第11話 金波銀波のガラスの駅

 雪が降るなんて予報はなかった。


 見上げた先には灰かぶりの空が広がっていたし、コートを着込んでいても斬られたみたいに痛かったから、雪が降る可能性を皆無にしていたわけじゃない。それでも天気予報の方が信じるに値するだろう。今日はそれが裏目に出た。


 灰かぶりの空から落ちて来る雪と一緒に白くなっていく木々に見送られながら、廃線になった単線を辿って波邇夜山を踏み締めて行く。


 寒いとは言ったが、こういった慣れてもいない山登りなんてするから、身体は警戒して疲労感を上げるし、頭と身体に積もっていく雪は体力とやる気を奪って引き返すよう防衛本能に呼びかけてくる。だけど、これくらいで引き返すなら最初からここに来る意味なんてない。


 生きようとする身体の悲鳴を無視して、俺は雪中行軍の道を選んだ。


「雪の進軍廃線を踏んで、なまじ命のあるそのうちは……堪え切るべき寒さの焚き火、ここは何所ぞみな波邇夜の山、渋い顔して怪しい駅探し、どうせ手ぶらで帰らぬつもり……」


 この歌を聞いてくれるのは、野生を逞しく生きる動物たちか、或はこの山に遺棄された昔の人影だろうか。


 葉を振り捨てた裸体を晒す木々、雪で着飾る針葉樹、次第に見えなくなる線路の轍、振り返った自分の足跡すらも曖昧になりつつある中で、俺は線路脇で隊長のように聳える裸の巨木の手前で立ち止まった。


 振り返ってみると、遠くの足音はもうほとんど見えなくなっていた。


 人生と同じように、俺の足跡は簡単に数えられた。歩けているのかいないのか不安になるような光景だけど、ゆっくりでも一歩一歩を確実に進んで行けばいいんだろう。目立たないように、はしゃいでやらかさないように、無理して似合わないことをしないように、昭和の偉大な歌手もそう歌っている。


 どうせ電車なんて来ないし……少し休憩しようか。


 せなの温みで雪解けかかるかどうかはわからないが、巨木に背中を預けて座り込んだ俺は、灰かぶりの空を見上げた。


 大灰原のクレバスから続々と振り落とされる雪の勢いはますます強くなり、吐息も目深の防寒コートも両足を覆うズボンもブーツも瞬く間に白くなってしまった。そのうち、雪と自分の境界すらも曖昧になって……ここで寝れば死ねるんだろうか。だったら酒でも持ってくれば良かった。


 あんた様、未成年でアルコールなんて百年早いですよ!

 目の前に浮かぶ酒の誘惑(飲んだことないくせに、な)にかぶりをふった俺は、持って来た遠藤猛氏の資料であるメモ帳を開いた。

 それは俺とヒメの運命を決定付けてくれた栄えある旭日だと言っても過言ではない。これが無ければこうして波邇夜山に突撃するようなことはなかっただろう。遠藤猛氏、恵君、忍君、ありがとう……。


 そう祈りつつ、また目を通した。


 殴り書きのような乱れた筆跡の所為で読み難かったけど、どうにか判読出来た中に、隠れた霊山と言えば波邇夜山、波邇夜への出発日時、忍という年の離れた弟が生まれたこと、遭難して実況していたこと、誰にも信じてもらえないこと、ガラスの駅で見たこと、それらの全てが書いてあった。ただ、自殺の理由はそこに書いてなかった。


 それでも、こうして俺とヒメの未来に希望をくれた。


 酒の誘惑に抵抗し、二本の煙草にも一つの梅干しにも頼らず、決意が鈍る前に両足を気遣い、寄り添う雪を払ったら、さぁ益荒男よ、出発だ。


 一世一代の大仕事を背負い、俺は曖昧になる廃線の轍に苦戦しつつ、深く、重く、固まっていく雪を踏んで行く。


 下手な登山よりもずっとハードな雪中行軍をするようになったなんて、ただ生きていただけの過去の自分に教えてやっても信じないだろう。


 思えば……こうして本気になったのは一度だけだと思う。


 たった十七年しか生きていない未成年が自分の人生を振り返るなんて気が早過ぎるだろうか。世間様は何て言うだろう。拗らせた高校生がまた莫迦なことを言ってるよ、くらいかな? まぁ……俺がしてることは世間様にとって莫迦なことなんだろうけど……。


