第10話 2

「そう……そこに水晶の秒針を貼付けて……」


「これで……完成か?」


 絵巻の中心に位置する水晶の時計に秒針を貼付けた俺は、全体がヒメに見えるよう退いた。


「うん……うん、完成……そう言ってもいいだろうね」


「本当? もう直さない?」


「本当。完成に……しようか――ああ、いや……少し……冷静になる時間……取ろうか。推敲ってやつかな」


 放課後の病室。迫り来るタイムリミットの煽りを受けて、ミスを連発した俺の所為で影絵制作は遅れていた。だけど、土曜日と日曜日の時間をほぼ全て使うことで遅れを取り戻し、垂仁への発送が間に合う最終ラインをオーバーする前に、一応の完成に辿り着いた。


「良かった……それがとりあえずでも」


「少し……ギリギリだったからね。でも推敲も大事な作業だから……妥協しない、よ?」


「ですよねぇ……」


 最後の最後だから、ヒメからの妥協のないスパルタが待っている。そう思うと憂鬱ではあるが、それ以上に二人でやる作業が楽しいし、完成という暁が待ち遠しい自分がいる。


「それじゃあ……カー君、今日はここまでにしようか……」


「えっ? まだ十三時だよ?」


「残すのは推敲だから……今日は……英気を養おうよ。ね……?」


 ヒメにそう言われ、その日は解散になった。いつもに比べてあっさりとした感じで解散になったこと、少しだけ怪訝には思ったが、追及しないまま俺は帰路に付いた。


 そうして迎えた翌日、いつものように放課後病室に行くことを登校前にメールしたが、その放課後になっても返信はなかった。どうしたの? 何かあった? 不安に駆られて迷惑メールのようなものを送らないように自制しつつ、俺は桐谷へ確認もせずに鐘早を飛び出した。制服を汗だくにする残暑も気にならず、駆け足のまま階瞬病院へ飛び込んだ。


 いつかのように汗だくのまま受付に顔を出した。そこにも顔なじみになった優しい看護師さんがいて、俺はその人に大急ぎで声をかけた。


「榊原君?! 連絡はお父さんにしかしてないはずだけど……」


「えっ?! ヒメ……姫子さんに何かあったんですか?!」


 そう尋ねた瞬間に、看護師さんは口籠った。その時になってようやく周りの視線に気付いた俺は、耳打ちしてもらうためにその場から早足で離れた。


「……私から教えてもらったことは内緒だからね? 姫子ちゃん……今朝から倒れて意識不明なの……」


「えっ……水晶化は……?」


「水晶化はしてないんだけど……意識が戻らなくて……葛城先生が付いてるよ」


「そんな……」


「お父さんも今朝から来ていたけど……仕事なのかさっき出て行ったよ」


「……わかりました。ありがとうございます」


 教えてくれた看護師さんに心から頭を下げ、俺はお父さんがいないうちにヒメの病室へ走った。エレベーターなんて待っていられないから、非常階段で八階まで駆け上がった。


 ぜぇぜぇ、と限界の息と心臓を奮い立たせながら最後の段を突破し、八階の廊下に出た。入り浸った806号室が月よりも遠くに見える錯覚に悩まされながらも引き戸の把手を掴んだ。縋るようにノックすると、


「はい、どうぞ」


 葛城さんの声が聞こえて、俺は安堵を連れて病室に入った。


「榊原君? 君……いや、ずいぶんと耳が早いね」


「メールの返信がなくて……まさかと思ったんです」


 病室には葛城さんしかおらず、ベッドにいるヒメは目を閉じたまま動かない。


「葛城さん……ヒメ――姫子さんは?」


 そう訊いたが、聴診器を付けていた葛城さんは俺に向かって、静かに、と指で合図した。少しだけ沈黙を守り、聴診器を外すのを待った。


「意識不明だよ。外傷による原因は見当たらないから、頭を打ったとかの可能性はなさそうだ。そうなると身体の中に原因を求めたんだけど、どこにも異常はない……となると、水晶症候群による一時的な意識不明の可能性が高い」


「そんなことがあるんですか?」


「あるよ。水晶症候群によって引き起こされる意識不明の理由はわからないけど、橘製薬ではそれをパラダイムシフトと呼んでる。生身から水晶の身体になるための意識と感覚の改革なんじゃないかってね」


