第2話 2

水晶症候群――別名はクリスタル・シンドローム。日本国内で初めて確認された日付とかどうしてこんな奇病が発生したのか、その辺の事情を俺たち一般人は知らない。日本における製薬業と医療の全てを支配する〝橘製薬たちばなせいやく〟によって正式に公表されたのが一九九七年で、二0一八年の今でも治療法が確立していない奇病にして難病だ。その症状は千差万別らしいけど、振り付けでもされたのかと思うほどに統一されたことがある。それは発症が確認された時点で約束される命の終わりと――身体が水晶化することだ。四肢から始まり胴体へ向かい、やがて頭までも水晶化し、最期は全身が粉々に砕けてしまう。ゲームとかアニメみたいな症状だけど、水晶化の兆しは死神の無慈悲な鎌でもある。


 そんな死神の鎌を突き付けられている灰原姫子に、俺は色紙を口実に会うことになっている。とはいえ、二年A組の担任が連絡してあるのかどうかはわからないから、場合によってはアポなしのお見舞いという至極迷惑な行為にもなる。


「それじゃあ灰原さんによろしくな」


 初対面の女子と何を話したらいいのかわからないからな、と淳二は言った。それに関しては俺も同じだけど、あの時の姫子――ヒメだったとしたら会ってみたいし、この無意味な人生で水晶症候群の人と関わることなんてあるかないかだ。


 日曜日の穏やかな落窪を後にし、俺は波邇夜市の中心街である金山区かねやまくへ向かった。


 人が住んでいるのかいないのかわからない建物は金山に近付くごとに少なくなり、外を歩く人も車の姿も次第に多くなる。都会慣れしている人は地方特有の静寂に思わず不安を感じてしまうが、一年も住めば慣れてしまう。むしろ、今度は人混みと騒がしさに眉を顰めるようになる。


 都会でも見かけるチェーン店、ファッションブランド、家具の城、憧れの都会を丸ごと提供してくれるショッピングモールを中心に高層マンションまで姿を見せている金山区に、波邇夜市で唯一の駅――波邇夜駅がある。


 金山区の人口増加に伴い、一昨年に全面的に改装されたらしく、広々とした構内はまだ綺麗で、デパ地下みたいに飲食店が並び、かつて波邇夜山で採掘された鉱石たちが飾られているスペースまである。


 誰も立ち止まらない水晶たちの横を抜けた俺は、都会とそう変わらない間隔でやって来る電車の先頭車両に乗った。目指すのは件の灰原姫子女史が入院している隣町の隣町である階瞬市の階瞬病院だ。


 ガタン、と動き出した電車の車窓が捉えるのは、穏やかな日曜日を告げる紺碧と高層ビルが照らす太陽の帳だ。その眩しさに顔を逸らした俺は、小さな男の子がお母さんに抱っこされながらかじりついている運転席を見た。


『次は〜階瞬駅〜階瞬駅〜』


 一切の交流なんてない未知の領域に踏み込んだ俺は、階瞬市の全貌を求めて運転席の遥かを見た。その時、


「キラキラ〜」


 男の子がそう言った。何を見てそう言ったのか、俺は答えを求めて目を凝らし――その瞬間、スローモーションのようになった視界の中で、線路に入り込んで来たキラキラの人影を見た。ブレーキは間に合わない。車輪と乗客の悲鳴を連れて電車はその人影に飛び込み――ガゴン、という鈍いうめき声に続いて運転席の窓に輝く砂塵のようなものが見えた。


 電車の悲鳴が弱まり、その代わりに車内では戦慄があちこちで噴火し、露にされていた運転席は即座に見えなくなり、


『……お客様にお知らせします。ただいま人身事故が発生し、車両を緊急停車させました』


 その連絡から二時間後、ようやく俺たちは解放された。お見舞いの時間を約束していたわけじゃないし、お昼前に落窪を出ていたのが幸いした。


 空かないお腹と上がらない気持ちを連れて波邇夜駅を後にしていた俺は、十三時過ぎになってようやく階瞬病院に辿り着いた。


 波邇夜市にも大きな病院はある。だけど、建物の古さに加えて愛想の悪さも相まってお化け屋敷のようになっているから、地元の人たちは電車が面倒でも階瞬病院にまで通っている人が多いらしい。