 ボスッ、ボスッ、と雪の大地を踏み抜きながら進み、力尽きて線路に倒れている木を跨ぎ、雪の下に隠れていた大岩と出会し、遠くから聞こえて来る野生動物っぽい鳴き声をBGMにし、雷に打たれて外側だけになってしまった巨木と出会した。


「やぁ、お前さんも生かされ続けてる類いかい?」


 そこで少しだけ休憩し、また歩き出した。代わり映えしない光景を侍らせて、足下にクレバスを刻む雪中行軍は続き、視界が文句を言い始めた頃になって――消えて久しい線路の轍を見下ろす木々の隙間から覗く人工物が見えた。


「あれは……外灯?!」


 葉を振り捨てた左手の木々に混じってちょこんと突き出るのは三つ又の明らかな人工物で、俺は文句を垂れていた両足を奮い立たせて一気に駆け出した。足下からの抗議なんて目もくれず、線路の轍を突っ走った俺は露になった三つ又の外灯――と終点の北波邇夜駅を見つけた。


「ここだ……ここがガラスの駅だ……!」


 ホームへ通じるスロープの手前に立つ三つ又外灯に一度手を置き、そこから見える山奥のローカル駅の外見を眺めた。


 孤島のように浮かぶ単式と呼ばれる片面ホーム、そのホームに等間隔で並ぶ三つ又の外灯、ホームの中と外を隔てる半壊のフェンスに掲げられた駅名看板、奥には木造の駅舎が見える。


 ここがガラスの駅であることは間違いないはずだが、遠藤猛氏が見た感じとは少し違う。雪に埋もれてはいるが、ガラスみたいに凍りついているわけじゃない。ただ雪に埋もれた廃駅にしか見えない。


 嫌な予感を振り払うようにスロープを踏んで、雪だらけのホームに上がった。


 見渡す限り人の気配は感じられない。駅を取り囲む木々は静かで、根城にしていそうな野生動物の姿も無い。折れた三つ又の外灯、雪の重みか根元の腐蝕かわからないまま頽れた屋根と潰されたベンチとくれば廃駅という括りなんだろうけど、何故か駅舎だけは雪の重みも周りの惨状もどこ吹く風のように悠々と聳えている。


 外見は木造の何の変哲もない田舎の駅舎だ。かつて鉱夫や鉱石を運んでいた光景が嘘のように静かで、ホームと駅舎を隔てるガラス戸の奥には古い蛍光灯が照らすレトロな待合所がある。


 ガララ、と草臥れた様子もないままガラス戸は動き、それと同時に待合所から温かい空気が押し寄せて来た。その温もりに思わず飛び退いたが、少し待っても警戒しても待合所に動きはなく、恐る恐る駅舎内に足を踏み入れてみた。


 映画でしか見たことがない有人改札を抜け、自動じゃない切符売り場や木造の簡素なベンチの間に置かれただるまストーブは動いており、温風はこれが原因だったようだ。件の駅員が点けているんだろうか。


 外はどこに繋がっているのか確かめようと入り口のガラス戸をガタガタ言わせたが、何故かそこは開かず、窓も同じだった。


 ホームから見て駅舎の左手には『食堂』と書かれた木札を掲げているガラス戸があり、覗いてガタガタ言わせたけど、こっちも開かなかった。そうなると……。


 俺は振り返り、自動じゃない切符売り場の横にある『事務所』という文字が書かれているガラス戸を見た。その向こうに見えるのは、事務所には似つかわしくない私物の気配と畳敷きの上に鎮座する炬燵の影だ。件の駅員がいるとしたらここしかないだろう。何しろ炬燵の上にミカンがあるんだから。


