第二話 絶望

 私は、口を開くのをやめた。サヴァンの目が私を認識していないことは、すぐに分かった。私を見る目が、揺れている。閉口する私を訝しむ彼に、なんとか言葉を発した。


「……はい」

「お嬢さんは、外から来たんだね。苦労したことだろう、君の外見を見ればわかる。うちへ来なさい。ここの宿屋は高いんだ、今日のところは泊まっていくといい」


 サヴァンが私に話した言葉は、一言一句前と同じだった。私のことをすべて忘れるなんてことがあり得るだろうか。私と重ねた対話が、まったく全てなくなってしまうことなど。エトワレを助けて帰った後の希望に満ちた眼差しが、消え去ってしまうことなど。

 町はどんよりと重たい空気を纏っている。かつて私がこの町を襲った問題を解決した後の朗らかな雰囲気とは全く様相が違って見えた。通い慣れた宿屋や八百屋が目に入る。みな確かにそこにいるのに、誰も私に気づかない。夕方とはいえ、人々は家の中に篭っているのか、外にいる人も少ない。子どものはしゃぐ声も、聞こえない。

 一文無しなのは、前と同じだ。力づくで無理矢理に剥いだループスの皮はぐちゃぐちゃで、銀貨一枚にすらならないだろうことは明らかだった。もう行くのか、と寂しげに腕を組んだ宿屋の主人の姿が思い浮かぶ。彼も私を忘れてしまっているとしたら、きっとこれでは泊めてもらえないだろう。


「……ありがとうございます」


 私はサヴァンの言葉を受け入れた。そうせざるを得なかった。ゆっくりと杖をついて歩く彼の後ろ姿を見守りながら、私は知り尽くしたサヴァンの家の扉を潜る。嗅ぎ慣れた木の匂いに、不覚にも安心してしまう。

 次いで、真っ先に目についたのは、小さな本棚と、その上に孫と思われる子どもの写真。その隣に置いてあった片方だけの小さな靴。私はその正体を知っている。これは、エトワレのものだ。

 エトワレはどこに、と問おうとして口を噤む。私を知らないサヴァンにエトワレの名前を出すのは不自然だ。私は何も知らないふうを装って、その行方を尋ねる。


「これは……?」

「これが気になるのかい。君が思っている通り、これは孫の靴で、写真に映るのも、孫だ。……孫はね、魔物に攫われたんだ」


 サヴァンが発するであろう言葉は、聞かずとも分かっていた。エトワレが帰ってきたあと、サヴァンは片方だけの靴を片付けて、新しくエトワレに靴を買い与えていた。だから、この町の問題が解決していないことは、それだけで。

 私はサヴァンの寂しそうな背中に、目を伏せる。私が持っている記憶は、夢なんかじゃない。全て経験してきたことだ。正夢だと片付けられるほど、受けた痛みは軽くなかった。

 では今私に起こっていることは、一体何なのだ。まるでゲームのリセットボタンを押したように、初めからやり直しをさせられているようだ。いや、事実そうなのかもしれない。異世界に来るなどという現実離れしたことが起こっている以上、その可能性を否定することはできなかった。

 私は、どうすれば元の世界へ戻れるのだろうか。……私はどうすれば、死ぬことができるのだろう。

 もうたくさんだった。右も左も分からないことも、魔物と戦う恐ろしさも、異邦人を見る不審な目で見られることも、死に至るほどの痛みを与えられることも、もう充分すぎるほど味わったはずだ。なぜ私はこんなにも理不尽な目に遭わねばならない。私が、一体何をしたというの。

 笑顔のエトワレが写る写真の前で佇む私を、サヴァンが覗き込む。心配げな面持ちで、彼は以前と同じく私に入浴することを勧めた。


「お嬢さん、君の顔色は随分悪い。良ければゆっくりお湯を浴びてくるといい」

「……ありがとうございます」

「私はサヴァンという、君の名前を聞いても?」

「……フォステといいます」

「そうか、フォステ。今日はもうお風呂に入って眠るといい」


 『フォステ』、私が咄嗟に名乗った偽名。偽りという意味をもつ英単語をもじっただけの、単純な名前。奇しくも、それは私に似つかわしい名前になった。すべて知っていながら知らぬふりをする私、この世界の住民でないことを隠す私、ただの人間ではなく魔物の血が混じっている私。偽りだらけの私には、おあつらえ向きだ。

 サヴァンを見る私の目も、変わってしまった気がした。彼はループスに連れ去られた孫を助けてもらうために私に親切をしている。ただ、それだけの関係だ。


--いっそあのまま死んでしまいたかった。


 元の世界に戻ることができないのなら。こんなに苦しい世界で生きなければならないのなら。人間として生きることすら許されないのなら。

 皮膚が赤く染まるほどに熱いお湯を浴びて、私はエトワレの部屋で眠る。小さなベッドの中、私は体を丸めた。


--誰か、誰か私をたすけて。

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