第六話 硫黄 Part 2

 食事の後、城内のゲストルームに戻る前にもう少し話したいと呼ばれてアリスはイシスとともに中庭に出た。イシスはいただいてきてしまいました、と小ぶりなワインボトルを抱えてきて、中庭の簡素なテーブルに置くとグラスに注ぐ。


「日本の法律だと俺まだ飲めない年齢なんですが」

「あら、そうでしたの? 博識ですし、気づきませんでした」

「あなたも若そうですけど」

「陽国には飲酒年齢に関する法律はありませんわ。でも……、ふふ、歳は秘密にしておこうかな」


 グラスに口をつけながら笑うイシスは、酒のせいか仕事の外の時間だからか、いくらか無防備に見える。向かい合っていると視線をわざとらしく逸らすわけにもいかず自然と顔が見えるが、化粧っけのあるなしの違いは大きいものの、イシスの丸くて垂れ気味な目や小さな口は不思議なことに米村つばきによく似ていた。午前の論争も相まってなんとなく苦手意識にも繋がってしまうのだが、しかし米村とイシスは女として決定的に違っている。


 イシスは聡明で、それでいて控えめで、話も合い、時にはきちんと意見を述べるのに、時にはアリスを立てるような言い回しをすることもある。化粧も薄付きだが優しげな目元を強調しており、元々美人なのだろうが、少しだけ長く演出された睫毛や淡い色のリップがより一層女の色気を際立たせている。そんなアリスの視線に気付いたのか、イシスは僅かに上気した顔で気の抜けた笑みをこぼす。


 二人はフラットに、議論にもならない議論を重ねた。午前中はアリスのことを論破する厳しい裁判官のようにも見えていたが、会話を重ねるうちに見せる表情は慈悲深い菩薩のようなそれでありながら、庇護すべき可愛らしさも感じさせる。仕事とプライベートはきっちり分けられるのだろう、あるいは歳下のまだ学びの途上の初級術師への慈愛だろうか。とはいえ子供扱いをするでもなく、対等に会話を展開する彼女はやがて、アリスの顔を見て照れたように言った。


「アリスさんは、優しいお顔立ちでいらっしゃるのね」

「塩顔って言われますね」


 アリスは奥二重の目を伏せる。誰もが認めるイケメンという括りには入らないかくらいのレベルではあるが、細身で顎もあるし自分では悪くない方だと思っている。顔が薄すぎるのが弱点くらいか、謙遜してそう言うが、イシスは笑って顔を寄せた。


「塩? あら、それは錬金術師にとっては名誉なことではなくて?」

「それって三元質の塩のこと言ってます? でもそれじゃあ、硫黄と水銀の仲人にしかなれない」


 照れ隠しの話が発展してしまった。錬金術において、硫黄は『男』、水銀は『女』の暗喩だ。そして硫黄と水銀を『結合』させることこそが大いなる作業マグヌス・オプスの頂点、あるいは『哲学的結婚』であり、すべての錬金術の最終到達点、賢者の石の製造方法であるとされる。彼女もそれを当然認識しているはず。アリスは自分の中の密かな欲の存在を諦めて認識することにして、改めて女の顔と躰を見る。オフショルダーの白い衣服はまるで女神のそれだが、そこから生える白い二の腕は引き締まり、緩んだ胸元からは酒が回りわずかに赤らんだ肌と豊かな谷間が覗く。女はグラスを置いてから髪を耳にかけ、目を細めた。


「それは少し残念だわ。私には硫黄のようにも見えますもの」


 硫黄は少し座る位置を寄せる。水銀はそれに応えるように彼の膝に触れた。一部始終を兄妹が見ていなければいいがとアリスは心の隅で願いつつ、願ってもみない大チャンスに心も体も躍らせたのだった。


───


 中級錬金術師の資格は翌日に授与が決まった。イシスのサインともう一人の見届け人のサインを得て、記念の盾に名前の彫られたプレートをはめ、皇帝が撮りたいというので皇帝とアリスとイシスの謎のスリーショットの写真が撮影された。それから僕も僕もとテレスとコンスタンティナ、それに皇后がやってきて、ちょっとした記念パーティーになってしまった。


「もう少し函庭にいないんですか」


 イシスの鞄を門まで運びながらアリスはそれとなく聞く。振り返る女性は記念写真の中の凜とした姿のまま微笑んだ。


「仕事が詰まっているんです。でも……、そうですね、仕事についてのあなたの助言があれば、近く余暇ができるかも」


 アリスは頭を押さえる。なんというかこう、上手だ。手紙をよこせ、日程調整しよう、をこうも上手く表現されてはたまらない。激しく頷きそうなのをなんとか堪えて咳払いする。


「俺はまだ中級ですけどね」

「まあ。いずれ上級になるのでしょう?」

「それは、……昨夜が中級程度だったと?」

「うふふ。私が初級のせいかも」


 少し照れた言い方に思わず口を覆う。異世界美女上司の処女簒奪、そうではなくとも『初級』な乙女の純潔を穢した罪を負ったアリス青年は、彼女の顔を見ないようにしながら馬車の御者に荷物を託した。


「ああ、そうだ。これ、持っていてしまったの。お返ししましょうか」


 座席から身を乗り出すようにして声をかけられる。照れながらも顔を上げた視線の先には、彼女の白い掌に映える青い石があった。昨日の試験の副産物、否、錬金術的には最重要の生成物である。


