身分



「……兄上、帰っていたのか」


 きょとんとした顔をして、二番目の兄が帰ってきたのは食事中のことだった。


「あら、アイ兄様、お帰りなさい」

「お帰り」


 私になど見向きもせず、父と兄を見たアイは少し嬉しそうに顔を綻ばせる。


「父上、母上、ただ今帰りました。父上もご無事のご帰還、嬉しく思います」


 両親に帰ってきた旨と無事王都より帰還した父への挨拶を終えると、次兄はさっと兄の隣に座った。座ると同時に侍女が次兄のための食事を素早く用意する。


「兄上、いつ帰ってきたんだ、何故教えてくれなかった」


 そのがっつき様に向かい側に座る両親は面白そうに笑った。


「今日父上について帰ってきたんだ。ティイがまた何かやらかしたんじゃないかと思って」


 アネンの冗談気味の言葉に、アイは鼻で笑うようにして私を見た。


「ティイは仕方がない。いつだって何かしらやらかしてるんだから」

「アイ、滅多なことを言うのではありません。アイからも兄として何かティイに言ってあげなさい」


 母に注意されて兄は少し口を尖らせたが、口を尖らせたいのは私の方だ。


「久々に家族全員がそろったのだ、仲良く食べないか」


 我が子三人の揃った光景を眺めつつ、父は楽しげに食事を促した。






「兄上が羨ましい。王宮に行けるのだから」


 食事を終え、アネンの部屋に三人で集まった際に、アイが呟くように言った。

 寝台に腰かけている私と長兄に対し、アイは椅子に一人腰掛けてこちらに背中を向けて、我が家の飼い猫を抱き上げて撫でている。

 猫も次兄が好きなのか、次兄には必ずと言っていいほどすり寄って来る。というのも、この猫を拾ってきた張本人がアイだからかもしれない。


「アイは王宮に行きたいのかい?」


 アネンの一言で、アイはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりにくるりと体の向きを変えた。


「勿論だ。父上や兄上のように、王都テーベで、その中の更に王宮で名を馳せたい」


 前々からそういう話をしていた次兄だが、こんなに思いつめるように言うのは記憶の限り初めてだ。食事中に兄や父から王宮での話を聞いてよりその思いを大きくしたらしい。


「お前が野心家なのは変わらないな」


 アネンは微笑んでアイの頭を撫でたが、むっとした顔をしたアイが兄の手を思い切り振り払った。


「やめろよ、俺はもう子供じゃない。兄上の小さな弟じゃないんだ」


 椅子から立ち上がり、アイは私たちを見下ろした。


「俺は、このムノの地で一生を終える気は更々ない。今日兄上の話を聞いて確信した」


 兄を睨み付けるような眼に、私は一瞬ひるんだ。次兄の野心は本物なのだと思わざるを得ない。


「最終的には父上を越える権力を持ちたい」


 次兄はもとから、とにかく上へ上へと向かっていく人間だった。その向上心は三人兄弟の中で誰にも劣らない。それでいてたいそうな負けず嫌いと来ている。そのための努力も欠かさない。勉学ではいつも誰よりも一番に立っており、ムノの町では秀才の名をほしいままにしていた。

 ただ、長兄アネンもムノにいた頃は生まれながらの天才と呼ばれて、12歳でそのまま王宮へ仕えることが決まったため、14で未だ王宮へあがる話が出ていないアイは少々長男にひき目を感じているようではあった。


「お前がどうしても王宮で仕えたいというのなら、父上や王宮の方々に口添えをすることもできるけれど、お前に父上は期待してここに残しているのだと思っているよ」

「俺に?」

「お前は頭がいいし、周りへの取り入り方も上手い。そしてこれでもかと進む野心がある。これは私には出来ないことだし、テーベから離れたこのムノの地とこの家を守っていくには必要なものだ」


 それを聞いた次兄は少し照れくさそうにして俯いた。


「でも……俺はもっと上へ行きたい。兄上よりも誰よりも」


 アイの、猫に向けたような小さな呟きを聞いたのは、私だけだったのかもしれない。


 この後、アイと私で、長兄の都での話を聞いた。

 神の都、王都テーベ。宗教の中心地。

 ナイルの畔にはパピルスの緑で溢れ、反乱時の黒いナイルの上にはハスの花が咲き乱れる。多くの神殿や想像もしたことがない大きな宮殿がそびえたち、町は活気に満ちている。周辺諸国からの商人がやってきては珍しいものを売っており、パンを焼く香ばしいにおいが立ち込めている。若者たちが取っ組み合いをしていたり、ナイルで泳いでいたり、町はまるで一年中祭りをしているように賑やかだ。

