第一章 ムノの娘
6年後
年月が過ぎ、17になった。
勿論、馬に乗るのも、勉学も、知らない何かを知るのも好きだけれど、父の言う世間体というものがさすがに分かってくる年頃になった。
私が外で事を起こせばすぐに噂になり、この地の統治を任されている父の信用に関わってくるのだ。
武芸は庭の中で隠れて嗜む程度。馬も時折庭で乗る。屋敷の外で走り回ることは出来ない。一月に一度だけ許されている外出も、乳母メティトと男の従者を連れて行く。無闇に外へ出て昔のように取っ組み合いをすることもない。昔、遊びに混ぜてくれた少年たちがどうなったかはもう分からなかった。
母と乳母から女としての教養やら何やらを教え込まれ、花やら何やらを愛でることをする。花は嫌いではないが、馬と比べたらやはり馬の方が断然好きだ。衣や髪飾り、胸飾りなどを新調しようと、商人を屋敷に迎え入れて母と共に選ぶ。
服やら何やら飾ることだけで終わってしまう飾り物なら、書物を買ってもらいたいところをぐっと我慢した。
そんな息が詰まりそうな生活で唯一楽しみなのは、母から解放された後、自室に戻ると言い訳をして父の書斎に潜り込み、歴史書を読むことだった。
くりぬかれた窓からの光だけでは暗いため、いつも持ち込んだ火を傍に置いて座り込み、興味がそそられるものを選んで読み耽る。
昔の人々がどういうことをして、この国は成り立ったのか。神々はどう関わってきたのか。神々の生まれは。王家の創生は。
簡単にしか書かれたものしかないものの、自分が知らないことを知ることは嬉しかった。
丁度粘土板ひとつを読み終わり、次は何を読もうと父の書斎の中を歩き回って探していた時だった。大きな音と共に、部屋の扉が叩き開けられた。
「ティイ!」
聞き慣れた声にびくりと肩が震える。
僅かだった光は開かれた扉によって強くなり、こちらを怖いくらいに照らし出した。
「こんなところで何をしている!」
父だった。帰ってくるのは夜ではなかったのか。早まったのか。
「お、お父様……お帰りなさいませ」
慌てて手にあった粘土板を隠してもこの状況では隠す意味などない。私がここに入って読むなと言われていたものを無断で読んでいたことは明らかだった。
「お帰りなさいませではない!」
怒りの形相の父は私の腕を掴み、部屋から連れ出した。扉を閉じるなり、大きな溜息をついた。
「随分お早いお帰りで……」
「早めに帰ってみればお前の姿がどこにもない!探してみればこことはどういうことか!ここはお前のくる場所ではない!何度言ったら分かるのだ、お前がこれ以上賢くなったら……」
「父上」
ここから説教が始まるのだと覚悟を決めていたら、父と共に帰って来たらしいアネンが後ろから父と私の間に滑り込んだ。
「ティイには私から言っておきましょう。父上はお疲れでしょうから、母上のもとへ行かれては如何です」
さあ、と兄は父を促した。
父の側近もそうしましょうと頷きを繰り返し、ひどく反省しているらしい私を一瞥すると、父は「もうするな」と私に念を押して踵を返した。
父が自分の側近を連れて去っていくのを見てから、久々に会う兄の方を振り返った。
「ありがとう、アネン兄さま。兄様が止めてくれなかったらきっと日が暮れるまでここでお説教だったわ」
相手はバツの悪そうな顔をする。
「こういうのは見つからないようにやらなければ駄目だよ」
「ごめんなさい、まさかこんなに早く帰って来るなんて想像してなかったのだもの」
ひとつ呼吸を落とした兄は、気を取り直したような柔らかな表情で私を見た。
「何が知りたかったんだい?私が知っていることなら教えてあげられる」
書斎に入り込むくらいなら教えてやると言う兄に嬉しさが込み上げる。自分の好奇心を理解してくれるこの兄は心強い味方だった。
「くれぐれも内緒だよ」
そう言う兄の表情は優しかった。
* * * * *
「我が妹はまた粗相をしでかしたそうだな」
