第2話
朝九時、まだ予備校も開いていないし、下級生の高校生は学校にいるという絶妙な時間だ。駅前は朝の活気も薄れ、わたしは隠れることなく塾へ行くことができる。なぜ隠れなきゃならないんだ。さすがに進学した同級生とは会いたくはない。
格子戸を開けると、
「おはようさん」
と、やはり猫だった。
おはようございます、とワンテンポ遅れて頭を下げた。
「まだ朝は寒いね。家にいる気持ちで勉強して」
家にしゃべる猫いないから。
わたしは案内された席についた。どうやらずっと同じ席かもしれない。
スケジュールは決まった。
土日祝はお休み。
朝九時から昼の十二時まで。
昼食休憩が一時間。
十三時から二十時まで昼。
合計十時間前後。
「晩ごはんは?」
「塾で食わんでも死なんよ。自宅学習は好きにしてくれてええで」
眠そうにポツリと言うが、
「やるよね?」
という重圧を感じた。
「がんばります」
しかし、
「ムリやと思うけどなあ」先生(猫)はいつもの座布団の上に飛び乗る。「家で、まだできるてことは、塾で本気出してないてことやん。メシ食うて、風呂入って、寝るくらいしかできんやろ。ところで昨日の『やさしい高校数学』読んだ?」
「少し。数と式の復習を」
「へえ」
気にしてないよね。
わたし、うそついてる感じになってるよね。そりゃ、集中力は微妙だったけど。眠かったけど。
「じゃ、これから一時間、数学ⅠAで好きな章から一時間読んでくれるかな。お勧めはデータの処理やけど」
やっぱり聞いてない!
わたしは目次から選んで、三角比と図形の性質(欲をかいた)を読むことにした。例題を解いて解説のようなもを読む。先生は解けたノートを見ても何も言わない。見ているかどうか怪しい速度で目を通すだけなのだ。根本の仕組みが書いてあるところは線を引いた。「何で線引いたん?」と尋ねられ、暗記と理解が必要だからと答えた。「へえ」と言うだけだった。解説用にノートに図示する。ラストは先生(猫)に口頭とホワイトボードで解き方を教えた。これが計算問題についての一連の流れ。ホワイトボード正面の鏡に私の姿と先生の猫背の背中が映る。
途中で飽きたらしく、その場でアンモニャイトになった。
「聞いてます?」
「聞いてるがな」
耳をビクッと動かした。
聞いてなかったな。
「まず三角比をチョイスするとこなんて、さすがや。データの処理お勧め言うたのに。図形が苦手なん見え見えやな。それと数ⅡBの三角関数に連動させる気やな」
怒ってる?あれ?けなされたのかな、褒められたのかな。
先生(猫)は床の居心地が悪いようで、むくっと起き上がると、あくびをし、伸びをして、今度はいつもの椅子に乗って寝た。こちらを向いてくれたが、顔は尾の中に埋めた。
「気づいたんやけど」
ただならぬ低い声だった。
「友ちゃん、二回目やけど、どんどん来るよね。ズンドコ言いたいこと言うよね。図形の性質、二時間でできる思うたけどできんだよね」
痛いところを突かれた。問題を解くならいいが、『やさしい高校数学』を読んで、例題の解説を先生(猫)に説明するまでには時間も理解も足らない。それよりも気になることがある。どん底ではないのか。
ズンドコ?
「嫌いやないで、そういう性格。それに賢いわ。先生、驚いたわ」
さして驚いた顔でもなく、声でもなく、一本調子で言った。これまたえぐられる厳しさがある。
「わたし、賢くないです。お父さんとお母さんなんて、もっと賢いですから」
わたしはバカだ。できそこないだ。あの優しい両親はもったいないくらいだ。
「比べたらあかんで。人は無意識に誰かと競争する動物なんや」
人のこと語るな。
「それに学校ではおとなしいと言われてるんですけど。家で一人でいるときも、わたしおとなしいです」
「当たり前やん。皆の前で騒がしいのは空気読まん奴だけや。一人でおったらみんな静かやろ。一人でやかましいのは、ニワトリくらいや」
両親の高学歴の重圧で、中学高校となかなか素を出せなかった。そんなことはバカなことだと気づいているがクセは治らないものだ。
「でもさ、塾、二日目にして言いたいこと言うてるやん。皆、何も言わんままやってるで。何でやろ」
猫だからですよね?