 ファラオや王子たちがいらっしゃる王宮は想像を超えるほどの繊細さを持ったレリーフで囲まれ、鮮やかな色で囲まれており、神殿の神々の像は目にするだけで跪きそうになるくらいの威厳がある。その中でふと神殿の中に入ってくる夕暮れのラーの光はとても美しいのだと。

 テーベへは小さい頃に家族で行った以来であったためにあまりはっきり覚えていない分、兄から聞く王都の話はとても面白く、興味が湧いてとどまるところを知らない。次から次へと質問は絶えず、あれもこれもと質問が頭をよぎっては口から出て言葉になり兄を困らせる。

 冷静を装ってツンとしているアイでさえ、王宮の話や、王や王子たちの話になると鼻息を荒くした。

 話はしても尽きず、結局は一つの寝所に、長兄を真ん中に三人で横になった。10を越えたら兄たちと一緒に寝てはいけないと母から言われていたものの、この日だけはと許してもらえたのが嬉しかった。

 アネンは私の休むことなく続けられる質問に、一つも嫌な顔をせずに答えてくれる。

 そうしているうちに、アイだけが途中から何も話さなくなり、不思議に思ってアネンと一緒にアイの顔を覗けば口を開けて爆睡していた。それを見るなり二人で笑った。

 昼間に見る偉そうな顔とは打って変わって、何とも言えない阿呆面だ。飼い猫がのそのそとやってきてアイの腹の上に乗って寝始めてから、アイが少し苦しそうにうーんうーんとうなり始めたのにも声を殺して笑った。


「……ねえ、アネン兄様」


 話にひと段落ついてから、しばらくの沈黙があったあと、ふと思い立って隣の兄に呼び掛けた。


「ん?」


 兄は眠そうに答えた。目は閉じたままだ。


「外で泥だらけになって元気に遊ぶみんなは私と違うのかしら」

「何故?」


 瞼をゆっくりと押し上げ、現れた黒い瞳は私を捉えた。


「お父様がそう言うのよ。私がその子たちと遊んではいけない理由を聞くとね、あの子たちとお前とでは身分が違うのだって」


 相手は身体をこちらに向けて、私と向かい合った。

 眠気など感じさせない眼差しでこちらの話を聞いてくれる。真剣に耳を傾けてくれているのだと分かって、説明する口調に力がこもった。


「身分とは何かしら。どうして身分が違うと遊んではいけないのかしら。私とあの子たちでは一体何が違うのかしら。偉いのはお父様だけで、私はちっとも偉くないのに。感じることも思うことも、嬉しいことも悲しいこともきっと同じなのに。どうして一緒にいることを、お父様は良く思わないのかしら」


 そこまで聞いて、兄はしばらく押し黙って考える素振りをした。そしてこちらへ少し顔を寄せ、覗き込むように私を見つめた。


「ティイ、お前は賢い子だよ」


 唐突に言われてきょとんとする。兄はひとつひとつ言葉を考え出しながら話し出した。


「父上が言いたいのは……そうだな、お前とその子たちが同じだというのなら、ファラオとお前は同じなのかってことじゃないだろうか」


 私はとんでもない、と首を横に振った。


「ファラオは神のような御方だわ。私とは天と地以上の差があるの」


 まずテーベの都におられるというファラオに私はお目に掛かったことがない。

 何度かそのファラオとともに戦ったという父からその武勇伝を聞かされ、どれほど神のごとき尊き御方かを教えられてきた。その御方が、自分と同じであるとは到底思えない。


「私は神の血脈ではないもの。ファラオと私が同じであったら大変なことよ」


 王家は神の名のもとにいる一族。その頂に立つ王、つまりファラオは神にも等しき御方。きっと私には想像するのも烏滸がましいくらいに神々しく、勇ましく、雄々しい人なのだろう。


「世の中には身分は必要だ。財産とか誰が偉いかとかではない。誰かが大衆の先頭に立ち、大勢を導く者、それを補佐する者は必要なんだ。ただ……まあ、父上が気にしているのは世間体だなあ」

