第7話 2

「カー君、影絵の下絵には地券紙(厚手の紙)を使うの。光を通さないし、切り抜く作業に適してる紙なんだよね。藤城清二さんのやり方と同じにしてるんだ。ああ、それは違うよ……きちんと教えた通りに動いてね」


 約束した通り、夏休みの初日からヒメのスパルタ指導は始まった。影絵制作を受け継ぐと自分から宣言した以上、泣き言も逃げ出すつもりもないけど、ヒメの意外な一面が見れたと前向きに捉えている。


「この下絵は完成したから……トレーシングペーパーを使って正確に写し取ってね?」


 その正確に写し取る作業も一苦労だった。ヒメの描いた下絵は綺麗なうえに繊細だから、絵心とは無縁の俺には無謀な作業だ。加えて繊細な絵は目に容赦ない疲労を与える。


「うん、プラモデルのおかげかな……? 初めてにしてはスジが良いと思う」


「そう言ってもらえて嬉しいよ。へたくそめ、とか言われたら立ち直れなかった」


 その言葉にヒメは声をあげて笑った。その後は一緒に病院内の食堂でお昼を食べて、お見舞いが許されるギリギリまで粘って影絵に付き添った。


 その二日後、下絵の写し取りは終わった。その全体像は水晶症候群をモチーフにしたシンデレラの絵巻みたいなものだ。下から上に向かって物語は進むようになっており、最後の見上げる部分には水晶と化したシンデレラと王子様が共に抱き合ったまま凍りついている。ただ、その表情は二人とも幸せそうだ。


「ハッピーエンド……」


「まぁ、それでもいいでしょう? きっと……水晶症候群の人たちにはわかってもらえるよ。それか……カー君みたいに優しい人たちに」


 ヒメはそう言いながら、俺にカミソリを差し出した。


「カミソリの扱い方には気を付けて、ね? 私は……何度も怪我してるからさ」


 受け取った時に見たヒメの華奢な左腕は切傷だらけだった。だから、そっと左手に触れた。自分に傷を癒す魔法なんてないけど、あったらきっとこうしてる。


「……傷だらけの汚い手でしょう? こっちは透き通るガラスの手でございます」


 触るなら、という意味なんだろう。差し出された右手は綺麗だけど、


「俺はまだ……こっちが良いよ。あの時……握り締めた感触がまだ残ってる大切な手……」


「あの頃……カー君はいつも手を握ってくれてたね」


「泣いてばかりだったから……それで笑ってくれるならいくらでもしたさ」


 苛められていた理由はヒメが病弱だったから。その苛めていた奴らは後で俺と担任の先生が懲らしめた。苛め問題を話し合いで解決を、なんて寝言を言う先生じゃなくて良かった。話し合いで解決というのは対等な立場になって初めて実現するのだから。


「ふふ……最近、昔のことを思い出すことが多くなった気がする」


「その前は?」


「何も思い出さなかった。カー君との思い出も……全てはパンドラの匣の中」


 そこまで言ってヒメは一度口を閉じ、もう一度口を開けた。


「どうせいつか死ぬのに、パンドラの匣を開ける必要なんてない……って思ってたのに、カー君とまた出会って……カー君が開けちゃいました」


 そこから出て来たのは俺との過去も含めた邪悪なモノたち――いや、これはヒメにとっての邪悪なモノだ。ということは……。


「最後に残ったのって……」


 スイ、と立ち上がったヒメを視線で追った――その直後、


「いてっ……!」


 警告された矢先に、カミソリで指を切った。


「あっ……大丈夫? 絆創膏ならあるから」


 そう言ったヒメは、何故か入り口の引き戸でゴチョゴチョと何かをしてから、ベッド脇のチェストを背中に俺を呼んだ。カマン、カマン、と促されるまま近付いた俺に絆創膏が届いた。


「注意していても……影絵制作は傷だらけになるものだからね。めげないように」


 処置してあげよう、とヒメは俺の手を掴んで絆創膏を貼り――。


「よいしょー!」


 グイ、とヒメに腕を掴まれた瞬間、彼女の横に引き倒された。ボフン、と毛布が揺れて、ギシィ! とベッドは怒りの声をあげたが、ヒメはクスクスと笑った。


「今日は……もうおしまい」


「いやいや……御代官様よ、御戯れを」


 こういうことは恋人同士がやる戯れだ。俺とヒメは付き合ってるわけじゃないんだから、手は握っても貞操は守るべきだ。だけど、


「…………」


 ヒメの目を見、動けなかったし、何も言えなかった。心臓は落ち着かないし、結ばれたまま解けない右手は震える。このまま顔を、唇を動かせば結ばれるほどに吐息は混ざり合い――。