「わたし、言えてますか?」
肝心のことが言えてない気がするんだけど。猫ですよね!と。
「二時間後に数ⅡBのテストしようか。出るところは式の証明と三角関数やね。そこだけ正解すればええわ。じゃ、今からテス弁して」
また向きを変えて寝た。
「昼飯食べた後にテストやで」
「はい」わたしは「勉強は何でしたらいいですか」
「決まってるやろ」
『やさしい高校数学』ですよね。
「チャート式やろ。ずっと青使ってたんやろ?」
「どうして」
わかったんだろ。
「鞄の中に入ってるやん。それで二時間やりぃや」
「はぁ」
では『やさしい高校数学』は何のためにするのだろうか。たしかにやさしい。青チャートよりやさしいんだけど。
二時間後、昼食をとる。母に頼んで小さなおにぎりを作ってもらった。これなら食欲なくても放り込んでお茶で飲み込める。
先生はカリカリを食べていた。豆菓子を食べるように、ポリポリとひと粒ずつ。袋に手を入れては、
「肉風味か…魚風味…」
ちょっと待った!
カリカリかよ。
「個人的にはウエットなのが好きなんやけどな」呟いて「皿の掃除面倒くさいし、手も汚れるし、何より口の周りが粘つく。でもカリカリでも小粒は許せんのや。大粒で噛みごたえあるのかええな。小粒は噛めんときある。草食ちゃういうねん」
先生はこちらを向いて、
「友子ちゃんは、たこ焼きのタコは大きい方がええんか?」
「考えたことないですけど」
わたしは先生の方を向いて、ラップでくるまれたおにぎりをかじった。たこ焼きパーティーするとき、そんなにタコは入れない。チーズとかキムチとかチョコとか入れると答えた。
「それもうたこ焼き違うやん。チョコなんて入れたらお菓子やん。あんこ入れたら、もう回転焼レベルやん。ん?回転焼?大判焼?巴焼?」
「は?」水筒に口をつけた。
「呼び方」
「あれですよね。フードコートとか夜店の屋台のあんこ入った丸い」
「円柱状の奴や。白あんは許せるけどカスタードはどうやろ。こしあんは回転焼やないよな」
「わたし、カスタード好きです。買うときは、絶対カスタードにします」
先生はう~んと考えながら体を洗い始めた。そして座っても考えている。カスタードでそんな考えることあるのか。じっと壁を見る。
何かある?
わたしも壁を見る。
不意に、
「猫がじっと宙を見てると、霊が通ってるて話あるよね」
「テレビで観ました」
猫の話だ。
よし!
霊が見えるの?
「あれ怖いよな。ビビるわ」
あんたの話やないんかいっ!
二時間、チャートに没頭した。擦り切れるくらいに解いた例題は、もはや覚えてしまっている。
休憩ないの?
「日本史、好き?」
「好きじゃありません」
「教科書マスターした?」
「そこそこ」
先生は薄い本を渡してきた。
『共通テストはこれだけ!金谷俊一郎の日本史B[近代・現代]』
「これで覚えて。今から二時間やで。金谷っちの日本史や」
「かなやっち」
かなやっちて、お友達?
「まだまだあるで。りなっちもおるしな。とりあえず薄い本日本史覚えて。後でテストするから」
ん?
「数学ⅡBのテストは?」
「後やな」
マジかっ!
数学やるつもりだったのに。間に日本史か。しかもニ時間も?こんなもんスキマ時間でいいやん。
「今、友っちが考えてること当てたろか?」
「友っち…」
「暗記なんてスキマ時間でやればええやん思うたやろ」
「い、いいえ…」
「今は言われたようにやってくれたらええわ」柱にもたれて、体を伸ばし、爪を研ぎながら「成績上がるから」、振り向いてニッとした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます