第2話 水晶一会

『何で泣いてんの?』


 その理由を教えてくれない。


『泣いてちゃわかんないよ』


 教えてくれないことへの苛立ち、泣いている女の子を見ていたくない気持ち、自分も泣き出してしまいそうになる気持ちに抗いながら、


『いじめられてるなら……俺が守ってあげる』


 そう言った時、彼女は初めて俺のことを見てくれた。小学生だったけど、彼女はプロポーズみたいだと言って笑顔になってくれた。そんな彼女と一緒にいたのは七歳から十歳までの間だけど、楽しかったことを今でも覚えている。まだ波邇夜に住んでいるんだろうか。


 そんな過去の出来事を不意に思い出したのは、あまり興味のない古典の授業だった。


「しかしあれだな、先生としては森鴎外の『高瀬舟』がお気に入りだな。読んだことある人は何人?」


 今は仙人みたいな白髭に包まれた西安にしやす先生の古典授業なんだけど、俺は元々古典には興味ないし、西安先生自身も授業から脱線することが多い。ちらりと聞いた話題も古典の授業に関係なかった。


「先生としては……あれも仕方ないと思うんだよ。死なせてもらえる幸せ、死なせる幸せ、それはあると思うんだよなぁ……」


 高瀬舟については何も知らないけど、授業を脱線させてまで口にするんだから良い作品なんだろう。どれだけの生徒が真面目に聞いているかわからないけど、淳二とかに訊いたら知っているんだろうか。


 そんなことを考えている間に、脱線した授業は終わりを迎えた。最後の眠たい授業が終わったことで得られた開放感の所為か、クラス内は授業が終わってもやや落ち着きがなく、担任の市ヶ谷いちがや先生が二回、三回とHR開始の声をあげなくてはいけなかった。


「まったく……十七歳にもなって声をかけないと静かになれないか? HRを始めるぞ」


 落ち着きのない十七歳児たちを叱りながら、市ヶ谷先生は教壇に立った。持って来たプリントを配り、一日のことを振り返る。特筆するべきことでもないプチ連絡がいくつかあり、HRも終わりに近付いた時、


「それと……どうせすぐに噂は広がるだろうから言っておく」


 コンコン、と教卓をノックした市ヶ谷先生は、ハキハキした声を一度落とすと、静かに口を開いた。


「二年A組の灰原姫子が病気を理由に退学することになった」


 ひめこ……?


 俺が反応したのはその聞き覚えのある名前だが、静まり返ったクラスが気にしたのは別なんだろう。その証拠に、


「その病気は……〝水晶症候群すいしょうしょうこうぐん〟だ」


 水晶症候群。クラス中はあっさりと沈黙を破った。四方八方に視界とざわめきは飛び、


「水晶だってさ……」


「そもそも灰原って誰?」


「一年の時に同じだったけど、確か出席日数ギリギリだったよ?」


「可哀相だけど、長くないな」


 好き勝手なざわめきの中、心ない言葉の極みが出た。


「無差別殺人とかしないといいけどな……」


 その言葉が出た瞬間、市ヶ谷先生はまた教卓を叩いた。その音は激しく、ざわめきが一瞬にして過去になった。


「いただけない言葉が出たな。水晶症候群は不治の病……一方的に寿命を突き付けられたら錯乱することはあるだろう。実際に無差別殺人を起こしている患者はいるが……軽率な言葉は慎むように!」


 市ヶ谷先生が怒るのも無理はないが、クラスに訪れた沈黙は反省ではなく、暗黙の了解に近いのかもしれない。発言した某もこうなることはわかっていただろうに。


「いいか、水晶症候群の人が全員……無差別殺人を起こすような人たちじゃないからな。人様の前でそういった差別的な発言は控えろ」


 念を押した市ヶ谷先生はHRの終わりを告げた。小林の号令で土曜日の授業は終わり、嫌な沈黙を連れて、クラスメイトたちはぞろぞろと教室を後にした。今日もその波には乗らず、落ち着いた頃を待つため文庫本を片手にした時、二人の女子が声をかけて来た。