「カー君」


 震える唇が歌ったあだ名が、俺の意識を現実に戻した。拒絶――じゃない勢いで俺は顔を離した。


「なっ……何?」


「私にとって……過去のカー君も茜もパンドラの匣から出た邪悪なモノ。それは私を現世に留めようとさせる危険な誘惑……君たちがいたら私は生きたいと願うようになる……。だけど、匣の中に残った希望は水晶症候群とガラスの駅と……カー君たちなの」


 生きたいと願わせるものは邪悪なモノ。最後に残った希望はヒメを死に誘ってくれるモノ、というわけだろう……。


「でも……ヒメに愛憎を抱かれるのは嫌だな……それも立ち直れない」


「あっ……違う、愛憎は違う……よ? カー君にも茜にも遠藤君にも愛はあっても憎はないんだから」


 不安そうな表情でヒメはかぶりをふった。わかってるから、と俺は昔から変わらない表情に笑みを渡した。


「……カー君はいつも私に愛をくれる、ね。あの時は生きるための愛……今は死ぬための愛……私にとっての希望はいつもカー君だ」


「希望……ヒメにとっての希望が俺なら、俺にとっての希望はヒメだよ」


 映画とか小説でしか見かけないような赤面台詞が飛び出るも、俺はそれから目をそらさない。


「……カー君、また訊くけどいい? 本当にガラスの駅があったとして……私が望む終わりがそこにあったとしたら……カー君はどうするの……?」


「一緒に終わる……」


「カー君には……未来があるよ? 遠藤君も……茜もいるよ?」


「桐谷さんがどうかはわからないけど、淳二は……俺が死んだら悲しいって言ってくれたし、ヒメの背中を押すのは自殺幇助なんじゃないか、高瀬舟なんじゃないか、とも話したよ」


「高瀬舟……か。でもカー君が喜助さんの立場になるなら……そもそも自殺したいと思わせる世の中そのものに罪があると思うけどな……」


「まぁ……そのことはいいよ。とにかく、淳二が言いたいのは、俺が死んであいつを泣かせたらそれは罪になるし、死にたいと願うヒメの背中を押すことも罪になるから止めろってことだろうな」


「やっぱり……カー君が私の背中を押したら自殺幇助になっちゃうか……」


「ガラスの駅が本当なら、ね。でも大丈夫……俺も一緒に逝くよ。淳二には悪いけど……さ」


 どう言われても、淳二に言われても、言わないだろうけど母さんに言われても、俺は人生観も死生観も変えるつもりはない。この命は俺だけのもの、この人生の行く先は俺だけが決めるんだから。


「そっか……じゃあ……またプロポーズして? あの時……握ってくれた手はもうガラスになっちゃったけど……まだこっちの手は握れるから……」


 貝のように結ばれた互いの手は解けない。もう二度と解けないように、俺は静かに口を開けて――。


「姫子! ここを開けなさい」


 引き戸が乱暴に唸った直後、戦慄の声が俺の耳を、全身を、脳みそを貫いた。二度と解けないようにした右手はバネみたいに弾け、俺は慌ててベッドから離れた。対してヒメの方は何も動じておらず、明確な舌打ちをした後に引き戸の細工を解いた。


「なに」


「何、じゃない。どうして引き戸に細工なんて――」


 ギロリ、とヒメの肩越しに俺を見たお父さんは、目付きを変えて病室に入って来た。


「また君か。姫子、ここは……男と逢引する場所じゃないんだぞ! 芸術家の真似事をする場所でもない! 病院の人が何も言わないから好きにやっていいわけじゃないんだ!」


「……新一さんには関係ないんですけど。私が死のうが、彼と心中しようが、自殺しようが……もうあなたには関係ないんですよ」


 お父さんを見るヒメの目はゾッとするほどに冷たい。心が何一つ込められていない、人工知能が吐き出す合成された音声の方が、よほど心が込められていると思うほどに……。


「無関係なわけないだろう! 看護師さんに聞いたぞ。消灯時間を過ぎてもその影絵を作ってるし、朝は起きないし……」


「関係ないって言ってるんですけど……」


「右腕はもう水晶で……時間だってないんだぞ……? どうしてまだ影絵にこだわる?」


「……じゃあ大人しく寝てろって? 何も出来ない新一さんと一緒に? あなたは私に何をしてくれるの……?」


「姫子……どうしてお前はお父さんに反発する? お前の存在がどれだけ……お父さんの中を、人生を、命を占めてると思う?」


「だからさ……お父さんが愛していたのは私のお母さんでしょう? あなたの人生の中に私なんて存在してない。それだのに私が陽炎みたいに揺らぐのは……ただの忘れ形見だから執着してるだけ。私の中に新一さんはいない……こうして死ぬことが約束されたのは新一さんにとっても喜ぶべきことなんですよ……お互いの新しい一歩になるんですから」