 そんなお化け屋敷とは違って、階瞬病院は外見からして綺麗だった。白一色の外見に並ぶ窓の多さ、大きな入り口を行き交うたくさんの患者、病院前にあるオサレな喫茶店や百貨店のような買い物場所まである。


 広い受付でお見舞いのことを告げ、それを証明する面会許可証をもらってから、俺は灰原女史が入院している個室806号室へ向かった。白の廊下、清潔感のあるエレベーター、スタッフステーション、そのどこにも不潔感はなく、素敵な病院であることは間違いないんだろうけど、


「だから……ワシはあんな不味いメシなんて食べないんだ!」


「看護婦のくせに……女のくせにワシに指図するのか!」


「そんな説明で納得出来るか! 上の奴を出せ!」


「私を誰だと思ってるのぉ? 患者様よぉ?!」


 これは灰原女史がいる806号室に辿り着くまでに聞こえて来た所謂ペイシェントハラスメントというやつだ。二十も過ぎて赤ちゃん以下の莫迦がいるように、莫迦は何歳になっても莫迦なままだ。これは死んでも治らないだろう。


「……見捨てて良い命はあるんだよ」


 思わず吐き捨てた本音。きっと命至上主義者とかは怒るんだろうけど、かといって彼らがその命の面倒を見るわけでもない。


 立場を勘違いしている迷惑患者たちのことを頭から振り払い、806号室の灰原というプレートを確認し、木目の綺麗な引き戸をノックした。


「……どうぞ」


 聞いただけでわかる。灰原女史は某の来訪を歓迎していない。それでも追い返すようなことはしないだろう、と俺は微かな間を取って引き戸を開けた。


 どんな人が待ち構えているんだろう。そう身構えていたが、引き戸の先では予想に反して灰原女史の姿が見えなかった。見えたのは奥にあるベッドの下半分と大きな窓、画材道具のようなものが積み重なったソファーセットだ。立ち尽くす俺の横には別の引き戸があて、トイレか風呂があるのかもしれない。ずいぶんな個室だ。


「……どちら様?」


 苛立ちを含んだ呼びかけに俺は早足でL字の奥へ向かい――上半身を起こしたまま両目を細めていた灰原姫子と目が合った。


『いじめられてるなら……俺が守ってあげる』


 目と目が触れた瞬間に、プロポーズだと称されたその言葉が全身を貫いた。一昨日、昨日、今日、たった今、そう告げたような感覚が目の前を黄昏に変えた。眩しい、と両目を遮りそうになる脳と手を無理矢理抑え込んだ。


「えっと……カーって言えば……思い出せる?」


「カー?」


 灰原女史は俺の言葉に考えるような素振りをして――伏し目がちだけど、本当は違う目を大きくさせた。


「カー君……猪瀬和也いのせかずや君?」


「そう。今は榊原だけどね」


 カー君、確かめるようにもう一度俺の名前を呼んだヒメがベッドからそろりと出ようとしたため、俺はそれを急いで止めた。


 水晶症候群の始まりは急激な体力の低下だ。人によってばらつきはあるみたいだが、立てなくなる人も動き回れる程度の体力がある人もいる。だけど、その低下が止まることはない。


