第3話

 わたしが入ると、先生は壁際の空気清浄機を見上げていた。

「おはようございます。何してるんですか?」

「あ、おはようさん」首だけこちらをむけて、「こいつ、センセが近づくと動き始めるねん」

 そりゃ、そうだろ。

 四月は華やかでいて、ストレスの溜まる月だと思っている。新しい環境に慣れるまで辛いが、世間の華やかさが、辛いと言うことを言わせない。電車や駅には新しい人を見かけるようになった。初々しい背広、制服、化粧が派手になった大学生の友人などこの世の春を謳歌しておけばよい。わたしもしたかった。

 テーブルに参考書などをセッティングして、

「花粉多いみたいですよ」

 と、言った。塾でしか使わない問題集や参考書は自分で買ってきたブックエンドに立ててある。先生と相談して作った一日と一週間の手書きの予定表はボックスの壁に磁石で留めてある。まるで自分の勉強机のようになっている。実際、わたし以外は使っていないと思われる。

「花粉ですかね、眠いのは」

「やる気やろ」

「そうですね」

 にゃんこ塾は、いつも同じだ。毎日通うものの、眠くなるときは眠くなるし、先生は寝てるし。

 しかし、寝ているようで寝ていないこともある。縦長の瞳孔をジッと見つめられている。

 ここ一ヶ月の何日か、

「この先生は凄いかも」

 と、思わされることが起きた。数学ⅠAの過去問を解いたときだ。わたしは共通テスト対策の予備校の過去模試を解いていた。各予備校では共通試験対策の模試を販売しているのだが、わたしができたことを伝えると、「五割くらいやな」と言われたのだ。前は六割と言われて八割採ったのだが、何度かしているうちに、先生がわたしの点数を当てるようになってきた。すべての教科で同じことが起きていた。国語では現代文と古典漢文の割合まで当てられる。

「どうしてわかるんですか?」

 ランチのときに尋ねた。

「神様が教えてくれるんや」

 チューブタイプのスティックを舐めながら答えた。

 チュール食べてる?

「ま、冗談や」

「わかってますよ」

「何で分かるかは企業秘密で言われんけど」必死に最後の一滴まで絞り出していた。「これ、高いねん」


「昼からは間違い潰しやな」

 間違い潰しとは、間違えたところのジャンルをする。例えば簡単に言うと、公式ミスならその基礎まで戻らされることになる。数ⅡBを解いていて、数ⅠAの知識を使うときは、数ⅠAまで戻らされ、おまけに数ⅡBもやらなければならない。いくつか類題に◯を付けられて、「これとこれとこれをやれ」と指示されるのである。

「とにかくGWまでに実力を上げることやで。それで上がらんだら去年と同じか、それ以下になる」

 同じも以下もつらいなぁ。

 あぁ、不安で泣きそう。

 ここ二週間、友人からのラインも減ってきたし、SNSでは皆、充実したものを写している。そりゃ浪人生に話すことなんてないし、新しい友達と話す方が楽しいよねと。

 ん?

 視線を感じた。

 後ろのデスクで、香箱座りをした先生がジッと見ていた。

 勉強しないと。

 泣いてる暇はない。

「おもしろい?」

「は?」

「勉強おもしろい?」

「解くのは…」

「解くのは…て」先生はわたしを指さして、「変わってんな」

 おもしろさを伝えろや!学ぶこととは何かとかいう経験者は語る系の話はないの?変人扱いかよ。

「先生は何で解くんですか?」

「質問されるから」

 ま、そうか。

 たしかに。

 じゃ、それならわたしは点を採りたいから覚えるし、解く。だから解いているときは、まだ楽しい。

「点数採ればおもしろいわな。褒めてももらえるし。でもそれってしょせん結果しか見てないてことやん?」

「解いてるときはおもしろいですよ」

「でもそれも解けるかもっていう目標見えるからやろ?目標に近づいていくのがおもしろいだけやん。純粋に解くのがおもしろい人おる?」

「数学者とかどうですか?」

「あの人らも目標(答え)あると信じてるからやろ? 何周走ればええかわからん長距離走なんてやってられんわな」

「例えがよくわからないんですけど」

「う~ん…」先生は「マラソンとか見たことある?」

「ないです」

「友っち、話を潰す天才やな。登山も途中しんどいけど、山頂近づいたら力出るやん?」

「そうなんですか?」

「わざとやってるやろ」

「まさか。登山なんてしたことないですから。センセ、あるんですか?」

「まぁ、ないな」

「それならわからない者同士じゃないですか」

「そやな。不毛な話や」

 う~んと考えた。

 わたしも考えた。ひょっとしてスモールステップのこと話そうとしてるのかな?日々小さい目標をコツコツと達成していき、モチベーションを保つこと。たぶん先生はそれを言いたいのだと解釈した。

「先生、例えば…」

 先生はごめん寝していた。

 考えてたんやないんかいっ!

