強制された矯正の話

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

私的には黒歴史


 私は歯並びで悩んだことがなかった。

 何度虫歯を作って歯医者へ行こうが、「歯並びが気になるねぇ」なんて言われたことはなかった。

 しかし、ある年の学校の歯科検診で、〝開咬〟ではないかと指摘された。

 どうも、この時の学校医は歯列に厳しい人だったらしい。それまで歯並びを指摘されてこなかった人が、何人も歯並びの問題を指摘されていた。

 

 私は歯科検診結果の紙を手にかかりつけの歯医者へ行き、「うーん、まぁ、そうだねぇ、そうかもしれないねぇ」と言われながら、紹介状をもらった。

 それを手に近くの矯正専門医のところへ行くと、「まぁ、そうですねぇ。前歯が噛み合ってないと、将来的に顎関節症になったりするので……」と、〝やろうぜ!〟感のない〝とりあえずやるぅ?〟な感じで話が進んだ。

 そして、我が親は〝矯正歯科代を出せない家だと思われたくない!〟という見栄っ張りなので、「それならやります!」と、本人の意思など関係なく話はまとまった。


 矯正の強制である。


 開咬の改善計画は、健康な歯を三本引っこ抜き、ブラケットをつけ、ワイヤーで締め付け、数年かけて前に出ている(らしい)前歯を引っ込めるというものだった。

 とりあえず麻酔をして、とりあえず歯を引っこ抜いた。

 引っこ抜けたら、器具をつける。

 ワイヤーで締め付けたら、あら大変!

 痛い、噛めない、クタクタのうどんすら苦痛!


 器具があるため、普段よりも歯磨きが難しい。

 専用の凸凹歯ブラシ(あの頃もワンタフトはあったのだろうけれど、凸凹歯ブラシをお勧めされたのでこちらを利用していた)でシャカシャカするも、磨き残しているのやら虫歯生産。

 前歯の歯と歯のあいだがほとんど蝕まれた。

「前歯が虫歯だなんて! 女の子なのに!」

 と、親は泣いたふりをしたが、『やりたいとも思っていない矯正をしていなければ、虫歯になんかなってないわ!』と、私は内心怒っていた。


 いろいろなことがありながらも、なんとか引っこ抜いた隙間が埋まると、今度はゴムをかけることになった。

 上下の歯にゴムをかけて圧をかけることで、さらに歯を動かしていくのだ。

 これがクソだるい。

 何時間付けとけ、というような指示があるのだが、面倒くさくて全然付けなかった。

 そして、そんなやる気のないやつの口の中に変化があるはずもなく、通院のたびに先生は首を傾げた。

 先生の頭の中に広がっている〝こうなっているだろう〟状態にはなっていない。なるはずがないことを、先生は気づいているかもしれないが、白状していないから確信を持てているわけでもない、はずだ。

 先生は言った。

「ゴム頑張ってね」

「はーい」

 返事だけはやる気いっぱいである。


 ある通院日の数日前、私は前歯でガムを噛んだ。

 そうしたら、まさか!

 先生に「うん、いい感じだね!」と言われたのだ!

 私は学んでしまった。

 ゴムなんて付けずに、前歯で噛めばいいのだと!

 そもそも、前歯でも噛めるようになるためにやっているのだ。

 そうだ、前歯を使わなければもったいない!


 が、しかし。

 ゴムを面倒くさがる人間が、前歯でものを噛む習慣がないくせに前歯でものを噛むはずがなかった。

 通院日の数日前になるとようやく、前歯で噛まねば……と思い、重い顎を動かしたものだ。


 ある通院日の前。

 私はハリボーグミを食べていた。

 そして、『そろそろ通院日だからなぁ』と、いつもの通りに前歯で噛んだ。

 しばらく噛んでいると、

 ――グキッ。

 足首でも捻った時の効果音のような音が、頭にダイレクトに響いた。

 折れたのか? と、一瞬にして焦りメーターがマックスを超えた。恐る恐る鏡を見る。歯がある! 折れてない! ヒビも……パッと見た感じはない!

