ムノの一族


「ティイ!まあ、ティイ!」


 屋敷へ戻るなり、血相を変えた母チュウヤがこちらへ走ってくるのが見えた。

 逃げたい気持ちにかられていても、メティトにがっちりと肩を掴まれてしまって動くことが出来ない。今にも泣き出しそうな母の顔に、これから浴びせられる叱責の声を想像して思わず大きく肩を落とした。


「また男のなりをして!こんなに泥だらけになってまで、一体どこで何をしていたの!」


 目の前まで来た母は、私の目線の高さに屈んで私の頬を両手で包んだ。泥で固まってしまった髪をほぐすように何度も撫で、黒く汚れているだろう頬を暖かく綺麗な手で撫でられる。


「奥様、申し訳ございません。お嬢様は外へ行って少年共と取っ組み合いをなさっていたように御座います」


 それを聞いた母が悲鳴のような声をあげた。

 包み隠さず母に報告してしまうメティトを横目で睨んだ。睨まれた相手はつんとしてそっぽを向く。

 あの光景を見てなかったとしても、私を生まれたころから知っている乳母には私の外でしていたことなどすべてお見通しなのだろう。


「何を考えているのです、ティイ。伴も無しに外へ行くなど、もし危ないことに巻き込まれでもしたらどうするつもりだったの。あなたは女の子なのですよ」

「外が好きなの。ずっと屋敷の中で花をめでているなんてごめんだわ」

「ティイ……だからといって男の子のなりなど……」

「女の格好をしていたら誰も相手にしてくれないもの。危ないことなんてないわ。喧嘩を吹っ掛けられても蹴散らせるから」


 女の格好で混ぜてといっても混ぜてくれる男の子らはいない。彼らだって私が女だと知ったら、ましてやこの家の娘だと知れば、きっと相手にしてくれないだろう。

ありのままの私では外では遊べないのだと知ったのはここ数年のことだ。私がどこの娘かを知れば、皆と同じように接して貰もらえなくなる。


「だってお母さま、外は凄いのよ。屋敷の中にいてばかりでは知らないことがいっぱいあるの。ムノに来た商人たちを見ているのは楽しいわ。そこでは男も女も一緒に物を売ったり買ったりしているの。都からのものなんてそれはもう驚くくらいに輝いていて……それに、周りの男の子たちは私を本当の男の子だと思っているから平気よ。なーんの心配もないわ」


 実は女なのではと疑われたことがあるのはあくまで内緒だ。


「ムノの名家の娘であるという自覚をお持ちなさい。あなたは軍事司令官イウヤの大事な一人娘なのですよ」


 念を押すように母は強調して言った。

 イウヤとは父の名だ。地位を持ったこの家の当主としてエジプト中部に位置するムノの地を治め、ファラオが治めるテーベと、このムノの地を行き来している。

 都に行ってしまえば少なくとも1ヶ月は戻ってこない。以前の戦いにも赴いていた頃であれば半年は帰ってこないことが当たり前だったという。


「まだ11だから、今回のような話が通るのです」


 そう説く母に、首を横に振った。


「いくつになっても変わらないわ」


 変わってほしくないのだ。


「あと数年もして年頃になったら色々なところで男女の差が出ます。本当に今だけなのよ」


 ならばそんな年頃など来てほしくはない。


「そうですよ、お嬢様はまだ貧相な体つきでいらっしゃるから、男だと言っても疑われないだけなのです」


 メティトの言い分に、母は困ったように笑う。そんな二人に私は貧相と言わしめた胸をぐんと張って見せた。


「貧相な体つきで結構よ。いつかこのまま本当に男になるかもしれない。願ったりかなったりだわ」

「ティイ!」


 瞬く間に母の顔は怖いものに変化する。


「滅多なことを言うものではありません。末娘を心底可愛がっているお父様が聞いたらどんなに嘆かれることか」


 私を窘めた母は、周りの侍女たちに私を連れていくよう目配せする。


「さ、今日はお父様からしっかりお叱りを受けてもらいます。その前にその泥に汚れた身体を洗ってらっしゃい」


 ぎょっとして母を見つめると、母は困ったように笑った。


「その顔では忘れていたのでしょう。今日お父様がテーベからお帰りになられます」


 父の顔を想像するだけで、気が遠くなる思いだった。



 父イウヤは軍事指導者として王家に仕えており、軍を率いる責任者としてはファラオに次ぐ地位にいる。弓と剣の名手であり、今のファラオであらせられるトトメス4世殿下とともにこのエジプト領土拡大を担った人物として尊敬の念を集めている、と話には聞いていた。

 そんな勇猛果敢な話はあるものの、父の仕事をしている光景など見たことがない私にとっては、父は父でしかない。

 母が好きで、帰ってくる時は土産を忘れない。子供たちのことを大事に想っていて、こちらにも一人一人の好みを考えて土産を選んできてくれる。ムノの屋敷にいるときは、時間の許す限り私たち三兄弟の相手をしてくれる優しい父だ。

