第3話 2

「あっ……来てくれたんだ」


 驚きました、俺を見たヒメの顔にはその二文字が浮かんでいた。それを見ると、俺の方が再会の幼なじみに対して馴れ馴れし過ぎるのかな、とか思ったけど、幼なじみにとっての試練である中学時代を抜けた今はもう別離もないだろう。


「約束だし、日曜日はお父さんのサプライズで満足に話せなかったしさ」


「そうだね。でも今日は大丈夫だよ。遅くまで仕事だから」


 しめしめ、かどうかはわからないけどヒメは嬉しそうだ。


 俺はソファーではなく、ベッドの横に畳まれていたパイプイスに腰を下ろした。


「えっと、日曜日は……ごめんね? 和也君が来るなんて思いもしてなかったから、どうすればいいのかわからなくて……」


「気にしてないよ。俺の方こそ緊張してたしさ」


 それでお父さん登場と来たから大変だった。


「そっか。ありがと。何だか……不思議な感じだね」


「何が?」


「今の状況。十歳の時に和也君が波邇夜から引っ越して……もう七年も経ったんだなって……今更実感した。水晶症候群ですよって言われた時よりも驚いたもん」


「それは……どう返すのが正解?」


「え? ああ、ごめんね。何か……自虐みたいだった? 大丈夫、死ぬことに関しては悲観してないし、むしろ喜んでるくらいだから心配しないで」


 そう言ってヒメは笑った、と思う。顔立ちはいくらか変わったけど、浮かべる可愛い笑みは変わっていない。あの時、俺の慰めをプロポーズみたいだと笑ってくれた時と同じだ。それに内心安堵しつつ、俺は死を恐れるどころか肯定する彼女の心意についてかぶりをふった。


「それ……日曜日も言ってたけど……水晶症候群が嬉しいのはどうして?」


「ん〜引かない?」


「ものによるかな」


「じゃあ秘密」


「いや、教えてよ。あの時みたいに」


 あの頃はヒメが秘密と口にするたびに、俺は彼女の目を見つめてこう言っていた。


「ほら、おヒメさま、教えてよ」


「それ……ずるい。覚えてたんだ」


「自転車と水泳みたいなものかな。教えて、ヒメ」


「……ん、強がりとか、そういうのじゃなくて……やっと死ねるんだなぁって思ったから」


「やっと……死ねる? 死ねるから水晶症候群が嬉しい?」


「そう。これ以上……生きている意味も、生きる意味もなくて面倒だから、渡りに船って感じかな」


「水晶症候群が渡り船……その発想はなかったな……」


「普通はなくていいんだと思うよ? 私が変わってるだけなんじゃないかな」


「他の患者さんはそんなことを?」


「思わない人は無差別殺人とかを起こすんだと思うよ? 私は別に世間に当たり散らすつもりはないけどね」


「……ヒメの考えはわかったけど、それとガラスの駅は何か関係があるの?」


「ガラスの駅は……私に残された最期の自由と希望なの。だから草結びしてほしかった」


「自由と希望……死ぬことが?」


「うん。和也君……これから言うことは私の個人的な考えであって、誰かに押し付けるつもりはないし、これが正しい死生観だ、とも思ってない。ただ、私の意思ってだけだから……影響されないでね?」


「わかった」


 そう約束させられたうえで、ヒメは悲壮感なくこう言った。


「私、生きているのが嫌なの」


 命ある者として、あまりにも異例で異例の宣言。


「もちろん、命は大事という意味はわかったうえでだよ? 今、ここで和也君が死んだら私は悲しいと思うし、世の中には理不尽で不当な死を突き付けられた人たちがいることもわかる。だけど、この世には終わらせてもいい命があって、生きるべき命もある。それに対して私の命は前者というだけ。生きたいと願う命は生きればいいし、死にたい命は終わらせるべき」


「……ヒメの命は終わらせていい命なの?」


「うん。私にはこの世を生きる意味もないし、血反吐を吐いてでも生きたい世界でもない。それに……病院に何度も缶詰したから、長生きと生きることの無意味さと地獄を何度も見て来た。水晶症候群にならなければ……私もその地獄に入って、死なせてもらえない苦痛を永遠に与えられ続けただろうね」


 その言葉で思い浮かんだのはヒメのお父さんだ。


「生んでくれと頼んだわけじゃない、とは言わないけど、この命も人生も私のもの。相手が家族であっても、この命の生殺与奪は私にある。例えそれが誰かを哭かせることになったとしても、ね。そもそも長生きを望んでるのは搾取したい国の連中と暇な金持ちとおめでたい連中だけだよ。この身体は老いるし、いずれこの頭も知恵の実を捨てて畜生以下になる。それだのに私の意思を無視して生かそうとするなんて……畜生以下の私を見ていたいのかな? 私はそんな状態になっている私を見ていたくないし、介入出来るなら即座に私は私を殺すよ」


「それは……うん、そうだと思う」


 俺は頷いた。だけど、それはヒメの命が終わってもいい命だということを肯定してわけじゃない。だから、


「長生きと生きることの地獄……それは納得出来る。生まれて来ることも、この社会で生きることも、俺たちは望んだわけじゃない。一方的に押し付けられて従属を強いられてるだけというのもわかるよ。本人の意思に関わらず延命させる地獄、知恵の実を捨ててただ生きているだけの無意味な地獄も……痛いほどわかる。死ぬのが当たり前なんだから、自分の人生に満足したなら死なせてほしいんだ」