 遠藤猛氏は追い返されたけど、俺はしおらしく帰るつもりなんてない。それに俺は稀人じゃない地元民だ。


 どんな駅員がいるのか、少しの不安と恐怖と緊張を連れて事務所兼居住スペースのガラス戸に触れた。すると、食堂とも入り口とも違って素直に動いてくれた。


「あの〜誰かいませんか?」


 ホラー映画での禁句ではあると思うが、ここには観光客を襲う殺人鬼も音に反応する化け物もいないだろう。返事を待たずにズケズケと入る。


 事務所の部分は切符売り場の裏側とか駅員の帽子とか服とかよくわからない道具とかがそれを証明しているが、どちらかというと居住スペースの方が規模は大きいみたいだ。一段高くなった場所に畳は敷かれていて、人を駄目にする炬燵、小さなだるまストーブ、本棚やタンスなどの生活感が溢れている。その畳敷きの横には壁で仕切られた空間があって、奥には裏口っぽい木造の扉があって、さらにその横には駅のホームに通じる駅員専用のガラス戸がある。普段はカーテンなんだろう。


 いずれ駅員が来るだろう。そう信じて畳に上がった俺はショルダーバッグを置き、冷えてしまった身体を炬燵という悪魔で温める。こういう時に、机上の籠に積まれたミカンが嬉しい。そんな炬燵の周りには駄目にされた人間の証が散らばっている。灰皿に潰された煙草の臭いが気になるけど、居心地は不思議と良い感じ。ゴロリ、と炬燵に身を委ねてミカンと戯れる。


 畳の上を揺れるミカンと揺らす俺を見ているのは古い壁掛け時計と秒針の息遣いだけだ。炬燵の温もりは優しいし、静謐だし、疲れたしで眠くなってきた。駄目人間になる手前でうとうとしていた時――。


「ん……? 警笛?」


 どこからか、遠くから、微かな警笛のような音が聞こえて来た。眠気は即座に吹き飛び、炬燵から飛び出した俺は脱いでいたコートを掴み、ホームへ直接通じるガラス戸へ張り付いた。


「あれ……? 外灯が点いてる?」


 さっきまでは朽ち果てていたはずなのに、今の外灯は役割を果たしている。加えてホームの雰囲気がさっきとは違う。その外灯にも崩れていた屋根にもホームの至る所にもガラスのような氷が出来ていた。


「ガラスの駅になった? するってぇとあれかい……? 汽笛が聞こえたら姿を変えるファンタジー……」


 内側の鍵を外してホームに出てみた。さっきまで雪に埋もれていた線路はスケートリンクみたいに凍りついていて、透き通った中身は蒼く輝いている。振り返ると、駅舎もつららと氷に覆われていたが、中身だけはさっきと何一つ変わっていない。


 これはもうここだけが異世界とか次元の裂け目とかになっていると考えた方が良さそうだ。きっと件の駅員に訊いてもわからないだろう――。


「おい! そこのお前! 何してやがる!」


 駅員のことを考えたのが合図だったんだろうか。私は粗暴です、と主張しているような声が飛んで来た。殴られたみたいにその声へ振り返ると、ホームとスロープの境界線に黒い詰襟に外套を纏った男性が立っていた。


 明確に機嫌が悪いことを告げるジェスチャーの後、黒の外套を靡かせながらこっちへ近付いて来た。


「チッ……また稀人かよ! ここはお前らが来る場所じゃねぇんだよ! 〝生きてるくせにフラフラ〟しやがって……」


 怒号を吐き出したのは、詰襟の前を全開にしてシャツと割れた腹筋を見せつけているガラの悪い駅員だ。顔立ちは如何にもな不良少年といった感じで、俺はこの北波邇夜駅で行方不明なったというとある人物の名前を出してみることにした。