 ほっと胸を撫で下ろし、ハリボーグミを食べるのをやめた。


 その後、グキッが怖くて前歯でものを噛むのを完全にやめてしまった。

 ゴムをかけるでもないので、矯正の方は改善するどころか悪化する一方だった。

 わざわざ歯を引っこ抜いてまで詰めたが、詰めた前歯を舌で押していたらしい。見事なまでの再開咬である。

「もうこれ以上は改善が見られないようなので、おしまいにしましょうか。保定もなしで」

 先生が匙を投げ、矯正生活は終了した。


 と、さっぱりと終われたらどれだけ幸せだっただろう。

 矯正を終わらせるには、ブラケットを外さなければならない!

 と、いうことで、器具でポキポキと外してもらった。

 ワイヤーで力をかけても外れないくらいの強度がある接着剤が使われているので、時々バカみたいに力をかけながら『ンーッ……ポキ』なこともある。

 その時も、ンーッと力をかけていた。

 その時は、ポキ、ではなくボキ、であった。

 私にはわかっていた。

 口の中が見えなくても、感覚でわかっていた。

 ――先生! 今、歯を折ったでしょ!

 わずかな動揺を感じたが、先生は何事もなかったかのように残りのブラケットを外し続けた。

 そして、すべてのブラケットを外してから、言った。

「すみません。外す時に、歯が欠けてしまいまして……。痛み、ないですか?」

「(デスヨネー)痛くないです」

「かかりつけの歯医者さんにお手紙を書きますので、治療はそちらで」

「あ、はーい」


 矯正歯科とおさらばできたと思えば、今度は普通の歯科に通うことになってしまった。

 はじめての抜髄を経験しながら、矯正をはじめてからいろいろなものを引っこ抜いているなぁ、などと考えた。

 クラウンが入ると、「銀なの? 白じゃないの? 女の子なのに!」と、母はグチグチ言った。

 そういえばこの人は、グチグチ言うだけで病院に文句を言いに行ったりはしないなぁ、とグチを聞きながら私は思った。


 ただ歯を引っこ抜いてその隙間を埋めただけだった。まぁ、三本無くなっているから、横顔に多少の変化があったのだろうが……。

 だからなんだというのだろう。

 歯を抜いて、虫歯を作って、神経を抜いて。

 余計なことしかしていない。

 私は、過去に戻ってやり直す権利を得られるとしたら、その権利を歯列矯正をしない世界線へのチケットとして利用したい。

 本当にあれは、金と時間とエナメル質と象牙質と神経の無駄だった。


 さて、そんな矯正終了から五年ほど経ったある日のこと。

 私は引っ越し先で、はじめての歯医者に行くことにした。

 特に異常はなかったのだけれど、その土地でのかかりつけが欲しかったのと、見る人が見ても異常がないのかを知りたかったからだ。

 そこでは、初診であるからだろう、パノラマでのレントゲン撮影を行った。

 そしてその後、部分撮影も行った。

「あの……ここなんですけどね」

 パノラマと部分撮影、両方の画像を使って、先生は前歯の神経が死んでいるだろうことを教えてくれた。

 私の頭には、ハリボーグミが浮かんだ。

 あの時だ。あの時のグキッしか、神経が死ぬ原因に心当たりはない!

「あぁ、そうなんですねぇ……」

「念の為、大きな病院で診てもらった方がいいと思うので、紹介状を書きますね」

「あぁ、はい……」

 矯正しない世界線が存在したとして、そこでも私は歯医者でこんなにも何度も紹介状やら手紙を書いてもらっているのだろうか。


 私はまた、抜髄してもらった。

 経験があるから、不安になりすぎることはない。穏やかにごろり横になり、されるがままにこちょこちょと神経の管を掃除してもらった。

 治療のために通院しながら、ゴムをきちんとかけていたら、この治療はいらなかったんだろうなぁ、と思った。


 矯正をしないという選択肢を選べたらよかった。

 けれど、強制されて矯正をやるしかないのなら、せめてやる気を出せたらよかった。

 そうすれば違う今があったと、例えば夢見るばかりで現実では出来そうにない、骨付き肉にかじりつくといったようなことが出来たりしたのだろうと、私は時々ふと、何かに〝考えろ〟と強制されたかのように夢想する。


 矯正歯科は、やる気がある人が行くところだ。

 やる気がないのに、〝とりあえずやっとく?〟なんてテンションでやっても、良いことはない。

 矯正をすると決めたなら、私のように黒い思い出ばかりにならぬよう、全力で取り組むことをおすすめしたい。

 今取り組んでいる最中であったり、これから矯正をする方々の歯列が、近く白く美しく輝く日が来ることを、私は祈っている。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

強制された矯正の話 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画