 それでも小テストもない。英単語や古文単語を覚えこいと言われても、次の日にテストされることもない。テストするときは、たまに五百個くらいさせられる。何点でも何も言われない。この前など英単語は九割合ったのに「へぇ…」で済んだ。しかもテストの結果も聞かれないことも多々ある。テスト結果を見た後、

「できすぎやなぁ…」

 わたしは「できるてるんだからいいだろう」と内心で不満を溜めていた。そして四月の半ば、暗記系は家でしてくるなと言われた。

「電車の中でとか」

「友っちがやってるかどうか、センセにわからんやん。別に信じてないわけやないで。浪人までしてサボる奴はアホやからな」

 前足を伸ばして伸びをした。続いて後ろ足も伸ばし、デスクから椅子の座布団に降りた。

「じゃ、家では別のことするからいいですけど、電車の中とかはどうすれば」

「リスニング解いたら?」

「リスニングですか?」

 うるさい中で?

 先生は二冊を出してきた。

 黒い表紙の竹岡広信さんの『ドラゴンイングリッシュ』を勧めてきた。これをスマホに入れて、英文を追いかけるのがいいと言う。

「又は桑原信淑・杉野隆さんの『基礎英文解釈の技術100』かな。英語の単語は鈴木陽一さんの『デュオ3.0』を音声で覚えるんや。どや!」

「デュオて単語帳ですか」

「そやね。今の単語帳の正答率が高すぎる。ま、それでもええけどグレードアップするなら、これやね」

「ドラゴンイングリッシュは?」

「文丸ごと覚える」

「英文解釈は?」

「構文解析も兼ねる。やたらややこしい論文調の文を読む。どちらかというと二次向きやが、共テでは選択肢読むのに役立つ」

 新しい三冊、デスクの上に置かれた。

 先生は私のことを

「基本負けず嫌いやね」

 と、言う。いつも明るく振る舞っているが、内心は「負けたくない負けたくない」という気持ちらしい。

 そうかなぁ…と。

「なぜそう思うんですか?」

「お父さんとお母さんの高学歴を気にしてるんやろ?」

「前は…」

「今もやろ」素っ気ない。

「気にしてないといえば嘘になりますけど、まだマシかな」

「そこや」

「どこですか?」

「あそこ」

 窓の方を指差したが、何も見えなかった。

「どこですか?」

「冗談や」

「…」真剣な話に冗談を入れられたら聞く気を失う。

「人は追い越せそうなことにはコンプレックス抱くもんなんや。負けたくないとな。例えばお父さんが漫画家とか小説家なら凄いとは思うけど、負けたくない思うか?」

「才能ですからね」

「連中は才能やないで。あれはプラスアルファの勉強量が凄いんや。本人の前で才能豊かなんですねなんて言うたら殺されるで」

「気を付けます…」

 勉強すればなんとかなると思っているから、父や母にコンプレックスを抱くのだ。そこに届かない自分が歯痒くなる。才能プラスアルファができるのだろうか。

 正直に尋ねた。

「やってきたやん」

 興味なさそうに簡単に答え、

「ま、とりあえず二冊選ぼうか。一つはドラ英やってみよ。これ、リスニングな。英文解釈100は翻訳だけでええわ。70もあるから100でしんどいなら70に代えよう。とりあえず今からやってみて」

 わたしは二時間ドラゴンイングリッシュと英文解釈を訳した。ドラゴンイングリッシュは、リスニングで覚えられると感じた。しかし英文解釈をしていて、速読できるようになるのか不安だ。

「友っち、小説とか読んでる?」

「いいえ」

「小説くらい読みや」じとっとした目で見た。「まぁ、そんなことはどうでもええわ。人の趣味はそれぞれやからな」

 人の趣味て。

 猫やん。

 

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