「せけんてい?」

「お前にはまだぴんと来ないだろうが、この由緒正しき名家の娘が、そこらの子供たちと泥だらけになって遊んでいるとなれば、父上の名誉にも関わる。それにティイの嫁入りも危うくなる。それは父上としても分が悪いことなんだ」

「あら、私、お嫁になんて行かないわ」


 兄はそこで笑って、私の髪を撫でた。その撫で方は母に似ている。


「お前が元気なことは私も嬉しいけれど、お前は外で自由にどうこうできる娘ではない。王家と同じほどの歴史あるムノの家に生まれた子なのだから、それ相応の生き方がある。人は皆同じではいられない。それが苦しかろうが、いいものだろうが、私たちはその与えられた道を歩いていくしかない」


 私たちは自らが仕える王家とほぼ同じ長い歴史を持つ、由緒ある一族。その創立は王家の歴史に匹敵する。これが父や母の、何より一族の誇りだった。


「それは、アネン兄様もアイ兄様もそうなの?」

「そうだね。お前とは違って、勉学をすることを禁じられたりはしないけれど。むしろ勉学と武芸は嫌なくらいさせられる。特に私は武芸が得意ではないからね。あまりやりたくはなかったのが正直なところだ」

「そうなの?あんなに上手なのに」

「父上に死ぬほど鍛えられたから人並みには出来るさ。ファラオとともに戦場を駆け抜けた男の息子だから、武がおろそかでは指をさされて笑われてしまう。今は宗教の中心である王宮で神について学んではいるけれど、いずれはきっと軍事にも関わることになるだろうなあ」

「それは嫌なこと?」


 聞くと、兄は困ったように笑う。


「それは言えない。私は言える立場にいないからだ。でも選べるのなら書記官あたりがいいな」


 ますます分からなくなって眉間に皺を寄せた私に、兄は諭すように囁きかける。


「王宮に入りたくなくとも、入らなくてはいけない。父上が言うのはすべてこの地位を守るためのものだ。つまり、逆らうことはこの家を捨てることを意味してしまう。だから、私はこの家を守るために父上の言うとおり王宮へ入ったんだ」


 私にはそれがうらやましく思える。王都や王宮の話は何もかもがきらきらしていて眩しいくらいに聞こえた。


「ティイ、お前は純真な子だ。いつまでもそのままでいてほしいと思うけれど、それもきっと難しいことだろうね」


 父の言葉にも兄の言葉にも私は素直に頷けないまま、眠るように促される。

 兄の黒々とした瞳が私の目元を覗く。そうしてアネンは柔らかく微笑んだ。


「相変わらず、ティイの目は綺麗な色をしている。この目を見るとほっとする」


 母のように私の眉を指で抑えるようになぞって遊ぶ兄に向かって頬を膨らませた。


「私、この目が嫌いよ。お父様とお母様とも、兄様たちとも違うのだもの。周りにだってこの目と同じ色の人はいないわ。私は皆と同じが良かった」

「お前は自分の目の色が皆と違うことを気にしているのだね」


 困ったようにアネンは笑った。


「その目は母上の家にミタンニの者がいたことから来ている。母上の実家は他国との交易をファラオから任じられ、この国の文化を更に盛んにさせた誇り高い一族だ。異国と接している内にそこから妻を娶ることもあったという。この国だけに捕らわれることなく、広い世界を見た一族、お前の目はその証だ」


 ふうん、と唸るように相槌を打つ。


「ミタンニの血が入っていることは決して恥ずかしいことではない。なんといっても我らが王子アメンホテプ・へカワセト殿下の母君もミタンニの御方であらせられるのだから」

「……王子殿下も?」


 そうだとアネンは大きく頷いた。

 王家と同じであるならば、それは良いことのように思える。


「少しでも変ではない。綺麗な目の色だ。私はこれを羨ましくも思う」


 実の兄だから、そう言ってくれるのだろう。いくら綺麗な色であっても、大好きな皆と同じでありたいというのは変わらない。


「さあ、もうお眠り。大丈夫だよ。明日も私はいるから」


 兄が言うように今日のことのすべてを分かる日が来るだろうか。

 家のために兄たちが動いているというのなら、私はどの家へ嫁ぎ、一体何をするのだろう。私は、家を守るために、何をするのだろう。

 私の役目とは、何であるのだろう。

 それがわかるのは随分先であるのかもしれない。そう結論づいたときにはもうすでに長兄は寝息を立て始めていた。


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