王の宴
テーベに着いたのは宴が行われる日の昼頃だった。
私が外へ抜け出す時間がないように、父は今回のテーベ滞在期間を今日から3日と短く予定していた。
どうにかタニイに会えないかと父に相談してみると、それは快諾され、こちらから会えるよう取り計らおうとしていたら、まるで見計らったかのようにタニイの方から宰相の屋敷へ招待された。日程は王家の宴の翌日だ。
あまりに嬉しく、私はすぐさまタニイからの従者に「喜んで伺います」と返事をした。
私は嬉々としながらラジヤや侍女たちと夕刻近くにいそいそと準備をし、今までにないくらい上等な衣装や髪飾りを身に纏って、父と共に王の宴が開かれるという王宮へ向かった。
馬に跨がる父の後ろを、従者に担がせた輿に乗って進んでいく。話でしか聞いたことがない王宮へ今自分が向かっているのに現実味が湧かず、夕陽で橙に染め上げられた道をぼんやりと眺めていた。
テーベの街の人々が辺りを行き交い、飼い犬を連れた子供たちがはしゃぎながら駆けて笑い声を響かせている。皆、地平線へ沈む太陽と共に家へ帰っていく。以前のようにこのテーベの街を見て回ることはできないのだと思うとやはり切なかった。
やがて衛兵に守られる立派な白い門が現れ、父の姿を認めた衛兵が重たげな門を押し開いた。輿のまましばらく進み、王宮へ上がる階段が見えたところで馬から降りた父に従って私も地面に降り立った。
王宮の従者と女官がこちらに軽く頭を下げている。これから王宮内へ案内されるのだと分かって、今まで感じてなかった緊張が表面に滲み出た。
「お前は話さなければそれなりに見えるのだから、私の隣でゆったりとしていなさい」
父は王宮の入り口を前に、私にそう耳打ちした。
私が何かやらかさないか余程心配らしい。
私も王宮で何か失態を犯したくはない。それくらいの分別は弁えているつもりだ。
「何かに興味を持っても、それに近づくことは許さぬ。母から教わった作法を絶対に忘れぬよう心せよ」
「はい、お父様」
いかにも令嬢らしく答えてみると、父は満足げに大きく頷いた。
「ならば行こう」
父と共に従者たちに向き直ると、従者の一人がこちらに挨拶をした。
「ムノの地を任されし、歴史ある血筋をお持ちの軍事司令官イウヤ殿とそのご息女ティイ殿。よくいらっしゃいました。王もお喜びになりましょう。さあ、こちらへ。ご案内いたします」
なんともまあ、大袈裟で長い呼び名だ。イウヤ殿、ティイ殿で良いだろうに。
他の皆もこんな長い前置きをつけられて名を呼ばれているのだろうか。もしそうならば全員分聞いてみたくなる。
従者の後ろを私たちがついて歩く。
初めて入る王宮内に私は辺りを見渡して目を瞬かせた。
やはり王宮というものは、そこらの貴族の屋敷とは全く違う。夕闇だからだろうか、建物の白さがこれでもかと映え、描かれたレリーフは踊るように全体を彩っている。長い回廊は、どこまで続いているのか、果てがあるのかと不安になるくらいだ。
どこからかおいしそうな料理の香りにお酒のにおいが漂い、回廊の両端を一糸乱れず並ぶ女官と兵たちの姿は美しかった。
「ねえ、お父様。凄いのね、王宮って」
囁くと、そうだなと父は隣で頷いた。
「だからといって、勝手に出歩かぬように」
まるで考えを見透かされているようで「分かっています」と苦笑した。
「お二方、こちらへ」
従者に案内され、いよいよ踏み入れた宴が行われる広間は、豪華絢爛で度肝を抜かれた。
まるで夢の中にいるような光景だ。まず天井が驚くほどに高く、広さも目が回るほどだ。人も多く、すでに自らの席に着いている人たちもいる。女官たちもこれでもかというくらいにいて、酒樽を抱えてあちらこちらへ回っている。
「ティイ、おいで」
声がして視線を戻すと、父は案内された自分の席の前にいた。
