頼み


 部屋に戻るなり寝台に飛び込んで、兄の部屋から借りた書物をひらりと開いて流し読みをした。

 中に記されているのは教訓じみたものだ。もともと兄たちの教育のために使っていたものであるから、教訓を記した基本的な書物が多い。詳しく書かれた歴史書などあれば面白いのに、重要なものは父も兄もこの屋敷には持ち込まない。読めるだけ贅沢なのだと自分を納得させながら目を通す中で、不意に先ほどの兄たちとの会話を思い出した。

 自分がこの家を出て、誰かのもとへ嫁ぐこと。父がもう目星をつけていると言う。ここ最近では一番驚いたことだった。


「どうされました、お嬢様」


 にこにこと傍に寄ってきたのは私の第一の侍女としてついているラジヤだ。彼女はメティトの娘で、私の乳兄弟、そして同い年の気の合う少女だった。私が13になった頃から傍で仕えてくれていて、今ではメティトに次いで私の身の回りの世話やら話し相手になってくれる重要な存在となっていた。


「大きな溜息なんてついてお嬢様らしくもない」


 気づかないうちに溜息をついていたらしい。


「アイ様にこっぴどく言われたんです?」


 寝転がりながら、うーんと伸びをする。


「いつものことよ。アイ兄様に叱られたわ。昔みたいにどろんこになっての取っ組み合いはしてないのに、どうしてあれだけ怒るのかしらね」

「アイ様は気性が激しいところがありますからねえ。それにいろいろなところでお鼻が高くなるお方ですもの」


 ふふふ、と彼女は肩を揺らす。


「まあいいんじゃありません?アイ様がいきなり優しくなったらそれこそ大事件ですよ」

「確かに、あのアイ兄様が急にアネン兄様みたいになったらそれこそ国の終わりを勘ぐっちゃう。平和ってことね」


 けらけらと互いに笑いあう。侍女とは思えないほど遠慮なく言ってくれるラジヤだからこそ、こんな話が出来るのだ。

 持っていた書をお腹の上において、仰向けに寝転がり、部屋の天井をじっと見つめた。

 そうして頭を過るのはまたもや結婚の件だ。実感はないが、これだけ頭の中に浮かんでくるのだから、私の中ではとてつもない話題になり上がってしまったようだ。

 ふうっと息をついたつもりが、ふん、と鼻息が出た。


「あら、大きな鼻息」


 くつくつとラジヤは囃し立てる。もう一度同じように鼻息をしたら、さらに彼女は腹を抱えて笑い、私の真似をしてふんと鼻から息を吐きだした。

 結婚なんてしたら、こんな馬鹿で楽しいこともできなくなるのだと思うと少し悲しくなる。

 今度は腹這いになり、両手で頬を支えながらラジヤを見やった。


「ねえラジヤ、お父様が私の嫁ぎ先の目星をつけてるんですって。知ってた?」

「あら、そんなお話が!聞き間違いではございませんの?」


 作業の手をとめ、彼女は飛び上がるようにして私に聞き返した。


「アネン兄様に面と向かって言われたの。おそらくもうすぐ私はお嫁に行くんですって。お父様ったら、私に何も教えてくれてないのよ。ひどい話だわ」

「まあ、でもそういうものなのではありません?」


 ラジヤは当たり前だと言わんばかりの様子で答えた。

 私は持たなくてよいところに疑問を持つ人間だから変なことを言うのだと父に一度指摘されたことがある。これもそうなのだろうか。普通の娘はこんなところに愚痴をこぼさず黙って受け入れるのだろうか。

 ムノにはテーベほどの大貴族がいるわけではない。年頃の貴族の娘たちと会う機会もほとんどなかったから、そのあたりがよく分かっていなかった。

 それでもきっと、自分に結婚の話が出ていると言われたら、誰だって相手のことを考えずにはいられないだろう。


「……私の旦那様になる方は一体どんな方かしらねえ」

「お嬢様も随分と乙女なことをおっしゃるのですねえ」


 あら、と私は頭をあげた。


「失礼ね。そんなに珍しいこと?」

「だってお嬢様はいつだってここからどうやって抜け出して外へ行くかとか、馬をどうやって借りるかとかばかりを考えていたじゃないですか。昔と比べれば確かに女性らしくはなりましたけれど、根っこは変わってないですもの」

「勿論、隠れて色々とするのは今でも好きよ。根っこも変わってない。変わったら私じゃないもの」


 胸を張ってそう言ったあと、ふと力を抜いて遠くを見た。


「でもね、お父様とお母様を見ていて、私も同じようになれるかしらと思うの」


 昔と変わらぬ自分がいる。それでもその中に、憧れも少なからずあるのだ。

 自分が誰かに恋をして、誰かと添い遂げる。そして自分の母のように夫を支え、子供たちを産み育てる、そんな自分の未来への憧れが。

 ただ、どれだけ想像したところで自分の夫になる人の顔が浮かんでくるわけではないのだけれども。


「互いに尊重し合えたら素敵よね」

「そうですねえ。お嫁に行かれるときは私がお供することになるのでしょうねえ」


 乳母のメティトは母にも仕えている。そもそも私が年ごろになったからということで、メティトの娘であり、年も私と近いラジヤが傍につけられた。これは彼女が私の傍でおそらく一生仕えることを意味している。