「あの……恋ケ窪健一こいがくぼけんいちさんですか?」


 馨に教えてもらったことを後で自分でも調べた。その時にこの名前があった。


「んぁ?! 何で俺の名前……っていうか、恋ケ窪って呼ぶんじゃねぇ、このガキが!」


「あのっ……! ここってガラスの駅ですよね?!」


「ああ?! 何だよ、おめぇは……」


「ここに来たくて……ここを見つけたくて入山して来たんです!」


 思わず前屈みになるし、恋ケ窪さんの一字一句が気になってしょうがない。そんな俺の態度に対して、恋ケ窪さんは引いているのか後退りした。


「ここが何かわかってんのか? 泣きっ面のガキも黙る黄泉の門だ! お前みたいに生きてる奴が来る場所じゃねぇんだよ!」


「じゃあ誰が来ていいんですか? 乳母車の老婆ですか?!」


「乳母車……チッ、あのババァ……目撃されてんじゃねぇか……」


 やれやれとかぶりをふった恋ケ窪さんは俺を一瞥し、内ポケットから懐中時計を取り出した。


「めんどくせぇな……。お前、とりあえずそこに立ってろ」


 恋ケ窪さんはそう言うと、赤い旗を持ってホームのギリギリに立った。すると、いつの間にか吹き始めていた吹雪の中に電車が現れた。幽霊のように、雪女のように、姿を見せた電車はデハ100型だけど、何故か水晶症候群みたいに水晶があちこちから突き出していて、運転手の姿は見えない。


 恋ケ窪さんのちょっとした誘導の末に停車したデハ100型は、ガタガタと車両のドアと運転席のドアを開けた。誰か下りて来るのかと思い、俺はちらりと車両を見たけど、三両のどこにも人の姿はなかった。それだのに、


「おう、まだババァは来てねぇし、客もいねぇ。ああ? ああ、こいつはただの阿呆な稀人だ」


 恋ケ窪さんは運転席の誰かと親しげに話しており、


「どうせ帰りはいねぇんだろ? さっさと廃止すればいいのに……物好きだよ、お前らもさ」


 そう言って笛を吹いた恋ケ窪さんに応えるようにして三つのドアは閉まり、デハ100型は来た道を戻って吹雪の中へ消えた。


「あの電車はどこから来て……どこへ行くんですか?」


「さっき言ったろうが。あの世だよ。行きはあっても帰りがない……永久の一方通行だ」


「帰りがない……? それってどういう……」


「この電車に乗れば……蜘蛛の糸も涅槃も解脱もない……永劫の無が待ってる。眠ったままだな。まぁ……帰りたいと思う奴がここに来ることはないだろうよ」


 恋ケ窪さんはニタリ、と意地の悪い感じの笑みを浮かべると駅舎に向かって歩き出したため、俺は慌ててそれを呼び止めた。


「あのっ……! この駅に来て……あの電車に乗れば死ねるんですか!?」


 そう叫ぶと、恋ケ窪さんは立ち止まって肩越しに振り返った。


「おめぇよ、その口から吐き出した言葉……もう一度考えるんだな。未来もわからねぇのに、その場で投げた答えは一生後悔するんだぜ? 〝切符〟の有無か、それとも結末を決めつけられたなら……また来な」


 振り返らずに恋ケ窪さんは駅舎に入って行った。俺はその背中を追いかけてガラス戸を開けたが――待合室は雪と残骸に覆われ、たった今開けたはずのガラス戸も無くなっていた。足下にはだるまストーブの残骸が転がっている。


 目の前にあるのも、振り返った先にあるのも、現実の北波邇夜駅の廃墟だ。それでも、俺がさっきまで交わしていた言葉も感触も幻なんかじゃなかった……確かにここがガラスの駅なんだ。


 ただ……『切符の有無か、結末を決めつけられたなら、また来い』と恋ケ窪さんは言っていた。切符はともかく、結末を決めつけられたヒメなら……電車と同じように水晶症候群のヒメなら……あの永劫の無へ誘う電車に乗せてもらえるかもしれない。

 俺はその自問自答に頷き、暗くなり始めた波邇夜山から逃げるように下山を始めた。

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