昨日の昼ごろ帰って来た父とアネンに対して、翌日の早朝に遅れて帰ってきた二番目の兄の言い草に、私は口を尖らせた。この兄は私のすることなすことすべてを粗相だというのだ。
「そう言ってくれるな、アイ。これはティイの良いところでもあるのだから」
アネンはおおらかに笑ったが、アイは不貞腐れたようにそっぽを向いた。
「兄上はティイに甘すぎる。この家の娘であることも忘れ、そこらのガキと話しこんでいたなど、この高貴な一族の血筋を引く者として許されぬことだ」
「アイ兄さま」
言われるままにしておけないと、私の気に入らぬ点を列挙し続ける次兄を呼びかけた。
「言っておきますけれど、あれは粗相じゃないわ。私は馬に乗ってナイルの畔を歩いていただけ。ちゃんとメティトと従者たちをつけていたし、前みたいに泥んこになって遊んだりしてないもの、粗相じゃない」
「同じことだ。まず馬に乗って畔を散歩などそこらの令嬢はやらない」
アイは呆れたように横に首を振りながら言った。
「ただ歩いていただけよ。そこらの令嬢は外を歩くこともしないっていうの?」
「しない。外に出ることも稀だ。外に出たとしても輿を使う。それよりもだ、そこらの小汚いガキと一緒にうずくまって何やらやっていたと聞いたぞ」
「文字を教えていたのよ。学び舎に行けない子供たちもこのムノには沢山いる。読み書きができたらきっと将来役に立つわ。興味があるのにやらないなんて、これ以上勿体ないことはない。子供たちの記憶力は本当に凄いのよ。教えるとすぐに飲み込んで使えるようになるの」
「文字は高貴なるもの。知恵の神トトが生み出した神聖なるものだ。お前はそれを下賤の者らに教える気か。神への冒涜だ」
「身分があろうと、機会は皆平等であるべきだわ。下賤だなんて言わないで」
次兄はわざとらしく息を吐いて私を見つめた。
「お前が世間から変わり者だと噂をされている理由が話していてよく分かった」
「何よ」
自分の眉が吊り上がる。
「父上から聞いたぞ。女のくせして、勉学をしようと父上の書物や俺や兄上の部屋のものまで物色して読んでいると。賢くなろうとして、お前は男になるつもりなのか」
「賢い女の何が悪いの。私は知りたいだけだわ。無知のままだなんて嫌よ」
「女に教育を施すのは、破れた袋に穀物をいれるようなものだ」
アイはどうだと言わんばかりの顔で私に一般的に謳われていることわざを叩きつける。
女性は教育を受けても、そのあとすぐに結婚をして、せっかくの知識や経験を生かすことなく終えてしまうため、教育をさせても無駄だという意味で使われる言葉だ。
「これでは嫁の貰い手がいまい。必要以上に教養のある女は煙たがられるだけだ。誰が自分より賢い女を妻に欲しいと思う?現に、適齢期になったお前を嫁に欲しいと言ってくる男が一人もいないときている。王族ではないが、お前も由緒正しき我が家の一人娘だろう。誰も言い寄ってこないとはどういうことだ」
二番目の兄アイは16になると、努力の甲斐あって、あるいは父や兄の計らいによってか、希望通り神官の見習いとして王宮に仕えることに成功していた。そんな次兄も今では20であるが、時折王宮の外に出て来て実家に顔を出す時は、どこかの令嬢に会いに行っていた後だと決まっている。
「アイ兄様のような女たらしよりはましだと思うわ。私は女たらしの夫なんてまっぴらごめんよ」
「久々に帰ってきた兄にその口の利き方は何だ」
さすがに頭に来て、両手をすばやくアイの頬に伸ばして思いっきりつねったまま引っ張ってやった。
「は、はなへ!!!」
「神官っていうのは、もう少し尊いものだと思っていたのに全然違うんだってことをアイ兄様のおかげで知ることが出来たわ。どうもありがとう」
顔立ちも良く、出身も申し分なく、媚びへつらい方も上手い次兄は、常に女性との噂が絶えない。
こんな厭味ったらしい男のどこがいいのか。顔立ちが整っているから周りは騙されているのだ。