「あなたには面倒をかけるけれどよろしくね。ちゃんといい人を探すわ。それが仕えてもらう者の務めだもの」


 もし私がどこかへ嫁ぐとしたら彼女は私の第一の侍女としてついてくることになり、私はその代わりに彼女の生活の保障をしなければならない。


「あら、嬉しいことを仰いますね。お嬢様は私にはどんな方がいいと思います?」


 彼女はこちらに身を乗り出す。


「そうね……ラジヤには優しい人がいいわ」

「優しいだけじゃ物足りなくないです?」


 口をすぼめてラジヤは不満を漏らす。


「ラジヤはおしゃべりだから、それをちゃんと聞いてくれる人がいいと思うの。少しおっちょこちょいなところもあるから、相手にはしっかりしていて欲しいわ」


 人のいい彼女にはぜひとも幸せになってもらいたい。


「でも私の嫁ぐ場所にラジヤに相応しい人なんているかしら」


 段々不安になってくる。自分の色恋さえよく分からないのに、他人の、それも大事な人を任せられる存在を見つけてあげられるだろうか。

 どうしよう、と寝具に顔を埋めて呟くと、ラジヤは大きな口を開けて笑った。


「いようがいなかろうが、私はお嬢様についていきますよ。私か母でなければティイ様のお傍は務まりません。他の誰がついていくというのです」

「そうね。ついてきてくれると嬉しいわ。あなたは私の気持ちを分かってくれる数少ない相棒だもの」


 そう言うと、彼女は自慢げに私より大きな胸を張った。


「あ、そうだ」


 寝台から飛び起きる。


「結婚する前に、もう一度テーベに行きたいわね」


 ぱっと思いついたことが口をついて出てきた。


「あのファラオがいらっしゃる都にです?」


 ラジヤが目を瞬かせた。


「そう。小さいころに連れて行ってもらった以来なんですもの。もう一度あの華やかさをこの目で直に見てみたいわ。あの頃だって感動したのだから、少し大人になった今ならもっとたくさんのものを得られると思うの。結婚なんてしたら、テーベに嫁ぐことでもしないとテーベに行く機会なんてなくなっちゃう」


 おぼろげにしかない、王都テーベの光景。

 今この目にしたら、どんな風に見えるだろう。でもこの屋敷に閉じ込められていては行く術がない。


「なら、旦那様に頼んでみてはいかがでしょう」


 けろりとラジヤが提案した。


「お父様に?」

「ええ、その他に手はありませんでしょう」


 とんでもないと私は首を大きく振る。


「無理よ。お父様はとても私を連れて行ってなんてくれないわ。女は家を守れというのが当たり前の頭の固いお人だもの」

「だって、『美しき谷の祭り』がございますでしょ?」


 美しき谷の祭りとは、500年以上もの伝統を持つ葬送儀礼だ。祖先のことを思い出すための壮大なこの祭りに、父は毎年参加している。今回兄たちが付き従うのもこの行事だ。

 テーベに住まう貴族たちは家族総出で出席することも少なくない。

 自分がテーベへ行けるかもしれない。そう思うと興奮で身体の芯が大きく震えだすのが分かった。




* * * * *




「ティイがテーベ!?だめだだめだ、頑固拒否!」


 早速家族五人が揃う食事の時間に父に「テーベに行きたい」と伝えた時、第一声を大声で発したのは次兄だった。


「我々の祖先を敬う神聖なる行事をむちゃくちゃにされる!!」

「ちょっとアイ兄様は黙ってて」


 隣で食事をとりながら猛反対する兄の顔を押しやった。


「ティイ!お前は兄を蔑ろにして……」

「私だってもう子供じゃない。行事をむちゃくちゃにするようなことはしないわ。そんな血相悪い顔で叫ばないで」


 隣の猛反対する兄を父から隠すようにぐんと前へ出る。父は少し困った顔をしていた。眉間に寄った皺はとても深い。


「ティイは昔からテーベに行きたいと言っていたからね」


 そう言ってくれたのはアネンだ。上品に食事を口に運びながら父に提案してくれる。


「ティイがテーベへ行ったのは確か5つの時だ。美しき谷の祭りは本来なら一族全員で出席するものであるし、良い機会ではないでしょうか」


 そうだそうだと私も首を大きく縦に繰り返し振った。父の隣の母も同じように頷く。


「お母様!うれしい、賛成してくださるの?」


 母は私に少し困ったように微笑み、父に向かって口を開いた。


「アネンの言う通り、私も良いのではと思います。今後のことも考えてテーベを見ておくというのもよい経験になりましょう。都の女性というのは気品に満ちておりますもの」


 母が味方なのは心強いことだ。

 確かに、父についていくのであれば高貴な身分の一族たちに並ぶのだろうし、他の貴族の女性たちを目の当たりにする機会にもなり得る。

 母が私への出席を望むのは、テーベに住む女性たちから私が何か刺激を受けるのではないかと期待しているからだろう。

 たとえそうであってもテーベへ行く機会を逃すものかと父に訴える。


「ね?見分を広げるためにも良いことだと思うの」


 唸って眉間に皺を寄せながら悩んでいる父に、あと一息だと更に前へ乗り出す。


「お父様とまた一緒にテーベへ行きたいわ」


 この言葉が悩める父の決定打となった。

 私は兄二人と共に、盛大な祭りが催される王都テーベへ親族として同席することを父に許された。

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