「カズヤー、今日は草結のボランティア日じゃないでしょ?」


「カラオケ行かない? 信吾しんご加山かやまも来るんだけどー」


 二人はクラスメイトの中山なかやま田中たなかだ。中山の方は一年の頃から同じクラスで、カラオケ好きかつ歌唱部だからか、歌がとにかく上手い。その実力は動画サイトの登録者数が物語っている。


 そんな彼女と田中が誘ったメンバーは知っているから、それなりに楽しいとは思うけど、


「ごめん。今日は寮に帰ってやりたいことがあるからさ」

「そっかー、それじゃあ仕方ないか」


 ノリが悪いなぁ、とは言わず、二人とも素直に諦めてくれた。


 その背中に手を振った俺は、学生鞄を連れて教室から出た――直後、引き戸の横に立つ淳二と出会した。


「……何だよ。何でそんな所に突っ立ってんだよ」


「お前が女子と話していたから気を遣ったんだ」


「用があるなら普通に顔を出せよ……。それで?」


 驚かされることとサプライズは好きじゃない。中学の時、優しいクラスメイトが俺の誕生日を祝ってファミレスパーティを開催してくれたことがある。その優しさには素直に感謝したけど、如何せん人目もあるし、俺自身が忘れていた誕生日を不意に思い出させるサプライズには少しだけ辟易もあった。


「ああ、明日のゲーム集会の約束だけど、ちょっとした用事が出来た」


「用事? まぁ寮内で遊ぶから終わってからでもいいと思うけどさ」


 ふむむ、と頭を掻いている淳二は色紙のような物を持っている。何を持っているのかと尋ねると、彼はそっと色紙の全貌を見せてくれた。おかけで漢字での名前がわかった。


「そうか、灰原って人と同じクラスだっけ?」


「とはいえ……灰原さんとは交流なんてないんだけどな」


 色紙に書かれているのは、お別れの言葉――というよりも、『早く元気になってくださいね』とか『また登校出来るようになるといいですね』とか、事務的な感じの言葉ばかり。クラスの誰かが言っていたけど、ほんとに出席日数ギリギリだったみたいだ。去年の生活で一度も見たことないかもしれない。


「この灰原さんってどんな人?」


「どんな人って……だから、俺も交流ないんだよ」


「それだのに色紙を? 罰ゲーム?」


「ある意味で罰ゲームかもな。クラス全員で書いた色紙を灰原さんに届けることになった」


「ふぅん? 灰原……姫子さんね」


「何だ? 知ってるのか?」


「六から十までここに住んでた時、同じ漢字を使ってた女友達がいたんだよ。名字が違うけどね」


「その時の友達かもしれないぞ? 興味があるなら任せた」


 グイ、と色紙を押し付ける淳二。


「いやいや……何で他のクラスの見知らぬ男子が色紙を届けるのよ」


「オネェになってるぞ。見知らぬじゃないんだろ? もしかしたらその某姫子さんかもしれない」


「もう七年も会ってないのにぃ? 気持ち悪いってどん引きされるのがオチだろ」


 お前の仕事だろ、と色紙を押し返したが、そこに描かれているクリスタルのイラスト(不謹慎かどうかはともかく)を見――。


「……そうだ、水晶症候群は感染するようなやつじゃないよな? 空気感染も接触感染もないって証明されてたよな?」


「薮から棒に……そうじゃなかったら色紙なんて持って行けないだろ」


「そうだよな。じゃあ……その色紙は俺が渡すよ」


「灰原さんに会いたくなったか?」


「そういうことかな」


 本当は違う。興味があるのは水晶症候群の方だ。


 淳二から色紙をもらい、そこに書かれた灰原姫子という名前を見つめる。


 本当にこの灰原姫子が、あの時、プロポーズした神谷姫子かみやひめこなんだろうか。だとしたら、彼女の命はもう約束されている。会いに行った時、俺はどんな顔をして、どんなことを言うんだろう。


「カー?」


 覗き込んでいる淳二の表情なんて気にならないまま、俺の心は明日の病院に縫い付けられていた。

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