ふたりの兄
アネンとアイの仲裁によって父の怒りは治まり、その日の夕飯は家族と共にとることを許された。父と母、それから手助けをしてくれた兄たちや私を追いかけて止めてくれた従者たちにもお礼と謝罪をした。
母は私に会うなり、幼い頃のように私の怪我の有無を確認して、無事であると確認するや否や私を強く抱き締めてくれた。
その後、父からは屋敷から外出を一切禁止することを念押しされ、唯一母やメティトを伴っての外出であれば月に一度だけ許可されることになった。
これからの自分の行くべき道を思えば、もう好奇心に任せた行動を取ることはできない。父や母、兄たちのようにこの一族に生まれた娘として生きていかなければならない。それがこの家に生まれた私のさだめなのだ。そう自分に言い聞かせた。
父とアネンがテーベへ戻る日、アネンが私を部屋に呼んだ。
兄の部屋は、物が少ない上に整理整頓されていて生活感がまるでない。昔使っていた粘土板や親族から貰った小さな神々の像が並んであるが薄く埃を被っている。ぽつんと置いてある寝台には、テーベに持っていく私物が一つにまとめられて置いてあった。こうした光景を見ていると、この空間の中で、兄とその荷物以外の時間が止まっているような感覚になる。滅多にムノへ帰って来ることもないから無理もないのだが、兄の生活の拠点はもうここではないのだと思い知らされるようで少し寂しさを感じた。
「ティイ、これを」
寝台に置いていた荷物の中から麻に包まれた何かを取りだした。
何だろうかと兄から受け取ると、麻の中に入っているのはパピルスの巻物だと気付いた。何かの書物のようだ。
「タニイから預かってきた」
その名でテーベでの素敵な出会いを思い出す。船上で会った宰相の娘である彼女。
兄以外にも、文字を読むことを禁じられている自分に書物を送ってくれる存在がいたとは思いもせず、兄を見つめた。
「お前が書物を好むことを知ってこれをくれたんだ」
粘土板ではなくパピルスであるからして、宰相家が持つ物として相応しいくらいの高価なものであるに違いなかった。おそらく私の読んだことのないものだ。
「この前の一件、叱られていないかひどく心配していた。テーベの町へ行くべきだと勧めたのは自分だからと」
そこまで気に病む性格でもないが、と付け加える兄に、私は慌てて首を横に振った。
「そんな、タニイのせいじゃないわ。頂く資格もないの。兄様からお返ししておいて」
テーベに行く決断をしたのは自分であるから、彼女に一切責任はない。むしろ迷惑をかけてしまったのはこちらなのだ。テーベの街をこの足で歩いて冒険したことに対して後悔はなかった。
「彼女はもう飽きるくらい読んだそうだ。是非お前にと。随分お前を気に入ったらしかった」
兄は私に麻に包み直してもう一度渡してくれた。戸惑いつつも、自分の手の中にあるのは初めて出会う文章だと思うだけで胸が高鳴った。
「タニイは良いやつだったろう」
そう言われて大きく頷く。
「とても素敵な人だった。強くて格好いいのよ」
兄も同じく頷いた。
「私が宮殿に上がった頃からの知り合いだ。あまりにも男勝りなことをいうものだから、私は時々男なんじゃないかと錯覚することもある。良いやつなんだ、とても」
兄はおかしそうに笑った。
「またティイに会いたいと言っていた。何でも、友人になりたいんだそうだ」
私ははたと顔をあげて兄を見た。兄は朗らかに笑んでいる。
「私も前々からタニイとティイは合う気がしていたんだ。2人は良い友人になると思う」
自由に外に出して貰えない私には、今まで友人と呼べる存在は、一緒に過ごして世話をしてくれるラジヤしかいない。
友人。同じような立場にいる女性の。それも文字が読める、数少ない女性の一人だ。
胸がぐっと熱くなるのを感じた。
「次に会う時に直接お礼を言うと良い」
兄の言葉に、清々しく笑う彼女の姿が思い浮かぶ。
「……私もと、お伝えしてください。いつかまたテーベに行きますと」
いつになるかは分からない。それでも何かの用事でテーベを訪れることができたなら、私は真っ先に彼女に会いに行こう。
兄は満足そうに微笑むと私の頭を撫で、そのまま母に出立の挨拶をして父と共にテーベへ向かっていった。
* * * * *
数日後の夜、ラジヤを連れて部屋に向かっていたら、次兄が庭先で空を仰いでいるのを見てつと足を止めた。アネンはすでにテーベへ帰ったのに、一緒に帰らなかったのだろうかと気になり、ラジヤに待つよう言って、次兄の方へ歩を進めた。
「アイ兄様」
呼びかけると、壁に背を預けていた兄はゆっくりと私を見てから、「なんだお前か」と言葉を落として今度は自分の足元に視線を落とした。
「アネン兄様と一緒に帰らなかったのね。一緒に帰るものだと思ってた」
自分の声は、想像していたよりも夜の闇に響いた。
「兄上と帰ると色々と周りに言われるからな。ずらして帰ることにした」
「そんなに言われるもの?」
兄は大きく溜息を吐く。
「兄上は優秀だ。真っ直ぐで誰に対しても愛想が良くて気に入られる。いわば人たらしだ。そんな兄上より出来の悪い俺は兄上と並ぶと色々と言われるんだ。お前には分かるまい」
ふうん、と返して空を仰げば、数え切れないほどの星々が見えた。アイは神官という職業柄、星が読める。そのことを羨ましいとぼんやりと考えた。
「お前は女に生まれて得だな」
唐突に兄はそんなことを言ってきた。今度は私が溜息をつく。