「大丈夫……まだ立てるから」


 そう言ったヒメはベッドからやおら出ると、俺に向かって一歩、一歩、と近付いた。


「カー君――和也君は……どうしてここに来たの……?」


「鐘早の生徒だから。ほら、これ」


 俺はショルダーバッグから件の色紙を取り出した。渡したくない気持ちもあるが、ちゃんとヒメに手渡した。


「A組の寄せ書き……和也君は、クラス違うよね……?」


「もしかして灰原さんって神谷姫子のことなんじゃないかと思って、さ。色々と暗躍したんだ」



「そう……なんだ」


 そう言ったヒメは色紙をベッド横のチェストに置くと、また静かにベッドへ戻った。


「えっと……和也君、久しぶり、だね」


「うん。名前……変わったんだ」


「一昨年……お母さんが再婚したから。和也君は……?」


「母親が離婚したからだけど……あの頃みたいにカーでいいよ。ヒメに和也って言われると……何と言うか……」


「でも……ほら、あの頃とはお互い……違う……じゃん?」


「あっ……そう……か」


 目の前にいるのは、七歳の時のヒメじゃない。それを改めて突き付けられたような気がして、俺は今の灰原姫子を見た。


 端整かそうじゃないかと言えば端整の部類に入る彼女の顔立ちにあまり変化はないが、雰囲気が大きく変わったと思う。あの頃から病弱で華奢ではあったけど、今は何だろう……壊れそうな綺麗さ、とでも言うんだろうか。遠くにいるような、手が届かないような、悲愴な美しさがある。それでも入院着の隙間から覗く胸元や四肢には健康さを告げる明るさはない。その四肢がいずれは水晶化して、ヒメは最期に粉々になる。


「水晶症候群……なんだよね」


「うん。はは……死を約束されちゃった」


 その小さな笑い、愛想笑いには思えなかった。本当に、心の底から笑っているようで、俺は思わずヒメの口元を凝視してしまった。


「あっ……違うよ? 自虐してるわけじゃないから……」


 顔に出ていたのか、俺の考えを肯定されてしまった。


「『灰原姫子さん、申し上げ難いのですが……水晶症候群です』そう宣告された時も笑ったし……悲観なんかしてないんだよね」


 悲観なんかしていない。その言葉に俺はさっきの人身事故を思い出した。二時間待たされていた間に、事故の内容はすっ飛んで来たマスコミによって即座にニュースになっていた。


『水晶症候群の女子中学生が自殺か!?』


 ということらしい。あの時、男の子が『キラキラ〜』と発言したのは水晶症候群の進行によって身体が水晶化していたのを見たのだろう。轢いた時に外が光ったのも水晶の欠片が日光で照らされたからだ。件の女子中学生は悲観していたんだろうか。


「あの子も悲観してたのかな……」


 思わず口にしてしまった。すると、


「……さっきの人身事故のこと?」


「テレパス?」


「違うよ。連想してみただけ」


 ヒメはそう言うとスマホのニュースを俺に見せた。


「悲観なのかどうかはわからないけど……少しだけ共感する、かな」


「共感?」


「避けられない死を待つよりも……自分自身の手で幕引きしたことに、かな」


「幕引き……いや、それ以前に電車へ飛び込むのは迷惑以外ないって……」


「それはそうだね。何か……綺麗じゃないよね」


「いや、綺麗って……ずいぶん変わったね。前は病弱でも……何て言うか……生きていたというか……」


「……人は変わるよ。和也君も変わったね。背が高くなったし、髭も伸びたけど……変わらないのはその綺麗な声、かな……?」


 そういえば、あの頃も綺麗な声だと言われた記憶がある。声変わりだってしたのに、美声だと言うんだから本当に綺麗な声なんだろうか。


「えっと……ありがとう」


「……そういえば、同じ鐘早の生徒なんだよね? どうしてこっちに来たの……?」


「母親に彼氏が出来て……いや、彼氏が出来たことは別にいいんだけど、そいつからの目が面倒でさ……」


 母親は俺が十三歳の頃に離婚した。その原因の一番の理由は、父親の母が認知症になったことだ。十歳の頃に父親の赴任が終わり、猪瀬家は東京の地元に戻ったが、その頃には母の認知症が酷くなり、俺の母親は仕事を辞めて在宅看護を始めた。しかし、俺が十二歳になった時には奇行と暴言と徘徊が酷くなり、母親は介護の限界を感じて施設を口にした。しかし、父親もその妹も母親を無責任だとして一方的に責めた。その一年後、母親は俺を連れて離婚した。その後、俺が十五歳になった時に新しい彼氏が出来た。