女性たちをたぶらかす次兄の顔が自分の手で歪む。とてもおかしな顔になって、思わず笑いだしそうになった時、次兄の手もこちらに伸びて、私の頬を同じようにつねってきた。互いに頬を引っ張り合う格好で睨みあう。
「なにふんのよ!!!」
女である妹の顔に手を出すとは何事か。負けるものかと指に力を入れる。互いに横に伸びきった顔を向けて罵声が飛び交った。
「ほらほら、喧嘩はよさないか。二人ともバカみたいな顔になっているよ」
私とアイを引き離しながらアネンはおおらかに笑った。
「せっかく久々に三兄弟がそろったんだ。わざわざ喧嘩していることもあるまいよ」
仕方なく手を放したお互いの頬は真っ赤だ。ひりひりする両頬を両手でさする。
「アイ、仮にもティイは女性だ。手を出すものじゃない」
「こいつのどこが女に見える!?あれは男だ!女の皮を被った凶暴な男だろ!兄上もつねられてみたらいい!とんだ馬鹿力だ!」
私を指さして訴えるアイを「まあまあ」とアネンは宥めた。
このアネンもまた年を重ね、我が国創世神話の中心地であるイウヌでの聖職に従事したのち、父の思惑通り強力な政治家および宗教家、そして書記官となっていた。
テーベの大貴族の娘を妻として身を固め、今はテーベからほとんど帰ってくることはない。こうして帰ってきたのは父が今回大きな式典に参加するため、この家の嫡男として父に同行するためであった。
「しかしアイ、お前はもう少し慎みを覚えなければ。女は怖い。そこら中に女を作っていてはいずれは報復を食らうことになるかもしれない」
アネンが弟を苦笑しながら窘める。
「俺はそこまで軟ではない」
つんとそっぽを向く次兄の仕草はまるで猫のようだ。
「いつか馬鹿を見るわよ」
「うるさい、狂暴女」
この次兄の女癖に関して父は何も言わなかった。それが家を守ることに繋がることを認識した上でのことだったのだろう。兄が広げた、女を通しての家の繋がりは、それなりに家を保つ結果となった。
父は自分の後継として二人の息子たちという二つの支柱を着々と築き上げていったのだ。
「だが、アイにも一理ある。ティイは今まで以上に自分の言動に注意した方がいい」
「あら、アネン兄様も同じことを言うのね。見損なったわ」
違うよ、と長兄は首を振る。
「そろそろ嫁に行くことになるだろうから、それを踏まえてのことだ」
思いがけない返答に、きょとんとした。
「嫁……?」
「おそらく、父上はもう目星をつけている」
嫁に行く──自分に夫ができる。
同じ年頃の娘たちが嫁ぎ始めているのは知っていた。自分もそろそろなのだろうかと考えたことはあるものの、父や母からそういうことは一切聞かされていないから、まだ当分先なのだと思い込んでいた。
今まで男勝りなことをやってきた。男のようだと言われ、男がするものと言われることを禁止されながらも好んでやってきた。
だが、誰かに嫁いで妻や母になることに対する憧れがないわけではなかった。昔はそんな憧れなどなかったのに、最近になってそればかりを考える時がある。
自分も他の娘と違わず、素敵な人と一緒になり、母のように子供を産むのかもしれない。夫となる人はどのような人だろう。私はどんな家庭を気付くことが出来るだろう。母のように、良妻賢母と評判の存在になれるだろうか。
「嫁になんて行かない、とはもう言わないのだね」
唐突に兄に言われて顔を上げた。
「前はお嫁になんていかないって言い張っていたじゃないか」
「……そうね、そうだったわね」
懐かしい思い出だと笑う。
「多分、もう言えないのよ」
変な期待と同時にそういう使命感じみたものがあった。
「もし今回の兄さまの話が本当だったなら、私にも兄さまたちのように、この家のために動く時が来たってことなんだわ」
自分が言い切った後、兄たちの方へ視線を上げると、アネンは少し寂しそうに笑い、アイは真剣な面持ちで頷いた。
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