「じゃあ……姫子さんは……」


「確実に死へ近付いた……そう言って間違いないだろうね。このまま目を覚まさないで水晶化した患者さんもいたから……どうなるかはもう僕にはわからない」


 葛城さんはそう言うと、俺を一瞥してから影絵を見上げた。


「この影絵は垂仁の文化祭に出すんだって?」


「はい……」


「受付まで時間がないけど……どうするつもりかな?」


「完成は……しているんです。姫子さんの最後の承認待ちだったんです……」


 俺は影絵とヒメを見てから、縋るように葛城さんを見た。だけど、


「そうだったのか。でも悪いけど……僕の権限で受付期間を伸ばすことは出来ないよ。僕はあくまで医者だからね」


「そう……ですか……」


「姫ちゃんが目を覚ます可能性はわからない。今日の夜には目を覚ますかもしれないし、覚まさないかもしれない……判断は君にしか出来ないよ」


「……はい」


「タイトルはあるのかな?」


「タイトル……タイトルは……」


 そういえば、それは一度も考えていなかった。ヒメならどんなタイトルにしたんだろう。


「これはサンドリヨンかな?」


「サンド? 何です?」


「サンドリヨン、シンデレラのフランス語だよ」


「サンドリヨン……」


 灰かぶり姫……灰の姫……。


「ガラスの……サンドリヨン……」


「それじゃあ……ちょっとそこのスタッフステーションに用があるから、少しだけ失礼するよ」


 葛城さんは出て行った。


 その背中を見送った俺は、目を開けてくれない、出迎えてくれないヒメに近付いた。その際に、彼女の胸元が開けっ放しにされていることに一瞬ギョッとしたが、葛城さんの聴診の気を散らさせたのは俺だった。


「ヒメ……このまま水晶になって……粉々になるなんてことないよ、な……?」


 いつも使っていたパイプ椅子に腰掛けることなく、俺はヒメの横に立った。


 胸元は動いているけど、ヒメは反応してくれない。いつもならこんな一方通行な会話なんて生まれないのに、今は何を言っても返事はない。


「今日さ……朝の返信がなくて……ずっと不安だった。前は誰かとのメールの返信のあるなしなんてほとんど気にならなかったし……付き合いが悪いな、なんて言われることもなかった……」


 ヒメと再会してから全てが変わった。ヒメからのメールが気になるし、何か美味しいものとか楽しいことがあったら伝えたいし、灰色とか影絵とかをこじつけてでも会いに行きたくなった。ヒメが笑えば俺も嬉しいし、ヒメが泣けば俺も悲しい……これが恋とか愛なんだろうけど、思えばあのプロポーズの時から、俺はずっとヒメが好きだったんだ。きっと……自分だけに向けてくれたあの笑みに、全てを奪われたんだろう。


「こうなってから自覚するって……なかなかに地獄だ」


 このまま目覚めなかったら、俺はこの気持ちを永遠に抱えて生きていくことになる。告白してフラれる方がよっぽど健康的だ。世の中の恋する男女よ……好きな人がいるなら勇気を出して告白してみなさい。内に秘め過ぎた気持ちと秘めなくちゃいけなくなった気持ちはもう取り返しがつかないんだから……。


「ヒメ、あの影絵……もう時間がないから、俺の判断で垂仁に送るよ? 抗議するなら今だからな?」


 だから……起きて……起きてまたスパルタしてよ……。


 そう縋りたくなって俺はヒメの胸元に手を置いた――直後、


「何をしてる」


 振り向いた先にお父さんがいた。その光景に飛び上がった俺は思わず後退りしてしまい――お父さんは瞬く間に表情を変えた。能面が般若となり、「お前……!」と口を大きく歪めた。


「お前……!! 自分が何をしてるのかわかってるのか!?」


 鍛えられた立派な体躯が塗り壁みたいに迫り、俺の肩を暴力的に掴んだ。


「姫子に触るな!!」


 唾が弾け飛ぶほどの勢いで怒鳴り、掴んでいた俺の肩を振り回すように揺すってベッドから突き飛ばした。その勢いには殺意すらあって、このまま殴り殺されてもおかしくない感じがする。


「灰原さん……ヒメには何も――」


「黙れ!! 姫子を誑かして何をした!? お前みたいに……人の家を土足で踏み歩くような輩が偉そうに私の名前を……姫子の名前を呼ぶな!!」


「俺は何も――」


 何もしていない。その台詞が出る前に俺の視界は揺れ、身体は吹き飛んだ。ドシーン、という轟音と地響きが病室を揺らし、気付いた時にはもう右頬の激痛が全身に悲鳴を上げさせていた。


「ハァ……ハァ……何もしてないだと……?! ここに入り浸っていたのは誰だ?! ここで姫子にくだらないものを作らせていたのは誰だ?! その所為で姫子の水晶症候群が早まったんじゃないのか?! ふざけるな!! お前が姫子を!!」


 尻餅をついたままの俺を見下ろし、お父さんはそのまま殴り掛かるように胸ぐらを掴んだ。ペルソナを無くした憎悪の顔――だけど、俺はその目元が光っていることを見逃さなかった。


「お前の所為で姫子は……たった一人の家族なんだぞ!!」 


 再び振り上げられた拳。俺は目を閉じたが抵抗はしなかった――直後、数人の看護師と医者が飛び込んで来た。


「灰原さんっ……! 落ち着いてください!」


「まだ姫子さんは亡くなっていませんから……!」


 四人の男に押さえつけられてもお父さんは、瞬きしないその目で俺を刺した。


「もう一度……私の前に、姫子の前に来てみろ! その時は……!!」


「ほら、君はこっち!」


 後から入って来た葛城さんに腕を掴まれて、俺はヒメの病室から突き出された。


 廊下には俺とお父さんの騒ぎを聞きつけた野次馬が押し寄せており、看護師さんたちが病室から遠ざけていた。その中に桐谷がいて、彼女は俺と目が合うと、看護師さんの横を抜けてこっちに駆け寄って来た。


「ちょっと……何してんの……?!」


「色々あってさ……」


 その後、桐谷に見守られる中、俺は診察を受けて眼帯生活になった。

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