 だが、兄二人が外を行き来するようになってからは、末娘の私にやたらと構うようになっていた。母やメティトによれば、上の二人が手を離れつつあるから寂しい故なのだという。

 私が何かを欲しいといえば、惜しみなく買い与えてくれる。ただし、書物や勉学に関することや、剣や弓や馬など私の大好きなものを除いては。

 もし、これらを望めば父はとても怖い顔をする。

 そんな父が帰ってくるなり、私は父の前にひっぱり出された。


「お前はどうしてこうも外に出たがるのだ」


 目の前にいる、眉間に皺を寄せた父におそるおそる目を向けた。

 兄二人とは比べ物にならないほどの太い腕に、日に焼けた肌はいかにも勇ましい軍人を彷彿させるものがある。どうやら私たち三兄弟は母に似たらしいと父を見るほどについつい考えてしまう。


「ティイ!聞いているのか!」


 久々に会う父は母とメティトから一通りの報告を受けると、これでもかというくらいに大きな溜息をついた。これがお叱り開始の合図となって、今に至る。


「はい、聞いております」


 一体私はどれくらいここで父と向かい合っているのだろう。もうすぐ夕飯の時間なのではないだろうか。


「私の一人娘が、男装をしてそこらを歩く変人と噂をされているのだぞ。そもそも馬に乗ってここを出たなどと……娘がすることではない」


 そんなこと知ったことではない。

 馬に乗ることを教えてくれたのは何を隠そうこの父だ。「ティイは筋がいい、私に似たのだ」と喜々として次から次へと教え込み、結局私は兄二人よりも馬の扱いが上手くなってしまった。だが、あれほど褒めていたくせに教えた本人が今ではこの様だ。


「それにまた、私の留守中に私の部屋に入って書物を勝手に読んだそうだな。いつの間にそんなに読み書きが出来るようになった。誰も教えていないはずだ」


 これも知られているのだと苦虫を噛み潰したような顔になる。

 兄の部屋でパピルスを見つけた時、そこに書かれた文字に衝撃を受けた。王家の歴史や国の歴史、王宮で記されるものの多くはこの美しい絵のような知恵の神トト神が生み出したとされる文字だ。この国の成り立ち、神々の物語。私の興味がそそられるもののすべてはあの文字で記されている。

 父の部屋に忍び込めば、父が兄たちに教えるために使ったものも残っている。それを見れば独学も不可能ではない。最近は隠れて見ていたつもりなのに、これも母に知られていたらしい。きっとメティトが母に言いつけたに決まっている。


「お前は文字など読めなくても良い。男として生を受けたアネンやアイとは違うのだ。王宮に仕えることがないお前には、この神聖なる文字を読む必要性はない」


 いつもそうだ。兄二人が学ぶことを許されていることを、何故私には許されない。


「私の部屋へ入ることはこれ以降禁じる。以後、こういうことはしないように」


 ぶつくさ一人で考えているうちに長ったらしい話がようやく終盤に差し掛かったことに気付いた。


「今後気を付けます」


 背筋をぴんと伸ばして答える。これ以上口答えをしても、父は私の求める答えを与えてくれない。


「外に出るときは必ず護衛もつけるのだ」

「はい、そうします。お父様」


 外に出られたとしても世話係がついてしまっては、おしとやかにぐるりと狭い範囲を回ることしか許してもらえない。


「次同じことを繰り返せば、お前をもう外には出さぬぞ」


 棒読みで「ごめんなさい」と繰り返し、テーベから帰ってきて早々長時間の説教により疲労困憊の父は呆れた風にしながら椅子から立ち上がり、同様に立ち上がった私の頭を撫でた。

 私があまり反省していないのはきっと分かっているのだろう。だから私を見るたびに毎回悩ましげな顔をする。


「お前と外の者たちとでは身分が違うのだ。そうやすやすと外に行って遊んだり、言葉を交わすものではない」


 最後のまとめらしい父の一言に首を傾げた。


「お前は由緒正しき名家の娘なのだから」


 それだけ言うと、父は母を呼んで私を解放した。いつもよりお叱りは短く済んだようだと父の背中を見て考える。


「さあ、お嬢様」


 すかさずに侍女がやってきて部屋へ促そうと私の背を押した。


「そろそろお食事のお時間です。お食事の前にお部屋へご支度に戻りましょう。メティト殿がお待ちです」


 父が帰ってきたのは夕暮れだったはずなのに、屋敷の中から見える外の景色はすでに夜の闇に覆われていた。天には月が輝き、夜の涼やかな風が吹き込んでくる。寒いくらいだと身を少し小さくした。