「お父様、私たちの席ってここなの?」
自分たちが座る場所は王族に随分と近い席だった。
「そうだ。我らはこれだけ高い地位にあるのだ。そのことをお前もしっかり弁えなければならぬ」
そう言われるとますます緊張した。こんなにも大勢に囲まれる経験など生まれてこの方なかったというのに、近くにはこの国を治める神の血筋の一族が座るという。自分だけが妙に浮いている気がしてならなかった。
招待された者たちが大方揃うと、宰相ラモーゼが「王は遅れて広間に見える」と告げ、皆の杯に酒が注がれ、広間の中心で踊り子たちが音楽に合わせて舞い始めた。宴が始まったのだ。
そんな中で父が私に杯をひとつ差し出した。
「お前ももう年頃なのだから、酒の味を知っていても良いだろう。王家の葡萄酒を飲める機会はなかなかない」
そう言われて恐る恐るお酒を一口だけ飲んでみたものの、喉が焼けるような感覚に慌てて水を貰って、父に笑われた。大人たちはこんなものがおいしいと言っているのかと驚く。料理が次から次へと運ばれてくるが、食べられるものはあるのかと不安になった。
「イウヤ殿、ご無沙汰しております」
葡萄を見つけて一口含んだ際、誰かが父に話しかけてきた。
「先月のご功績、さすがに御座いました。ファラオもさぞやお喜びでしょう」
「皆の働きがあったおかげだ。ファラオにもそうお伝えしてある」
どうやら父の知り合いらしい。
話を何となく傍らで聞きながら、次に食べられそうなものを見つけて手に取った時。
「隣にいらっしゃるのはお嬢様でいらっしゃいますかな」
自分のことを言われているのだと知って身を固めた。
「末の娘だ。今回王家にご招待いただいて連れてきた」
父に紹介されながら軽く会釈をすると、すでに酒で顔を真っ赤にさせた相手はとびきりの笑顔をこちらに向けてきた。
「なんとまあ美しいご息女でいらっしゃる。優美で可憐。ここでお目にかかれたこと、心より嬉しく思います」
歯が浮くような台詞を並べ立てられ、私はなんとも言えない表情で礼を言った。
次に来る人も、その次に来る人も、父の功績を称え、息子がいれば息子を取り立てて貰えないかと打診し、娘がいれば私と仲良くして欲しいと告げ、最後にとってつけたように私のことを美しいというお世辞で終わる。
これが数人であれば良かったものを、結局は広間に集まる多くの者たちが父への挨拶のために並ぶという始末だ。
父はこんなにも偉い人間だったのかと改めて認識させられながら、私は必死に笑顔であろうと心がけた。
「ティイ」
一段落ついた頃、父がはっとしたように広間の奥を見やって私を呼んだ。
「ファラオがお見えになられた」
父の視線の先を追って、あっと息を飲む。
広間の奥から、宰相ラモーゼと側近たちをつれた王が姿を現した。
それに気付いた誰もが己の席に着き、一糸乱れず王に頭を垂れる。慌てて父に習って私も頭を下げた。
しんとした静寂が怖いくらいにまとわりつくのを感じた。
話でしか聞いたことがない王が今自分たちの近くまで来ている。
神とも呼ばれる御方だ。これほどまでに尊い身分の存在を目の前にしたことがなかった。
息を潜め、数人の足音が近くの席で止まるのを聞いていた。
「皆、よくぞ集まってくれた。顔をあげよ」
玲瓏たる声だ。
恐る恐る頭を上げて、自分の席からそう離れていない王族のための席を見た。
宰相ラモーゼの隣に男性がいた。手には黄金の杖を持ち、威厳を振りまきながら鋭い眼光で我らを見下ろす姿は王としての存在感で溢れていた。
あの御方が、トトメス殿下。この国のファラオ。
だが纏う王としての威厳とは打って変わって、その顔色は悪い。自分の父と年はそう変わらないはずだが、その顔色とこけた頬、痩せた身体で老人のように見える。