「でもそれを上手く利用できなかったら得も何もないわ。私がやりたいこと何一つ出来ていないのに。やろうと思えば、男がすることだと叱られるのよ。アイ兄様は私が得をしていると本当に思ってる?」
尋ねて、アイは「いいや」と笑って、再び静かに天を仰いだ。
何だかいつもの様子と違って調子が狂う。
「アイ兄様が物思いにふけっているなんて珍しい。どうしたの?」
二人になると、お互いの悪いところを言い合うような展開になるのに。
「俺はどれだけ上に行きたくとも出来の良い兄がいるとそう簡単にはいかない」
兄は目を空に向けたまま呟いた。
「お前は男の方が羨ましいと言うが、俺は女が羨ましいと思うこともある。兄上が言ったように俺は女であった方が上へ行けたのかもしれないな」
相手の言い方はどこか嘲笑気味だった。
アネンと同じ男児として生まれ、同じように王宮に仕えていたら嫌でもイウヤの息子たちとして比較される。長兄であるアネンは、確実に次兄アイより出来が良い。加えて誰にでも好かれる性格だ。それを分かった上で、周りの評価も知っているから、尚更アイは虚しさを感じずにはいられない。
向上心が高く野心家であるアイにとって、どれだけ懸命になっても抜かせない相手がいるということは屈辱的なことだ。
兄たちの後ろを追いかけてきた妹であるからこそ、アネンやアイの気持ちが何となく分かった。
アネンもおそらくアイのことはしっかりと理解していて、それでもここで力を抜けばアイの自尊心を傷つけることも分かっているから、決して手を抜くことない。
私はそんな兄たちを見守ることしか出来ない。私たち三兄弟はそういう関係なのだ。
「……アイ兄様が女だったら、どうやって上へ行っていた?」
自分が女であったなら、とまでぼやく兄に尋ねた。
「そうだな……例えばどこか偉い男をたぶらかしてその男の子供を産めば、子供の母として権力を握ることが出来る。あとはたぶらかし方によればその男を意のままにすることもできるだろう?成功すればやりたい放題だ。あの王子のこともたぶらかせたかもしれないな」
聞いて思わず苦笑してしまった。
王子をたぶらかすとは恐れ多いことを言うものだ。
「私にはとても出来ないことばっかりね。ちょっと嫌なやり方だわ」
「だろうな。お前は正々堂々としているから」
兄はこちらに身体を向け、黒い瞳で私を真っ直ぐと捉えた。
「何より、お前は知識欲の塊だ。いつまでもそれに従順であった方がいい」
兄は微笑んだ。
相手の反応に私は少し驚いた。目の前にいるのが自分の知っているいつもの兄ではないような気がした。
「……褒めてくれてると思っておくことにするわ」
兄はまた口角を上げて見せると、また星々を仰いだ。
「兄上がいる限り、俺は普通のやり方では上には行けない……」
諦めのような響きだ。
声を掛けようとする私の傍を、兄は振り切るように通り過ぎて屋敷へ向かっていく。
「そうだ。ティイ」
アイはつと足を止め、こちらを振り向いた。
「お前、ヘルネイトに会ったそうだな」
ヘルネイト──船上で会った、最高神官の美しい愛娘のことだ。
「ええ。とても美しい方だったわ」
あまり良い思い出はないけれども。
「アイ兄様、彼女と知り合いなの?」
「まあな。上司の娘ってところだ。神殿での儀式の時に父親にくっついて顔を出すし、俺が王宮に仕え始めたときから話す仲ではあった」
「知らなかった。仲が良いのね」
会えば話すがその程度でしかない、とアイは言う。
「あいつは抜きん出るほどの美人だが、それと同じくらいに怖い女だろう。お前のようなやつだといじめられるかもな。いやもうすでに洗礼を受けたか。あの取り巻きも性根が腐っているから」
そう言われて、思わず胸を張って見せた。
「そのようなものに負けるような私では御座いませんことよ」
アイは「さすがは俺の妹だ」とおかしそうに笑った。
「俺もあの祭りの後、あんな妹を隠していたのかとヘルネイトに叱られた。あの様子だとあいつはお前に恐怖を抱いたらしい」
この次兄とヘルネイトが話している光景が想像できず、色んなところで色んな繋がりがあるものだと感心してしまう。
「恐怖だなんて。私は彼女と一言も話していないのに」
あの時は彼女の取り巻きに面倒なことを言われて終わったのだ。結局ヘルネイトとは直接話していない。
「あの女を震え上がらせたんだから、お前は凄いやつなのかもな」
「そんなことはないと思うのだけれど」
買いかぶられても困る。
「私は彼女みたいに王家にあがる気は更々ないの。できっこないわ。それは兄様方が一番ご存じでしょう」
「お前はもっと野心があってもいいと思う」
「精進したいと思います」
私の返答を聞くと、兄は満足げに大きく息を吐いた。清々しい笑顔だった。
「さあ、帰る準備でもしよう。早朝には出る」
兄はぐっと背伸びをして私の頭を軽く叩いた。
「ティイ、元気でな」
こんな棘もない兄の言葉を聞くのは久々な気がする。
「アイ兄様も体には気を付けて。それと、女性関係はほどほどにね」
去り際の兄にそう言うと、兄は振り返らず手をあげて軽く振った。
その姿を飲み込んでいく夜風の涼しさが、何故だか切なさを生んだ。
翌朝、陽が地平線から現れた頃にアイは両親にだけ挨拶してテーベへ向かっていったとラジヤから聞いた。
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