「……ねえ、」


 ぬぐいきれぬ疑問をどうにかしてしまいたくて、侍女に声を掛けた。


「何でしょう、お嬢様」


 侍女は柔らかな笑みを浮かべてこちらに顔を向けてくれる。


「私と外の子たちは違うの?」

「外の子?」

「ほら、さっきお父様が言っていたことよ」


 意味を理解するなり、侍女はおかしそうに笑った。


「何をおっしゃいます、当然ですわ。お嬢様はこのムノの土地で最も大きなお屋敷のご令嬢。そこらの者とは比べ物にならないご身分をお持ちです」


 そう言われるとますます分からない。偉いのは父であって、私ではないのに。


「さ、お早く」


 促されながら部屋の前まで来て、誰かの話し声が聞こえてくるのに気付いた。


「ティイがまた、男装して外で男の子と取っ組み合いをしたって?」


 聞き覚えのある声だ。

 声の主が誰であるかは一瞬で分かり、嬉しさがこみ上げるのを感じながら後ろにいる侍女を振り返った。彼女は私の気持ちを汲み取ったかのようににっこりと笑った。父がお叱りをいつもより早めに切り上げてくれたのも、侍女が私を部屋へ急かしたのも、この理由があったからだ。

 逸る気持ちをおさながらそっと自分の部屋の扉を開けて、中の様子を覗いてみる。せっせと仕事を熟すメティトの少し離れたところに見覚えのある人影があった。


「そうなんですのよ。それも男の子を負かしたというのだから、頭を抱えてしまいます。アネン様からもお嬢様に何か言って差し上げてください」


 苦笑を交えながらメティトは相手と話している。


「私には無理だなあ。きっと私が注意する前にティイは素早く逃げてしまう。そうなってしまえば、走るのが苦手な私はティイに追いつけない」


 確かに、と乳母は相槌を打つ。


「私たち三兄弟の中で、ティイは一番走るのが早い。そこらの男の子にだって負けないよ。馬だって弓だって、あの子の年のころの私とアイはあれほどには出来なかった。女であるのが心底惜しいくらいだ」

「アネン様、褒めることでは御座いませんよ」


 爽やかに人影は笑う。


「外に出たティイを見つけるのは一苦労だろうに、よく見つけたね。メティト、お前もすごいものだよ」

「お嬢様がこの世にお生まれ遊ばした時からお仕えしておりますからね。お嬢様の行くところはいくつか見当が付きます」

「ティイの乳母が務まるのはお前だけなんじゃないかな」


 小さな笑い声が聞こえた後、我慢できずに扉を勢いよく開けた。


「アネン兄様!」

「おや、末っ子のお出ましだ」


 神官の服装に身を包んだ兄は駆けてくる私を、両手を広げて迎えてくれた。

 ムノのイウヤの長男として生を受けた10歳上の兄アネンは、神官として王家に仕えているため、実家であるこの屋敷に帰ってくることは稀だ。

 今では父の跡を継ぐために軍事関連にも関わり始めているというのだから、まだ詳しいことが分からない私でもこの兄は凄いのだとわかった。文武両道の自慢の兄だ。


「お嬢様ったら!またそんなはしたなく駆けて!」

「兄様が帰ってきた時だけは許してちょうだい」


 私の行動に頭を抱える乳母ににこやかに許しを請いながら兄に顔を向けた。


「ティイ、父上からのお叱りは終わったのかい?」


 私の頭を軽く撫でながら聞いてくる。


「終わったわ」

「また大きくなったね。少しは女性らしくなったのかな」

「メティトたちから聞いているでしょう?このまま男になるんじゃないかって勢いで暴れる毎日よ」


 兄は肩を揺らして笑った。


「それよりアネン兄様、いつ帰ってきたの?いつまでいられる?」

「父上と一緒に帰ってきたんだ。今回は5日はいられるかな」


 今までを思えば5日の滞在は長い方だ。兄とやりたいことが一気に頭を駆け回り始めた。

 父や母が渋って教えてくれないことも、この兄ならば「仕方がない」と言って教えてくれる。この前帰ってきてくれた時はこっそり文字を教えてくれたのだ。


「アイはいないのかい?」


 アイとは私の二番目の兄であり、イウヤの次男だ。アネンの7歳下の弟に当たる。


「アイ兄様もそろそろお帰りになるはずよ。でもきっとまた残って来るだろうから、もう少し遅くなるかもしれないわ」


 次兄アイは父から命ぜられ、見分を広げるために外の王立の学び舎へ通っている。名家の息子を学びのためにわざわざ外へ出なくても良いのではないか、という声もあるが、外へ出ていくことで学ぶこともあるだろうというのが父の考えだった。


「そうか。アイに会うのも久々だ。楽しみだな」


 娘の私には許されないことが、この兄二人には許される。何とも羨ましいことではあった。


「さあ、お二方、お食事のお時間ですよ。旦那様と奥様がお待ちです」


 メティトに声をかけられ、私と兄は並んで食事が行われる間へ向かっていった。



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