王たる勇ましさは、その黒い目だけに恐ろしいほどに宿っていた。
「我が親愛なる民よ。神々に愛されし者どもよ。今日は我が国、そして神々へ向けて歌い、祈るが良い」
言葉はそれ以上続くことはなく、皆に背を向けた王はそのまま下がっていった。側近や宰相たち以外を近づけまいとしているようにも見えた。
「……王はお加減が悪いと見える」
王の空席を眺めて呟いた父は悲しそうだ。
「ファラオはご病気なの?」
尋ねると、父の表情はますます悲哀に満ちたものになった。
「公にはされていないが、おそらくは」
あの様子では死期は近いのでは、と思わずにはいられなくなる。おそらく周囲の皆が未だ静かなのも、同じことを悟っているからではないだろうか。
王が替るのならば、時代が大きく動くことになる。稀代の王とも謳われたトトメス殿下が王ではなくなったらどうなってしまうのだろう。
そこまで考えて、ふっと身体の力を抜いた。いくら考えてもその答えが出るわけではない。残念ながら私はそこまでの知識を持ち合わせてはいなかった。
再び広間の人々に視線を戻した。先程は挨拶に来る人々で見えなかったが、私たちの席の近くには最高神官の娘ヘルネイトの姿もあった。
父親の傍に美しく腰を下ろす彼女は、多くの客人たちから挨拶を受けながらも、誰かを探している様子だった。姿を見せない王子を探しているのだろうか。
王の退出後、宰相も自らの席についていたが、その隣にタニイは居なかった。
父の後ろについて宰相への挨拶の際にタニイのことを尋ねてみたら、彼女はこういう場を好まないらしく、招待されてもあまり出てこないのだと言う。
「あまりにも自由で男気がある娘ゆえ、実に困っているのだ。私の手に負えぬ」
ラモーゼは眉を八の字にして軽く笑った。
「ティイ殿、明日あなたと会えることを娘はとても楽しみしている。これからも良い話し相手になってはもらえぬだろうか」
そう言って貰えて恥ずかしくも嬉しさがあった。
「もったいないお言葉です。私も明日を楽しみにしておりますとお伝えください」
そう言った私に「伝えよう」と宰相は微笑んだ。
「ラモーゼ殿」
私たちの話が終わったらしいと、今度は父が宰相に呼びかけた。
「王子殿下はいらっしゃられないのですか」
ラモーゼは困った顔を父に寄せた。
「ここだけの話、我々も探してはいるのだが見つからないのだ。賢い御方ではあるのだが、自由が過ぎる」
「なんということだ、王族としての自覚はおありなのか。父君がご出席できないのであれば、あの席に座り皆をとりまとめるのが王子のお役目のはず」
「それは殿下もご理解されている。公務は父君の代わりにしっかり熟しておられるのだが、側近の話だと今回は『すまぬ』と言って跡形もなく部屋からいなくなられたらしい」
父はそれを聞いて頭を抱えるようにした。
「宴を取り仕切るのも大切な王族の勤め。これではあの御方が王になられた時が心配でならぬ」
他にいくつか父と話したラモーゼは、王の側近に呼ばれて奥へ下がっていった。
私たちが自らの席に戻るなり、またあの挨拶巡りが始まった。
媚びへつらいながらやってくる皆が、父や私に笑顔を向けて行く。それと共に、彼らが自分に頭を下げているという事実に居たたまれなさを感じた。息苦しかった。
「お父様」
一区切りがついた時を見計らって、隣の父に声をかけた。
「席を外してもよろしいでしょうか?少し熱気にやられてしまって」
「ならば侍女をつけよう」
すっかり父は酒に酔っているようだ。挨拶に来る皆から酒を注がれていれば無理もない。
「大丈夫です。遠くまでは行きません」
侍女をつけられる前に、そそくさと席を立って私は広間を出た。
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