5話
「なんですか?」
探るように声を出す。
急に声をかけられて警戒するなと言うほうが無理だろう。そもそも私はこの人を知らない。
「これ、落としたでしょ」
それと同時に差し出された手を見る。そこには私の財布があった。
「あ、ありがとうございます」
いつ落としたんだろう。きっとこの方が届けてくれなければなくしていたと思う。
「別にいいよ。じゃあね」
「その、お礼を――」
「いらない」
途中で言葉を遮られる。
受け取っておけばいいのにとは思うけれど、多分この人は単純に人と関わることが苦手なんだなと思う。
普通ならば私がこの方を警戒すると思うけど、今はこの方のほうが私を警戒しているように感じる。
睨むような目つきと、近づくなと言われているようなオーラ。こんなふうにされたら引かないわけにはいかないだろう。
「わかりました。せめて名前だけでも」
この方は私に聞こえるくらい大きくため息を付く。
「猫又みみ」
名前も態度も猫みたいだなと思う。
それだけ告げて去っていく背中に「ほんとうにありがとうございました」と少し大きく声をかけるけど、振り向くことはなかった。
駅に入って、電車に乗る。
私はICカードを使っているから、家に帰るまで財布がなくなったことには気づかなかったと思う。
そう考えるとやっぱりお礼したかったなという気持ちが出てくる。
「はぁ……」
周りの人に聞こえないくらい小さくため息を付く。
高校生くらいの子だったからまたどこか出会う可能性もある。同じ高校の可能性だって、きっと。そう思うけど、あり得ない確率だなと思って、その考えをすぐに捨てる。
気づけば家の近くの駅まで来ていて、急いで電車から降りる。
そういえば夜ご飯の食材がなかったなと思い出し、スーパーに寄ることを決めて歩き出す。
今日の夜ご飯はどうしましょうか……。
一人暮らしだし、そんなに多くのものは食べられない。しかし作り置きをしておけば楽になるのは確かだろうと思って、カレーとポテトサラダを作ることを決める。
適当に食材を買って家に帰ると、固定電話の留守電のボタンが点灯していることに気付いて、電話を取る。
『涼、ごめんな』
それは
『急に仕事が入ってしまって、涼音と海外に行かなければならないんだ』
別にわざわざ伝えなくたって、忙しいのは知ってるのにと思うけれど、父のこういう律儀なところは嫌いではなかった。
『なるべく早く仕事を終わらせるから、終わったら入学祝いでご飯でも食べに行こう』
そこで電話は切れる。
「入学祝いなんていいから――」
――入学式見に来てくださいよ。
口に出しそうになって、慌てて口を抑える。
言ってはいけないなんてわかっている。仕事だからどうすることもできない。だから入学祝いでご飯を食べに行こうと言ってくれた。
なのにそれを無下にするような発言をするなんて、私にはそんな権利はない。
ゆっくり、落ち着いて深呼吸をする。
今日は家でゆっくりしよう。そう決めたその後のことはよく覚えていないけれど、財布を渡してくれたあの人が頭の中に居座っていたことだけは覚えていた。
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