「そう、その通り! それだのに世間は『生きる』って言葉だけを美化して、生きることの地獄と苦痛に蓋をして見ないふりだもん。どうせ……私が言ったことも全て否定されるんだろうね」


「生きることから逃げずに戦えって?」


「そもそも何と勝負してるのって話だよね」


「そうだね。だけど……死にたくても死ねないのが現実じゃない? 自殺は苦しいよ?」


「そうなの、そこが厄介なんだよね。私だって痛いのも苦しいのも嫌だもん。飛び降りても失敗すれば苦痛、首縊りは苦しいし汚い、水死はもっと汚い、焼死も拳銃も論外……お酒を飲んで凍死も考えたけど、雪山の奥深くまで行かないと見つかっちゃって迷惑料なんだよね」


「この間の水晶症候群の人もどうしてあんなことをしたんだか……」


 ニュースを確認していないから詳しいことはわからないが、確か年齢は十八歳で家族には妹と弟もいたと小耳に挟んだ。あんなことをすれば遺族が損害賠償にも苦しむし、水晶症候群の人たちへの憎悪を掻き立てる。そんなことをしなくても、死を約束されていたはずなのに。しかも、最期の粉々に苦痛はないらしい。


「きっと……それだけ苦しんだんだよ。自分の力で人生は切り開くものだとは思うけど、自分だけの力じゃ切り開けないこともあるし、人は一人じゃ生きられないものだって嘯いていても世間は一人で生きるもんだって助けようともしないし、家族がいたって手を貸してくれる家族ばかりじゃない。当たり前だけど自殺には複雑な背景があるし、人を助けることって簡単じゃないんだよ」


 自殺のニュースが流れるたびに世間では『助けられなかったのか』と叫ぶが、現実問題としてその叫んでいる連中は何かしたんだろうか。人を助けることは簡単なことなんだろうか。踏切で立ち尽くす人を助けたとしても、それは身体的に助けただけで精神面を助けたわけじゃないんだ。その後、また踏切に立ち尽くすかもしれない。


「それと、確証はないけどもう一つの推測としては……今の私と同じかもしれない」


「共感って言ってたっけ」


「うん。水晶症候群を初めて知った時は素敵な死の切符だなぁ、なんて思っていたけど、いざこうして宣告されると……自分の命なんだから、死期は自分で決めてやる! そういう気持ちが出て来るんだよね。あの人もきっとそうだったんだと思う。やり方が不味かったとは思うけど」


「…………」


「その気持ちを抱いた時に、どうにか出来ないかなって足掻いていたら……ガラスの駅を知ったんだ。その駅には〝黄泉行きの電車〟があるらしいの」


「黄泉行きの電車……」


「あっ、内心で莫迦にしたでしょ?」


「してないよ。ただ……死ぬための草結びをしてほしいって依頼だったわけだ」


「そういうこと。自殺幇助になる?」


「なると思う。死ぬ手伝いをするわけだからさ」


 とはいえ、法律に詳しいわけじゃない。法律に対するイメージは、御上が好き勝手に自分たちに都合の良いものを作っている、というものだ。


「凄いな……死ぬための草結びか」


「しかも水晶症候群で粉々になる前に見つけないといけない時間制限付き」


「草結放送部が関わっていいことなのかな……いや、というか……」


 前例はあるだろうか。自らに残された最期の自由のため、死ぬために、都市伝説の駅を求めるなんてこと……。


「えっと……あのさ、これって何? 絵でも描いてるの?」


 笑顔の死と重たさに、俺は露骨に話題を変えた。パイプイスを置いて、俺はソファーと背の低いテーブルを占領している画材道具らしきものを見た。


「ああ、それは影絵を作るための道具だよ」


 露骨な逃げに対して、幸いにもヒメは怒らなかった。


「影絵? 影絵なんて好きだったっけ?」


「和也君が引っ越してから始めたの。一応は趣味かな」


 捲ってもいいよ、と手振りで示された俺は、布を被っている二つのイーゼルを露にした。


「奥のは天照大御神、手前のは月読命がモチーフなんだ」


 その言葉通り、奥の影絵は虹色に輝く旭日を中心に右には巫女装束の女神、左にはホルスのような目が浮かんでいる。手前の影絵は蒼の三日月を中心に夜の背景を背負った神官装束の男神が左、ホルスの目が右に浮かんでいる。どういうふうに作ったのかはわからないが、素人が一目見て感嘆するレベルだ。


「凄い……いつの間に手に職を?」


「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいな。その神様たちも嬉しいだろうしね」


「これ……入院している時に?」


「ううん。家だったり学校だったり場所は色々。時間が出来たらコツコツって感じで付き合って来たけど……もう処分だね」


「それは……」


「心血を捧げたコレクションも、情熱を捧げたことも、いつか全てを手放す時が来る。そのことを思うと虚しくなる……結局は無意味なんだよね」


「でも……そう思っていたら何も楽しくないと思うけどな」


「そうなんだよね。人生って虚しいなぁ……生きる意味のない人には無意味ばかりなのに、死なせてくれないんだから。ガラスの駅が実在するなら……きっとみんな喜ぶと思うけど」


 その言葉に対し、俺はキャンバスへ手を置いた。


「ねぇ、和也君は……協力してくれる? 私を死なせてくれる?」

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