「朝から夜までパチンコ漬けの彼氏なんて冗談じゃないし、それが父親になるなんてこっちから願い下げだからさ……寮付きの高校を探して、鐘早を選んだんだ」


「そうなんだ。そうだよね、まったく知らない場所に行くよりは少しでも土地勘がある方がいいよね……」


「うん。ヒメの症候群は……どんな感じ?」


「どんな感じ……まだ初期症状だから体力の低下と倦怠感、かな。でも悲観はしてないよ? むしろ……遅いなぁ……って感じかな。だから、別にこんな寄せ書きなんてしなくても良かったのにね。私が悲観してるみたいじゃん」


 ヒメはもう一度色紙を手に取った。


「この中で知ってるのは……遠藤淳二って人かな」


「あれ? 淳二の方は知らないって言ってたけど」


「私のことはともかく、あんな昭和のサングラスをしてたら誰だって知るよ」


「ああ、そういうこと」


「和也君……学校は楽しい?」


「まぁ……一応は」


 苛められているわけでも避けられているわけでもない。それはきっと学校という狭い世界では幸せで、楽しいの部類に入るんだろう。とはいえ、避けられる奴は性格面での問題が多い。一概に被害者というわけじゃないとは思う。


「そっか、良かったね」


「ヒメは?」


「ん〜ん、友達がたくさんいるわけでもないし、勉強とか部活動が楽しいわけでもないからさ。和也君は部活動とか入ってるの?」


「淳二がいる草結放送部のボランティアをしてるよ。メインのラジオパーソナリティなんてやってるんだから少しは給料が出てもいいとは思うけどさ」


 そこまで言って、俺はここに来た理由のもう一つ目を口にした。


「ガラスの駅と……草結びを求めてたのって……ヒメだろ?」


「えっ……今更? それを頼んだのって去年の話だよ?」


 俺は封筒の件を説明した。淳二が拒否したことは言わず、俺が見つけて興味を持った矢先に色紙の件が来たとも説明した。


「そっか、埋もれちゃってたんだ。てっきり……くだらないって破棄されたと思ってたよ」


「それを二日前の金曜日に見つけたんだ。少しだけ齧ったけど……何であれと草結びを?」


「……秘密、かな。和也君が草結びしてくれるなら……教えるよ」


 あの時とは違うと言いつつ、秘密、というのはヒメの口癖の一つだった。だから、俺はあの時のヒメが呼吸器系の疾患を抱えていることしか知らなかったし、泣いていた理由も病弱を理由に阿呆から苛められていたということを第三者から知らされて初めて知ったほどだ。


「おいおい、都市伝説とヒメを草結びするなんて無理だよ。トイレの花子さんに会わせてくれって言ってるようなもんだよ」


 そう言ってかぶりをふったが、俺を見据えるヒメの目に冗談を告げる緩みはなくて、些か気分を害したような口調でこう言った。


「私にとってガラスの駅は……〝最期の希望で最期の自由〟……満足に動けるのなら、自分で探してる、よ」


「最期の希望で最期の自由……?」


 謎掛けなのか、言葉遊びなのか、それとも俺の理解力が欠落しているのか、答えがわからないまま視線を彷徨わせた時、入り口の引き戸が勢いよく開いた。看護師さんか医者か、反射的に振り返った俺の視界に姿を見せたのは、鍛えられた立派な体躯と鋭い眼光を持つ大人の男だ。年の頃は四十か五十ほどだろうか。