 冷たい声音のまま、ツカツカとお父さんを見上げたヒメは、


「帰って……私の中に新一さんはいない。帰って……帰れよ……!」


 吐き出された拒絶の言葉。お父さんは歪めた顔に躊躇いのような翳りを見せたが、いつかと同じように、肩を落として俺たちに背中を見せた。だけど、その背中を見送ったのは俺だけで、ヒメは振り返りもしないままベッドに戻ると――。


「ヒメ……!」


 置物みたいに彼女はベッドに倒れ込んだ。その様子はさっきみたいに俺を引っぱるためじゃなく、本当に、雪崩のように、頽れてしまった。


「ヒメ……?!」


「ん……ごめん……」


 謝る必要ないから、と俺はそっと彼女を横にした。葛城先生か、それともスタッフステーションにいる誰かを呼び出せばいいのか、そう訊いたけど、ヒメはかぶりをふった。


「ただのストレスだから……呼ばなくていい……」


「でも呼ばないと……」


 お願いだから、とヒメは俺の腕を掴んだ。その力は意外にも強くて、突き立てられる爪の痛みが俺に制止を促した。


「……わかったよ」


「……ありがとう」


 ヒメの手が解け、俺は見えないようにそっと背中で腕をさすった。


「……どうして、お父さんに冷たいの?」


「そもそも……お父さんじゃないから。ただの他人」


「ヒメ……さ、俺……お父さんのこと凄いなって思うんだ」


 その言葉に対してヒメの視線は鋭い――を通り越して睨んですらいる。


「だって……ヒメのお母さんとの子供はいらないって言ったんでしょ? それって……たぶん、男っていうか……オスとして凄いと思うんだ。オスの本能は子孫繁栄……結婚はともかく子供を欲しがるのはその本能があるから。だけど、その本能を無視して、自分の血を次の世代に繋げることを放棄してでも、ヒメのことを家族として受け入れたかったんじゃないかな……」


 理由も聞かずに決めつけたり、怒鳴ったりするのは止めた方が良いとは思うけど、あの人が怒るのは良くも悪くも全てヒメ絡みだ。前にも思ったが、本当にヒメのことを病ダレ、亡くなったヒメのお母さんの陽炎として見ているのなら、きっと……ああして拒絶された時に悲しい表情を浮かべることも、ああして入院生活のことを口に出すこともないだろう。


「まぁ……カー君の新一さんへの認識はどうでもいいよ。それより……今日はどうする?」


「おしまいってさっき言ったろ?」


 さすがに今日はもう影絵製作という雰囲気じゃない。ヒメの方も自分からおしまいと口にした以上、続ける気はないだろう。だから、今日は俺も帰ることにした。ヒメは止めなかった。


 迎える猛暑という大仕事に備え、七月だというのにやる気満々な太陽の下で、俺はドロリ、と滴る大汗と紫外線の強さに辟易しつつ階瞬駅の駅ビルに飛び込んだ。キン、としたエアコンの恩恵は瞬く間に大汗を退けてくれた。


 アイスでも買って少し休憩しよう、そう思ってエスカレーターに乗った時、ショルダーバッグの中にいるスマートフォンが揺れた。確認すると、


『活動日誌に載せていたカーのプラモデルについてコメントが来たぞ』


 それは淳二からのメール。コメントという文字に一瞬ビクリとしたが、そのコメントとやら嫌味とか嘲笑の類いならわざわざ報告なんてしてこないだろう。どんな内容か訊いてみた。すると、


『お前さんが作ったプラモに関心があって、ビデオチャットでやり取りしたいそうだ』


 怪しい。すぐには返信せず、地下の食品売り場にあるちょっとしたおやつ売り場(たこ焼きとかラーメンとかが食べられる場所)でアイスを頼み、学生たちが楽しげにしゃべっている席の一番反対側に腰を下ろした。


『何で話したがっているか? そこまでわからんよ。とにかく、話したいそうだ』


 鐘早にはプラモとかジオラマとかを正式に扱うホビー部がある。その実力は全国的にも名前があるそうだ。にも関わらず、部員でもない俺に接触してくるとは何か魂胆でもあるんだろう。


 怪しいから無理だよ、と返信すると、


『会ってくれるなら、そっちの知りたいことを教えてやる、だそうだ』


 その返信に思わず前屈みなった。


『ガラスの駅を知りたいんだろう? そこに関わっているであろう都市伝説のことを教えてやると言ったら? だそうだ』


 その返信はますます俺の不安を煽った。そもそも、その接触を求めている相手とやらはどうしてそこまで知っているんだろう。やっぱりネットって怖いんだ。


『どうする? 俺は勧めたくないが……ガラスの駅だそうだ』


 そう言われると弱いんだよ。もともと少ない情報だ。恵君以外からの情報も得ておいて損はないんだろうけど……。


 キャイ、キャイ、と楽しげな声をあげるどこかの学生たちを見ながら、俺はその返信に少しの時間と沈黙を置いた。

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