軽装の青年


 これでもかと灯りで照らされていた広間を出ると、纏っていた熱を払うように風が過ぎていった。

 夜風の涼しさが気持ち良く、ぐっと背を伸ばして息を吐き、そのまま辺りを見渡してみる。

 外に面した回廊が、天井を支える太く白い柱とともにずっと長く続いていた。

 ここまで長い回廊を見たことがない。他にも部屋があるようで、そこを覗いてみたくなったが、それはいけないと自分に言い聞かせた。

 あまり遠くへ行かないように気をつけながら、王宮の回廊を一人歩き出す。外はすでに闇に包まれており、半月が煌々とこちらを照らしていた。回廊には最低限の灯りが一定の間隔で小さく灯っていたが、月の方が断然明るく感じる。こんなにも月光が白く輝いて見えるとは、やはり神の都は違うのだ。

 途中、擦れ違った何人かの女官たちは、王族ではない私にそこまで気を止めることなく過ぎていく。誰も私を咎めることをしない。何だか自由になれたような気がして足元が踊り出すように前へと進んでいった。


 ああ。この長い回廊はどこまで続いているのだろう。

 もっと先へ行ってみたい。もっと。もっと。

 好奇心ばかりが先走り、足が踊るように進んでいく。


「──どこまで行く?」


 不意に声がかかって足を止めた。


「このようなところで、迷子か?」


 振り返った先に、どこから現れたのか、王宮に似合わぬ軽装の青年が立っていた。

 年は自分より一つ二つ上だろうか。固そうな焦げ茶の髪に、品の良い顔立ちが映えている。顎は細く、形の良い目元に黒い瞳が収まり、その目尻は流れるようだ。

 どこぞのご子息だろうか。先程の広間にいただろうか。見覚えがない。


「迷子ではありませんのでお構いなく」


 知らない人とはあまり関わりたくなくて、素っ気ない返事をした。


「確かに迷子らしからぬ強い足取りで進んでいたな」


 彼は屈託のない表情で笑った。

 普段着としか言えない服装の相手を見て、自分の眉間に皺が寄るのが分かった。

 王宮はこんな軽装で訪れて良い場所ではない。こんな私ですらこれでもかと飾り立てて来ているのに、常識のない人だ。


「広間には戻らないのか?」


 冗談ではない。一人になりたくて広間を抜け出してきたというのに。今は誰かと話すのも億劫だ。


「今頃、うまいものが沢山出ている。王宮でしか味わえないものもあるだろうに」


 彼はとても面白いものを見るかのように、私を見ていた。


「お腹が減っておりませんの」


 首をふいと反らすと、彼は一歩こちらに歩み寄ってくる。


「宴の席の料理や踊りは好きではないのか?ムノの娘御よ」


 自分の出身地を言い当てられたことに驚き、彼を見つめた。

 私のことを知っているのだろうか。


「そなた、ムノ名家の娘御であろう。父君は軍事司令官のイウヤ殿ではないか?」


 いや、私を知っていて声をかけているのだ。

 古来続く名家の存在を知る者などいくらでもいるだろう。私が皆を知らないだけで、多くは私を知っている。テーベに来て嫌なほどに思い知ったことだ。

 その軍事の頂に立つ男の娘が今回宴の席に呼ばれているのも、すでに知れ渡ったことなのかもしれない。


「ええ、いかにも。私はイウヤの娘です」


 無愛想に返事をした。今回の宴の最中、どれだけの人たちに声をかけられたことか。もう笑顔を取り繕うのも疲れた。


「そのような高貴な娘御が一人で出歩いていて良いのか?」

「大丈夫です」


 あくまで淡々と答える。


「父がいれば問題ありません。皆父に会うのが目的のはずだわ」


 私など父のおまけに過ぎない。


「そなたほどの名家の娘御なら、皆に良くしてもらえるではないか。戻ったら良いだろうに」

「あのような高貴な席、私には勿体ないので」


 相手はゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる。


「イウヤ殿は末の娘御を大層大事にしていて、なかなか外に出すことはないと専らの噂だ。その末娘が今回テーベに来ているとなれば、皆その娘を一目見たいと思って来ているかもしれない」