「誰だ君は。姫子、説明しなさい」


 カツカツ、と病室の奥に来たその人は俺を一睨みしてからヒメを見た。その口ぶりで正体はわかった。


「あの、俺は姫子さんと同じ高校に通う――」


「君には訊いていない。姫子、説明しなさい」


 けんもほろろ。ヒメのお父さんは俺のことを一瞥すらしない。


「同じ学年の猪瀬――榊原和也君。新一しんいちさんは知らないよ」


 新一……新しいお父さんの名前は灰原新一か……。


「同じ学年……君は姫子がどういう病気か知っているのか」


「はい、知っています」


「好奇心か、それとも水晶症候群の患者を嗤いに来たのか」


 グワン、とお父さんは俺の目の前に巨体を押し付けて来た。その塗り壁みたいな圧力に俺は後退りしつつも、一つの盛大な勘違いを訂正する。


「あの、新一さん、俺は別に姫子さんのことを嗤いに来たわけじゃない。そこは勘違いしないでいただきたいです」


 怯みを隠すために堂々と主張してみせた。この状況で曖昧な答えは逆効果だ。


「ふん。口なら何とでも言える。姫子、病室の……しかも個室に男を入れるなんてどういうつもりだ」


「もう通わない鐘早から寄せ書きを届けてくれたの。追い返せって言うの?」


「……そうか。榊原……君といったか。知っているなら話は早い。水晶症候群の患者への不当な扱いをする輩がいることは理解しているだろう。この態度はそれに対する答えだと察してもらえると助かる」


 俺を見下ろす目には明確な敵意がある。長居せずに帰れ、ということなんだろう。


「新一さん、私が誰と友達になろうと……あなたにはもう関係ないでしょう? 用がないなら帰ってください。和也君とはまだ話すことがあります」


 ヒメはそう言うが、さすがに父親を帰らせて二人きりというわけにはいかない。付き合っているわけじゃないけど、この試練の後はとてつもなく気まずくなるだけだ。


「えっと……今日は帰ります。とりあえず……渡さなきゃいけないものは渡せましたから」


「そうしてくれ。君が話のわかる高校生で良かったよ」


 見下ろされたまま俺は病室を出ようとした。すると、


「和也君、これ、忘れ物だよ」


 そう言ってヒメが差し出したのは、さっきまで読んでいたと思われる文庫本だ。もちろん俺の物じゃないけど、


「あっ……ああ、ありがとう。忘れるところだった」


 文庫本を受け取り、俺はヒメとお父さんに会釈してから病室を後にした。文庫本を広げられる場所を探して病院内をうろつくが、トイレはさすがに嫌だし、食事が出来る場所とも思ったが、お父さんに目撃された場合は面倒な気がした。外に出てもいいけど、回れ右という指示が来た場合は厄介だった。そんなこんなで蝙蝠みたいな状態が続いていた時、


「おい! 水晶の奴らがいるなんて聞いてないぞ! さっさと追い出さんか!」


 白の廊下に相応しくない嗄れた大声が聞こえて来た。その声がした方を見ると、案の定、入院着の年寄りが医者に絡んでいた。


「あいつらは殺人鬼だ! 善良な市民を殺す悪魔のような奴らだ! あんな奴らと一緒の病院なんてふざけるんじゃないぞ!」


 歯磨きなんてしていなさそうな口を開けて唾を撒き散らしている年寄りだが、絡まれている医者の方は寝癖の頭を掻きながら曖昧な返事で頷いている。


「聞いてるのか! お前みたいに患者を敬えないような医者がいるからワシらのようなか弱い老人が苦労するんだ! 水症の連中を追い出せ! ワシが感染したらどう責任取るつもりだ!」


「水晶症候群は感染しませんよ。あれが空気感染、接触感染するなら今頃は日本中が水晶化していますし、おじいさんがこうして唾を吐き出している時点で僕も感染していますよ」


 寝癖の医者の方は年寄りの暴言をまるで意に介していないようだ。


「ああ、それと……水晶症候群の患者さんに対してろくでもない噂を吹聴するようなことは止めた方がいいですよ? 橘製薬は全ての患者さんの味方ですが……あなたのように他者を誹謗中傷するような方々を患者さんとは見なしませんし、おいたが過ぎると〝TSS〟か警察が動きますからね?」


 TSSと警察という言葉が出た瞬間、寝癖の医者に絡んでいた年寄りは後退りした。


 それもそのはず、TSSというのは橘製薬の保安警察だ。アメリカですか、と間違えるほどの重武装でヘリコプターとか戦闘機とかまで保有しているという噂があるし、寝癖の医者が言っていたように目をつけられたら何をされるかわからない。お小遣い稼ぎしか興味のない年寄りだらけの政府に代わって日本を導いている大友財閥と双璧をなす橘製薬だからこそ許される特権らしい。


