再・はじまり
第一話 既視
瞼を何度動かしても、世界は変わってなどくれない。山々が連なっている中に作られた小さな村。一本の大きなあぜ道と左右に均等に並ぶ家。表情の冷たい住人たち。
ぺたりと道のど真ん中に座り込んだ私は、自らの手が細かく振動しているのを自覚する。切りっぱなしのベージュの服、布で作られた靴。私はふらふらと立ちあがった。服の下から自身の腹に触れる。つるり、傷ひとつない綺麗な肌。
「どうして……」
ざっくりと体を割られた感覚を、私は忘れない。あれは紛れもなく現実の痛みだった。首、腕、腹、大腿、どこを触れても傷ついてなどいないけれど、たしかに。いっそひと思いに殺してくれと思うのに、体が人間のそれより丈夫だったのかすぐには死ねなかった。魔王の側近たちにいたぶられ、地に伏せ、それでも尚残る意識が恨めしかった。
「どうして!」
「うるせぇな、何叫んでんだよ」
憤る私に声をかけたのは、かつて私がこの世界で初めて声をかけた男だった。私は思わずその男の胸ぐらに掴みかかった。
「なぜ魔王の実験台にされてのうのうと生きていける!」
男は不快そうに私の手を乱暴に払いのけ、私の肩を押した。力が抜け、再び地面に情けなく座り込んだ私に、男はしゃがみ込み、笑った。
「おいおい、気でも狂ったのか?魔王様のお役に立てて光栄の間違いだろ?」
「光栄……?」
「そりゃそうだろ。下等な人間の生活に慣れて、人間界に潜り込み、人間を滅ぼす!それが俺たちに与えられた使命だろうが!俺たちは、魔族の中でも選ばれた魔族なんだよ!」
男の言っている意味が分からなかった。ただ、男が醜悪であることだけが、私に理解できる唯一のことだった。
私は大きく拳を振りかぶり、男を殴った。どん、と男の胸から音がした。男はびくともしなかった。
「なんだよ、女の癖に喧嘩でもするつもりか?……前からずっと思ってたんだ。女は男より弱い癖に、なんで同じく人間のフリさせられてんだってよぉ。ちょうどいい、お前、殺してやるよ。人間を殺す練習台になれ」
男は私に殴りかかった。腹筋の入っていない腹に、大きな衝撃が走った。続いて強烈な嘔気が私を襲う。何も入っていない胃から胃液が上がり、げえと声が出る。口の中の酸っぱさが不快だ。
男はさらに私に殴り掛かろうとしたが、騒ぎを聞きつけた別の男がそれを止めた。私を殴った男より、数段冷静そうな顔つきをしていた。
「やめろ、女相手にみっともない。それに、アレでも魔王様の貴重な実験結果なのだ。下手に手を出せばお前が魔王様に殺されるぞ」
「ハッ!そんなわけねぇだろ。魔王様はこの村を作ってから一度もここに来ねえんだからよ」
「魔王様はお忙しい身だ。いちいち視察になど来られるわけがないだろう。……お前、本当に選ばれた魔物か?頭が回らないとこの任務は全うできないぞ」
「お前、少し賢いからって調子に乗るなよ」
私は男たちが争っている隙を見計らって逃げた。逃げ道は知っている。一度通ったことがある。私は腹の痛みを抑えながら、一目散に大きな通りを駆け抜けた。
走りながらも、私は混乱していた。なぜ私はまだ生きているのだろう。あの村は、魔王の実験体が集められた村なのだろうか。私はなぜ死ななかったのだろう。魔王は人間界に、人間の皮を被った魔物を放とうとしている。
魔物の集落を抜け、細い道を走り抜け、広大な大地が私を出迎える。ぼろぼろと涙が溢れた。どうして私だけがこんな目に遭わねばならないのだ。違う世界へと飛ばされて、魔物退治に身を窶し、それでいて自分自身も魔物だと知って、そして、死ねなかった。
とぼとぼと森に向かってまっすぐ歩く私に、紫色の透明な球体が襲いかかってきた。それは私の左足にぶつかってきたが、先ほどの男に殴られた感覚と比べれば何でもなかった。私は左足を振り上げて、ぐしゃりとそれを潰した。
『コマンの町は、いつでもフォステを待っているよ』
頭を過ったのは、コマンの町を去ったときにサヴァンから言われた言葉だった。私は森へと走った。走って走って、途中で出会したループスを枝で狩って。走って走って、木の前に佇むションピィを石と枝で貫き林檎を取って齧った。
もうすぐ森を抜けるところで、私はぴたりと足を止めた。遠くに、あたたかな光が見える。人間たちが暮らし、営む町の光だ。私はあそこに入る資格があるのだろうか。私は人間じゃない。魔物になったつもりもないが、それが事実なのだ。そんな私を、変わらず受け入れてくれるだろうか。
私は迷う気持ちを抱えながらも、光に吸い寄せられる蛾のように、一歩を踏み出した。サヴァンなら、きっと分かってくれる。サヴァンなら、何か解決方法を見出してくれるかもしれない。
私は気付けば再び駆け出していた。あの町に暮らす人々なら、私をきっと分かってくれる。
コマンの町と書かれたアーチを潜ると、そこにはサヴァンが立っていた。聞いてほしいことがあるんです、そんな言葉はサヴァンの言葉によって打ち消された。
「もし、お嬢さん」
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