 ついに傍までやってきた相手を見上げた。

 この人は何が言いたいのか。彼の意図が分からず、苛立ちが募って仕方が無い。


「私は見世物じゃないわ」


 思わず強く反論した私に、相手はきょとんとした顔をした。その表情がまるで小動物のようで、声を荒げた自分が申し訳なくなる。


「……あなたが言ったとおり皆に良くして貰えるけれど、私はそれが一番嫌なの」


 こちらが声を荒げたにも関わらず、相手はとても穏やかな眼差しを私に向けていた。


「何故?」


 その様子は私を慰めるようでもあった。話を聞いてくれようとしているのだと気付く。


「……私は、確かに紛れもない名家の娘。軍事で名をあげ、王からも信頼を置かれるイウヤの一人娘よ。だから皆、私たち家族に恭しく接する。かしずくの。でもそれは、お父様がそれだけのことをしてきたからよ。お父様は立派な人だと分かっているからともかく、私は何もしてないもの。敬意を払われるような理由は何もない」


 驚かせてしまったことの言い訳のように、私はこれでもかと理由を言い並べた。

 見ず知らずの人にここまで自分が話すとは思わなかった。相手の穏やかさに感化されたのだろうか。


「私はイウヤの娘というだけで頭を下げられるほど偉くない。それなのに褒め称え続けられるなんて息苦しくて耐えられない。あの席に私は割に合わないのよ。だから逃げ出してきたの。ああされるのが嫌なの」