「それとも、おじいさんは水晶症候群の患者さんから何かされましたか? この健全者め、と殴られたり暴言をぶつけられたりしたのなら考えますけどね。どうですか?」


 寝癖の医者はズイ、と顔を近付けた。脅しも混ぜた諭しに年寄りは「ふん!」と鼻息だけを置いて逃げ出した。


「まったく……いつからこの国は年寄りの託児所になったんだろうね」


 やれやれとかぶりをふった独り言に対し、俺は自然な感じで横に並んだ。


「あの、水晶症候群に関わっているお医者さんですか?」


「うん? 君は誰かな?」


 案の定というか当然というか、寝癖の医者は頼りなさそうな顔に怪訝を浮かべた。


「友達が水晶症候群で……お尋ねしたいことがあるんです」


「ああ、そういうことか。えっと、君のお友達というのは誰かな?」


「灰原姫子です。806号室の」


「姫ちゃんのお友達……男の子の友達は初めて聞いたな」


 ずいぶんと慎重だが、それは仕方のないことだろう。


 水晶症候群に関しては情報も治療も診断も橘製薬が全てを掌握している。そのためヒメも含めた患者の担当は橘製薬に属する医者しか関われないし、一般人には開示されていない秘密の情報もたくさんあるらしい。


 そんな状態だから、ここで関係者に会えたのはまさに天佑神助である。取り逃すわけにはいかない。


「幼なじみなんです。ほら、これを」


 俺は取り出した文庫本を開き、中に挟まれていたメモの切れ端を見せた。まだ読んでいないけど、変なことは書いていないはずだ。


「……確かに、このメモは姫ちゃんの筆跡だね。いいよ、信じてあげよう」


 何が訊きたいのかな、ミスター? と寝癖の医者は切れ端を俺に返しつつ言った。


「えっと、水晶症候群って……本当に治らないんですか?」


 明白の質問に対して寝癖の医者――胸元の簡素なネームプレートには葛城かつらぎとあった。その葛城さんは嗤わなかった。


「治らないよ。こればかりは死者を生き返らせてほしいと言っているようなものなんだよ」


「じゃあ……進行を遅らせることは出来ないんですか?」


「それも出来ない。公表されている通り、進行速度を知るのは神様だけだよ」


「発症しやすい人とかは……」


「本当に無差別なんだよ。本格的に増加した時に調べたそうだけどね」


 葛城さんは俺の質問を淡々と切り返す。大きな眼鏡の下にある顔立ちは優しそうだが、答えに澱みはない。


「君は……姫ちゃんに生きていてほしいのかな?」


「……わかりません」


「そうか。君はまだ……高校生かな? その年齢で死について考えるのは少しだけ早過ぎる気もするけど、人は死ぬんだよ」


「それは……」


「当たり前だろう? だけど、それは当たり前であって……当たり前じゃないんだよ。君も頭では当たり前だと理解していても、こうして当たり前じゃない答えを求めている」


「…………」


「他に何か訊きたいことはあるかな?」


「先生は……水晶症候群って何だと思いますか?」


「そうだなぁ……僕にとって……〝救い〟かな?」


「救い……ですか?」


 そう聞き返した時、葛城さんの右腕に巻かれたリストタグが音を立てた。


「ごめん、話はここまでね」


 それじゃあ、と葛城先生は白衣を翻して廊下を駆けて行った。ポツネン、と取り残された俺の横を患者が抜けて行く。


「救い……か」


 患者を救うべき立場にある人の発言とは思えない気がする。橘製薬そのものがお手上げなのか、それとも下手な希望を抱かせないための悲痛な発言なのか、それを知っているのは葛城さんだけだ。


 満足出来るやり取りじゃなかった。だけど、橘製薬の葛城という医者のことは知れた。またここに来れば会えるかもしれない。


 そう頷いた俺は、一瞬忘れそうになった切れ端のことを思い出して、仕方なくトイレに籠って確認してみた。そこに書かれていたのは、


『また来てほしい』


 それだけだった。

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