第4話 袖振り合うも多生の縁と電子の海

 夢を見た。


 夢の内容は、小さい時に嫌というほど見て来た光景のぶり返しだった。


『お母さん……おじいちゃんがまた下のトイレを壊したよ……』


 これは小学生時代の俺の言葉。痴呆症の祖父がまたやらかしたのだ。


『また!? これで何回目だと思って……!!』


 夫婦の寝室である二階の和室で映画を楽しんでいた母――猪瀬静子いのせしずこの姿は少しだけ若い。静子は俺の言葉に振り返ると、舌打ちを連れて立ち上がった。その表情は文字通り般若のようで、大股で廊下に出ると乱暴な足取りで一階に駆け下りた。ドスン、ドスン、と家中に響く巨人の足音はリビングに飛び込んだ。リビング――と言ったが、猪瀬家の一階にあるリビングは静子の父と母、俺の祖父母の自室に成り果てている。


『ちょっと! 何で爺のことを見てないの!?』


 静子の怒声はリビングを軽々と揺らしたが、当の祖父母はテレビの方を見ていて気付いてもいない――いや、気付いていても聞こえないフリをしていることが多い。自分たちが何かをやらかした場合は特にだ。


 自分が何をしているのか、自分の名前も孫の名前も言えない、口と尻から出るのは文句と罵声と糞尿、それら以外はとにかく健康だから、九十を過ぎても家の中を徘徊しては、洗われることのない手で家中を汚し、電化製品を壊し、蛇口は水を出しっ放し、電気は消さない、テレビもエアコンも点けっぱなしにしていく。この間もリビングにあるHDDが録画中なのにコンセントを抜いて疲弊に手を貸した。こんなことは日常茶飯事で、他にもトイレを何回も流す、浴槽で垢擦り、庭に出ては死んだ植物たちに執拗な水やりとバケツに溜め込んだ水でボウフラを養殖させ、ボケても外面だけは良いけど来訪者やケアの人たちが帰ると罵詈雑言……とにかく家の中を荒らすから、静子も夫の猪瀬剛いのせつよしもストレスばかり溜め込まされている。だけど、


『おじいちゃんは痴呆症なんだから仕方ないじゃない……! あんたたちが我慢すればいいだけでしょう……?!』


 祖母が祖父を執拗に庇う(旦那だから、と信じたかったけど、自分は痴呆症の人を面倒みている立派な人、として他者からちやほやされたかっただけのようだ)うえに、たまに祖母に会いに来る程度の静子の妹――榊原静香さかきばらしずか(独身)も口出しするため、施設に放り込めないのが現状だ。ちなみに祖母も半分痴呆が入っているから、会話は成り立たないし、補聴器を付けていても聞こえていないし、人の話を聞く気もない。電気もテレビもエアコンも点けっぱなしだと叱れば苛められていると騒ぐし、口を開けば嫌味ばかりで、自分が使ったお金を盗まれたと警察を呼ぶような状態だから、


『ったく……! いつまで生きてるつもりなんだよ……!』


 静子はそう言って毎日怒っているような状態だった。それも仕方ない。祖父母はもう感謝の言葉なんて口にしないし、出るのは我侭と文句ばかり、〝年寄りは文句を言うけど感謝はしない〟という状況をこれでもかと味わっている。


『年寄りばっかり長生きさせるからこうなるんだよ……! 死ぬのは当たり前でしょうが……!』


 そう怒鳴っていた静子が、ある意味で救われたのはそれからしばらくしてだ。家から出ない生活をしているのに、あちこちに青あざをつくったり、足をパンパンに腫らせたりする祖母が倒れた。病気だったのか、老衰だったのかは覚えていないけど、全身がチューブだらけになっていたことは覚えている。お見舞いなんて行かないし、家に残った祖父は祖母が入院していることなんて気付いてもいない。そんなだから、静子はさっさとその命を終わらせることを望んだけど、邪魔してきたのはやっぱり静香だった。


『お姉ちゃんは昔から心が狭かった。子供が出来ても変わらない薄情さだよね』


 そう言われて静子は静香と大喧嘩になった。そういう静香の方も、ウチに遊びに来ては祖母の口座から現金を盗んでいた。しかもそれに気付いた祖母が真っ先に疑ったのが俺たちだ。さらに剛も命を終わらせることに反対したため、静子は俺を連れて全てを捨てた。


 今、祖父がどうなったのか、静香が何をしているのか、剛が何をしているのか、俺は何も知らないし、別に知ろうとも思わない。ただ、祖父母のような状態にはなりたくないと子供心に恐怖を感じていた。


 チューブまみれにされてまで生かされる地獄、何もわからないまま生きている地獄……これって、生きてるって言えるのかな?


 そうなる前に……俺は死にたい。ただ生きているだけなんて死んでいるのと一緒なんだから……どうか、神様……死なせてください。


 生きている意味がないなら死なせて――。


『ねぇ、和也君は……協力してくれる? 私を死なせてくれる?』




「おい……! 相部屋でうめき声を出すのは止めてくれ……」


 バシッ、と肩を叩かれた俺は、魚みたいな勢いで飛び上がった。バタン、とベッドは軋み、飛び上がった両足は踵を思い切りマットへ叩き付けた。


「どうした……悪夢か……?」


 真っ暗闇の中、梯子の位置から淳二の微かなシルエットが浮かんでいる。


「ごめん……起こした……」


「それはいい……悪夢か?」


「昔のトラウマ……」


「そうか……大丈夫だな?」


「……大丈夫」


「悪夢とか嫌な白昼夢とかは運動不足が原因だな……走ってみたらどうだ」


「そうするよ……ドクター」


 俺がそう応えると、淳二は静かに自分のベッドへ戻り、すぐに寝息を立て始めた。


 ごめん、と静かに合掌した俺は、汗で濡れた背中とパジャマの隙間にタオルを差し込んで仰向けになった。しかし、良い夢を求めて目を閉じても眠気が届かず、閉じたり開けたりの末に見かけた暗闇の壁掛け時計が示す時刻は丑三つの二時だ。


「……はぁ」


 溜め息と一緒に枕元のスマートフォンを掴み、そっとロフトから下りた。


 落窪の消灯時間は二十三時だけど、実際は深夜まで起きている奴はいるし、それこそ朝まで談話室で駄弁っている奴もいる。規則が緩く見えるけど、勉学にも強い鐘早にやる気のない生徒はいられないから、夜更かししていても生活態度が腐るような奴はいない。


 そっとドアを開け、忍者みたいな静かさで廊下に出た。さすがに廊下は消灯されていないが、いくつかの照明は消されている。消灯前の見回り当番がきちんと覆ってくれたカーテンを横に、俺は真っ暗な談話室に入った。


 過去の先輩方が遺したビリヤード台やダーツマシンとかソファーとかが並ぶ談話室、俺は廊下からの明かりを頼りに、チェストの上にあるキノコ型の照明だけを点けた。それだけあれば深夜の物思いには充分だ。一人用のソファーを優しく動かし、キノコの下灯げんとうでスマートフォンの画面を起こした。


『とりあえず情報提供者が来た! 接触するからあんたも家に来て! あたしはあんたとは違う……最後まで足掻いてみせるから!』


 これは二時間前に届いたメール。心ない――というか、勘違いされたままのような関係が続いているけど、訂正しようと思わないのはメールの主が俺の心境を口にしているからだろうか。


 彼女との出会いとぶつけられる真正面からの言葉。ある意味でヒメの判断を否定し、ある意味でヒメの判断を肯定している彼女との出会いはこうだった。

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