第2話
高山厚労大臣を無事に東京まで警護し、本庁に戻り北川と久米は報告書を作成していた。彼らの所属する警備局公安課も他の警察官同様に、職務の大半は書類仕事だった。その日の警護対象者の動き、不審者の有無、異音などがなかったか、自分たちの動きの改善点、今後の課題等々、これからの警護にも役立つ事になる資料になりかねないので抜かりなく書き上げるのが常だ。
「ごくろうさま。今回の香川の任務も高山大臣の根回しがあったので動きやすかったですか?」
警護課係長の西が二人に近づいた。直属の上司の西は首都圏の国立大学を卒業し、第一種国家公務員試験(現在は国家公務員総合職)に合格したキャリア組で現場をほとんど知らない。そんな西は自分が北川、久米より二歳年下だということを忘れさせるほど頭の切れも良く、将来の警視総監と噂されていた。
「西係長 お疲れ様です。今回もトラブルなく遂行出来ました。西係長が我々の警護のやりかたを理解してくれるのがいつもありがたいです」
もちろんSPにはマニュアルがあり、マニュアルに則り動くのが常だが、西係長は臨機応変に動くことも出来る北川、久米の動きには寛容だった。
報告書を書き上げた二人は久しぶりに呑みに行くことになった。話題はもっぱら北川の元恋人の話だった。
「梓ちゃんはあんなに北川に一途だったのにな。ほんとにオレは二人が結婚すると思ってたし、結婚式のスピーチや余興を頼まれると思ってたんだぜ」
「おいおい久米、それってオレが今後も結婚しないような言いぐさだな。オレだって実家の奈良の父ちゃんと母ちゃんにいつもプレッシャーかけられて大変なのに久米までオレの結婚を期待してるのかよ」
こうして居酒屋で盛り上がり、少し飲み足りないなと北川行きつけのbarで二人は飲みなおした。
「久米の奥さんはこんな時間まで飲んでて怒らないのか?」
「ああ、仕事の事も十分理解してくれてるし、いつ何時にどんな危険がある仕事かも理解してくれてる。だからオフの時間の大切さもわかってるんだ」
こうして日付が変わる直前まで二人は飲み、笑い、喋った。
(ピピピ〃〃ピピピ〃〃)
昨夜の久米との酒も残った次の日の午前十時前、スマホの機械的な着信音で北川は目覚めた。
「起きてた~~~わたし」
元恋人の梓と共通の友人の加奈からの電話だった。梓と別れてから加奈とはちょくちょく連絡を取り合っていた。最初は北川が梓と別れて、どうしてるのって気軽な近況の電話から始まったのだが、最近は北川の休みのたびに電話で起こされ部屋を掃除してもらったり買い物へ行く友達以上恋人未満の関係だった。
「な、んだ、加奈か。今起きたよ」
「昨日は同僚の人と飲みに行くって言ってたもんね。どうせ二日酔いで今も頭が痛いんでしょ。どうせ掃除も洗濯もしないんだし今から行くねっ」
ほんとにいつ来ても洗濯ものが溜まってるわね、と言われながらも北川の洗濯物を洗濯機の放り込み加奈は部屋の掃除もしてくれた。仕事が忙しくても洗濯は溜め込まずにしよといつも思う北川だが、ついつい疲れた体で洗濯まで体力が回らないのが本音だ。SPの仕事の神経と体力の消耗も相まって、加奈の世話になっている北川は加奈を夕飯に誘った。
「こんなお洒落なイタリアンを北川君が知ってるなんて驚いた。誰かお目当ての子と一緒に来たんじゃないの?」
目白の住宅地に看板も出さずに営業しているイタリアンをコースで出してくれるレストランantipasto(アンティパスト)に来ていた。antipastoの名の通りにイタリアンの前菜が得意な店だ。二人は野菜のトマト煮込み(Caponata カポナータ)、クオッポ(Cuoppo)、鯛のカルパッチョ等をつまみ、ライスコロッケを食べ、ワインを楽しんだ。
「バカなことを、ここは内閣官房副長官の警護をしたときに聞いた店なんだ。カプレーゼ(Caprese)が絶品で一度食べてみると良いと教えられて初めて来たんだぜ」
「たしかにこのカプレーゼって初めてだけど、トマトとモッツァレラチーズにオリーブオイルと味付けだけで素晴らしく美味しい。官房副長官のおススメだけあるわね。わたしも北川君がこんな良いお店に連れて来てくれるなんてやるな、と思ったけどね」
「はいはい、俺はいつも安居酒屋で飲んでますよ」
二人はカプレーゼに感動しながら加奈の仕事の話題に触れた。加奈は日本で2番手の自動車メーカーのエンジニアだった。梓と同い年で北川より三歳下。三十路も直前に迫っているのだが結婚観は低く、燃費と走行性能の両立を目指した車を開発したい理系女子だ。ジェンダーレスが強くなった昨今でもエンジニア業界は俄然男社会だと彼女は言う。
「梓からは連絡は来るのか?」
「それが向こうへ行ってから全然ないのよ。北川君には----あるわけないよね----」
食後のデザートのピスタチオのジェラートを食べながら北川は思った。離婚直後は梓の心境や、生活状況を知りたかった。それを加奈に聞くことで自分が梓の行動を見ているようで安心もした。だが、最近は梓より加奈が気になっていた。そしてその思いは日々大きくなっていた。(加奈は俺の事をただの友人と思ってるだけだ)そう思うとこの関係からの一歩が踏み出せないでいた。
「美味しかった。北川君ご馳走様」
「礼を言うのは俺だよ。いつも掃除とかしてくれて」
「迷惑かなと思ってもついつい北川君って自分で身の回りの事しないでしょ。気になるんだよね」
「俺は子供かっ」
今なら加奈に言える気がした。梓の事ではなく加奈の事をもっと知りたい、加奈を見ていたい。だがあと一歩が踏み出せない北川は茶化した。
「加奈の旦那になる奴がいたら色々おせっかいで煙たがられるぞ」
ここで、俺は嬉しいけどな……この一言が言えたら北川も楽になれたが、言えない。高い高い壁があるようにもう一歩先の関係を築きたいと思いつつも進展しない関係が続いていた。
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