、水を浴びせられたような衝撃があった。
「……離して」
相手は私の声を聞き入れず、私の腰に手を回し、身体の曲線を撫でた。
ぞわりと悪寒が走って、身体が石のように動かなくなる。
男性にこんな風に触られたことがなかった。気を許さぬ相手に身体を触られることが、これほどに嫌悪が沸く行為だとは知らなかった。
「良い体つきもしているからな、子供も産めそうだ。それくらいはしてもらわないと困る」
腰回りから腹部にかけて感触を楽しむようにしている手がある。
恐怖に、心の底から蒼白になった。
「やめて」
声が出ない。
いつもの私ならば大声だって出せるのに、声帯が嫌悪で強ばってしまっている。
自分の屋敷なのだから、声をあげれば誰かしら来てくれるというのに。
相手に抗おうと腕を動かすのに、震えて上手く力が入らない。
「今まで好き勝手暴れてきただろうに、男は初めてか?こんなに震えて」
耳元に相手の吐息と共にそう囁かれて、身を捩った。
私は物ではない。値踏みされる覚えもない。貶される謂われもない。
「妾にして私の家の名も与えるが、外にでは出さない。恥はかきたくないからな。部屋に閉じ込めて、お前には私の相手だけをしてもらう。そして私の子を産んでもらおう」
私を、閉じ込めると。そして子供を産めと。
「肌触りも良い」
首筋を指でなぞられ、あろうことかそこに相手の顔が埋められる。血の気が引いた。
自分を蔑む男が、何故自分の肌に唇を這わせているのか。何故こんな扱いを、私は受けているのか。何故。
気持ち悪い。気持ち悪い。
気持ち悪い。
怒りと羞恥が身体の奥底から頭の頂へ突き抜ける。こちらの身体に触れることに熱中する相手の顔に向かって、自分の拳が勢いよく飛んでいった。
「……嫌!!」
鈍い音と相手の呻き声と共に、私の声が爆裂した。同時に相手が音を立てて目の前に倒れ込んだ。
「馬鹿にしないで!」
肩で息をしながら倒れた相手に叫ぶ。腹立たしさやら、気持ち悪さやらが高じて胸が詰まった。泣き出しそうだ。
こんな男に触られていたのが嫌で、触られた部分をごしごしと擦った。
「私は!私はただ……!」
言いかけて、はっとした。
父や家のこと、自分の立場や役目を思い出したからだった。
「お嬢様!」
私の叫び声を聞いて駆けつけてきたメティトたちを視界の端に見る。
客人が倒れていることに彼女たちは小さな悲鳴を上げた。
「……この女、やりやがった」
相手が倒れ伏した床からよろよろと身体を起こし、立ち上がるなり私を睨み付けた。怒りが込められた視線に身体の奥が震えた。
「自分より賢い女を妻にもらう男がいるとでも思っているのか!」
顔を真っ赤にさせた相手は、唾を吐き散らして私に怒鳴り散らす。
「男に媚びを売ることもできない役立たずめ!」
あれを我慢することが媚びなのか。それが皆が私に求めることなのか。
怒りたいのは、叫びたいのは、私の方なのに。
「お前みたいな女、妾でもお断りだ!せいぜい落ちぶれていくがいい!」
その言葉を最後に、相手は侍女たちにも悪態をついて離れていった。
ああ、私は。
私は──。
肩で息をして、顔を両手で押さえその場に座り込む。
力が入らなかった。全身が震えていた。
「お嬢様!!いかがなさいました!」
メティトと侍女たちが悲鳴を上げて駆け寄って私を支えてくれたが、嗚咽が邪魔をして声が出なかった。
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