 彼は顎に手を当てたまま、不思議そうに私を見ていた。


「……とても変わった考え方をするのだな」


 少し考えてから感心したように言った。


「普通なら父の名に乗って踏ん反り返っていてもいいだろうに」

「そうね。私は他のご令嬢方とは少し違うみたいよ」


 彼が深く考えるような素振りをしたものだから、私はたまらず歩き出した。

 変わっていると言われるのはもううんざりだ。


「以上よ。私は探検をしてくるわ。さようなら」


 このままいたら、何か嫌なことを言われそうな気がした。女らしくないとか。はしたないとか。

 普通の娘は初対面の男性にこんなに話さないだろう。この前の船の上で、他の令嬢たちから教えられたことだ。


「ティイ」


 名を呼ばれて足を止めた。

 驚いて振り返った。聞き違いではない。自分の名を呼んだのは先程まで話していた彼だった。

 教えただろうか。この人に。己の名を。


「呼んだ……?」


 空耳かと思ったが、どうやら違うらしい。


「ああ。呼んだ」


 にっこりと少年のように笑い、彼は呼んだことを肯定した。

 私の名まで、知れ渡っているのか。


「自分を客観的に捉えられているのは凄いことだ。なかなか出来ることではない」


 喜々として彼は再び私の隣にやってくる。その足取りはまるでテーベの町で見かけた犬のように軽やかだった。足下のサンダルが綺麗な音を成して響き渡る。


「その探検に私もついていっても良いだろうか。丁度暇を持て余していた所だ」


 この人も、私と同じように広間から抜け出してきたのだろうか。

 ほっつき歩いていた私はよい暇潰しということか。


「実はああいう公の場は苦手なのだ。一緒だな」

「嫌よ」


 突然仲間だみたいなことを言われても私には仲間意識などひとつも沸かない。

 何せ名前も何も、彼が男だと言うこと以外私はこの人のことを何も知らないのだから。


「おや、嫌われてしまった」


 それでも彼は飄々と笑っている。私の反応を面白がっているようだ。ますます腹が立ってくる。


「あなた、どこのご子息?一体どこの誰。知らない人と一緒にいるなんて御免だわ。私は一人になりたくて広間を抜け出してきたのに」

「良いではないか。邪魔をするわけではない。伴を買って出たのだ。ティイが暴漢に襲われたら助けられるぞ」

「ここは王宮よ。法に守られているの。暴漢なんて出ないわ」


 理由を話したのだから、もう放っておいてくれればいいのに。


「頭が良いな。『法』という言葉が女子から出てくるとは思わなかった」

「褒めてくれているのね、ありがとう」


 我ながら嫌みったらしい言い方だ。

 知識のある女子が嫌われるのは知っている。アイがよく言っていたことだ。この人も同じように私に知識があることを面倒に思うに違いない。


「同志がいてくれて嬉しいけれど、せめて名乗ってちょうだい」

「名など知らずとも良いではないか」


 ああ、もう。

 相手はこちらのことを知っているのに、私は相手のことを知ることもできない。これでは不公平だ。


「どれだけ偉い貴族のご子息か存じませんけれど、知らない人と親しげに話すほど私は八方美人ではありません。広間には私より断然お綺麗なご令嬢が沢山いらっしゃいます。そちらにいかれてはいかが?」

「そう言わず、私の話し相手になってはくれぬか」

「しつこい人は嫌いよ」

「ふられてしまった」


 話していても埒があかないと大きな溜息をついて、そのまま彼を振り切って歩き出した。

 それでもまだついてきそうな気がする。

 どうにかして巻けないかと頭を巡らせていると、ここから離れたところに庭園らしき場所が見えた。

 回廊を下に降りた先、緑の間に紫が覗いている。随分と広い場所のようだ。

 あんな光景を、私は見たことがなかった。

 緑の下に紫がある。紫色がこれでもかと広がっているのだろうか。あの紫は何だろうか。何のために王宮にそんな場所が設けられているのか。

 ひとつ見れば、疑問がこれでもかと溢れてきた。


「どうした?」


 立ち止まった私の隣に、気付くと青年が立っていた。頭ひとつ分、自分より背が高かった。


「あれは、何かしら」


 先程までの私ならば彼に尋ねるのも癪なのに、どうしても知りたくて指を差して尋ねていた。好奇心にはどうしたって敵わない。

 彼は私の指先にあるものへ視線を動かし、「ああ」と頷いた。


「葡萄園だ」

「葡萄?お酒につかわれる、あの?王宮だけにあると言われる庭園のひとつよね」


 そこまで答えた私に彼は少し驚いた顔をしながら、「そうだ」と頷く。


「葡萄酒造りは王家だけに許されている。故に王宮の中に葡萄園がある。それがあそこだ。今、あそこに明かりがあるのはあそこで収穫された葡萄を足で磨り潰しているからだ。今は宴が多い分、消費量が凄まじい。今の時期は夜もこうして作り続けられている」

「……あなた、物知りなのね」


 感心して言うと、彼は肩透かしを食らったような顔でこちらを見返してきた。


「そなたも随分と知っているようだ。凄いな」


 きょとんとした。自分の知識を褒められたことなど初めてだった。


「だが、私ほどではない」


 その言葉にむっとして顔をあげると、彼は得意げに口端をあげている。


「どうだ、伴として私は最適だろう?」


 自分には知りたいことが沢山あった。同時に自分の疑問に対する答えをすらすらと告げた彼は、何より最適な人材に思えた。


「あなたに私の伴を願います。でも私の邪魔はしないで」


 好奇心には敵わない。


「喜んで引き受けよう」


 私の言葉にふざけながら返事をした彼は、嬉々として私の前を歩き出した。


 彼は博識だった。私の質問に対して、これでもかと詳細な回答をくれる。

 やはり、身分の高いところの男子は私が得られる知識以上のものを持っている。この人と一緒にいるだけで、男子として生まれていたならば、という思いが更に強くなってしまう。


「ここを抜ければ葡萄園に出られる。今の時間ならちょうど人がはける頃だ。行ってみよう」


 相手に導かれるままに進んでいく。

 私の知らぬ道を。私の知らぬ世界を。

 それだけで自分のしがらみから抜け出せるような心地になった。

 回廊から飛び降りて、これでもかと走り抜ける。

 葡萄園の近くまで来ると、先に細い抜け道をくぐり抜けた彼が、その先に誰もいないのを確認して戻ってくるなりこちらに手を差し出した。


「さあ」


 彼の手を前に少し戸惑ったが、ここまで来たのだから、行かなかったらきっと後悔する。

 今の私は、恐れを知らなかった。

 意を決して取った相手の手は、とても大きかった。同時に剣を握る手だと気付いた。

 手を引かれて、深く呼吸をする。腰を屈めながら恐る恐る進むと──。


「ああ、すごい……」


 作業のための灯りが所々に燃えていて、頭上の一面の紫色を煌めかせていた。

 庭園の正門ではない場所から私たちは入ったのだろう。遠くに人影が見えたが、こちらにはいない。私たちが灯りを持っていない分、闇に紛れてこちらの姿が見えることもなさそうだった。


「すごいわ、木がどこまでも繋がっているみたい」


 惚れ惚れとしてしまう。こんな景色は見たことがなかった。


「葡萄ってこうやって実がなるのね」


 手を伸ばしてそっと紫の果実に触れてみた。日頃、自分が食べているものだというのに、どうなって実っているのか私は知らなかった。


「裸足で歩いてみても大丈夫かしら……」

「好きにすれば良い。誰も怒る者などいないのだから」


 嫌な顔をされそうな質問に、彼は葡萄の木の根に腰掛けながら穏やかに答えてくれた。


「ありがとう」


 新調されたサンダルを脱いで、裸足で地に触れてみる。

 地面も不思議と緑に満ちていたが、これは葡萄園のためにナイルから引いて作られた地であると青年が教えてくれた。

 木に触れて、少し緑の地を踏んで、紫の天を仰いだ。夜風が葡萄の葉の合間から流れて私の髪を攫った。楽しさに笑みが零れてしまう。女らしく、令嬢らしくしなくても誰にも咎められない。誰も私を叱らない。嫌味も言われない。嬉しかった。この瞬間、私はありのままの自分で笑っていられた。

 こうしている内に自由に外で遊んでいた幼い頃を思い出した。昔と何一つ自分は変わっていないと思っていたのに、懐かしさに襲われた。私はいつの間にこの感覚を忘れていたのだろう。それがありありと感じて何だかひどく切なかった。


「ねえ、あれは何かしら」


 切なさを振り切るように、今は今を楽しもうと、溢れてくる質問を伴に投げかける。あれは?これは?と尋ねる私を、青年は嬉しそうに眺めながら詳しく教えてくれた。

 頬を熱気が取り巻いていた。風で音を成す髪飾りも耳飾りも、この裾の長い服も煩わしく感じた。

 自分が見ている世界は本当に狭い。知らないことが山のようにあるはずなのに、このままでは何も知らないまま終わってしまう気がする。

 そんなことを彼の話を聞いて考えをめぐらせている内に、広間の方向からガヤガヤと声が聞こえてきた。それが何の合図であるか、すぐに飲み込んで顔を上げた。


「……もう、お開きかしら」


 宴が終わったのだ。


「そうらしい」


 呟いた私に、彼も立ち上がり、広間の方角を眺めて頷いた。


「戻らなくちゃ。父が心配するもの」


 あの心配性の父が騒ぎ立てる前に。

 遠くへ行くなと言っていた父を思い出して慌ててサンダルを履き直した。自由な時間は終わったのだと肩を落とす。


「戻ろう」


 彼は小さく笑んでそう言い、来た道を進み始め、私もその後ろを付いていく。


 ゆっくり進んでいったつもりなのに、あっという間に見覚えのある回廊が現れた。

 女官や兵たちと鉢合わせることなく、青年の手を借りて広間へ続く回廊に登ると、彼は人の声がする方を指差した。


「ここをずっと進めば広間に出られる」


 まるで送り出そうとしているかのようだ。


「あなたは?戻らないの?」


 てっきり一緒に戻るものだと思っていた。あの広間に集まる中の一人ではないのか。


「あとから戻る」


 そう言って彼は私に手を振った。


「また会おう」


 また会えるかは分からない。ここに来られるかどうかは、王家から招待されるか否かで決まるのだから。


 彼がどこの人なのか、どういう経緯でここにやってきて、私に声をかけたのか、何も教えてはくれなかった。教えるつもりはないのだろう。

 ただ、今日のこの時間は夢のように楽しかったのは間違いなかった。また同じような時間が過ごせたら、それはどんなに幸せなことだろう。あんな自由な感覚は本当に久々だったのだ。


「……また」


 相手にそう告げて、私は広間へ戻る回廊を歩いた。


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