「えぇ。いや、いいですけど、そんなもんなんの価値が……ああ〜いや、錬金術の本質は物質それ自体の変性〜」


 慌ててを語るアリスの姿に女は楽しげに笑いながら、石を持った手の人差し指を立てて唇に当てた。


「私は好きですよ、この石」


 アリスは自分が『赤面する』ことがあるのを始めて知った。咳払いをして一歩下がる。


「またいずれ」

「ええ。この度はおめでとう」


 イシスは微笑むとそのまま前を向いて御者に声をかけた。清涼かつ甘い花のような残り香は、そばを駆け抜けていく馬の匂いにかき消されていった。


───


 チャールズの業務は皇太子と皇女に関わるほぼ全てである。この部屋に宛てて送られてくる書簡はものによっては検閲をしなければならない。ある朝受け取った書簡の中に、送り先がここ以外に思いつかなかったのであろう、アリス宛のものを見つけた。


「アリス様」


 こっそりとそれを手渡したのはその日の授業を終えた後だ。テレスとコンスタンティナが彼を送り出したあと、その背を追ってはそっと臀を揉んだ。チャールズの注目ポイント、それは彼の肉感のない臀の柔らかさについてである。様々な男のそれに興味があるチャールズは、今更この無礼を極めた家庭教師にその趣味を隠す必要もないと判断していた。


「ぎゃあ! まじでやめてください」


 悲鳴をあげて振り向いた彼の前に、丁寧な文字で宛先の書かれた封筒がひらめく。アリスは青ざめて彼から封筒を奪った。


「あのちょっと……。中見ました?」

「ご安心ください」


 チャールズはいつも以上ににやけている。筋肉がないせいで柔らかい錬金術師の臀の感触に、彼は実に満足していた。アリスは開封の跡がないことをその場で確認してからさっさと鞄に差し込んだ。


「陽国の術師様と文通ですか。手がお早いこと」

「言い方。教育に悪いんで、テレスたちには変なこと言わないでくださいよ」

「教育については私の方こそ。くれぐれも殿下らの前で浮かれたことを仰らないように」

「平気で人のケツ揉むやつが何言ってんすか……」


 全てお見通しと言いたげなチャールズの態度にアリスは深いため息が出た。とはいえ見送られつつ小走りで帰宅し、急いで開封したことはいうまでもない。そしてその後、手紙のメインコンテンツは心ときめく愛の言葉などではなく上級錬金術師イシス様からの錬金理論に関する講釈だったことに打ちひしがれたのはまた別の話だ。


───


 厄介な母親のせいで、アリスは隔週に一回東京に帰らなければならなくなった。精神科医から提案された作業は母に会い、できるだけ優しく応対し、健康状態を伺うという一日限りの交流であるが、アリスにとってはいつかの地下牢生活よりも疲れる仕事だった。


 そんな中で、メッセージアプリへの対応もしなくてはならない。寮に届いた手紙は面倒くさがって開封すらしなかったが、スマホへの通知はそうもいかない。電源を入れなければいいという話だが、この世界の現状がわかるニュースも見たいし、数少ない友人との繋がりは残しておきたい気持ちから操作せざるを得ない。米村も前はそこまで何度も連絡をよこしてこなかったくせに、最近は一日一通は連絡が来ているようだった。彼女の思想や態度は正直いけすかないし、こうした頻繁な連絡は面倒極まりない。


 しかしそこで完全無視するのは男ではない。蟻巣頼貞青年は、しばらく会いさえしなければ彼女の豊満な胸にしっかりと欲情できるのである。米村のことは頼まれても抱けないと思っていた彼だが、異世界美女上司を抱いたことで男としての自信を備えてしまった。今や女体への探究心ただそれだけで十分に、面倒な女の対応をするだけのエネルギーになるのである。


『今母親の世話終わって帰ってきた』

『今自習室。明日なら空いてるんだけど』


 お疲れ様の一言すらない、相変わらずの米村の返事は早い。いやいや俺の方が会ってあげると言っているんだぞ、中級錬金術師兼美女サーファーのこのアリス様が。そんな優越感に浸ってニヤつきながら『なら飯でも』と返信をする、互いに愚にもつかないやり取りをして、彼らはついに二人で約束を取り付けた。頼貞青年は読者の皆々様に謝罪しなくてはならないだろう、「エディプス・コンプレックスは実在しました、ごめんなさい」と。


───


 米村とはまた新宿駅で会った。母がいる実家に泊まることは考えられなかったため新宿駅近くに宿をとっていたから、今日の目標は彼女のトークをうまく流して前回は避けた『誘い』をすることである。ところがそれも虚しく、相変わらず米村との会話は恐ろしく社会的であった。


「低賃金労働者って正直差別しちゃうよね。そもそも低賃金労働者って障害者も多いでしょ、そういうのと同じ街で暮らすのって怖くない?」


 十八歳の二人でも入れた小洒落たカフェ風のバルで、米村はノンアルコールカクテルを飲みながら尖り切った話題を持ち出す。最終的な彼女の論の着地点は『治安のいい街で暮らせる財力を得るためにいい大学を出たい、あわよくばそんな財力のある男と結婚したいがそういう男は大抵モラ気質であるから、この国での女は生きづらい』であろうと予想はつくのだが、頼貞はあまりにもギリギリな話題に返事に窮していた。


 函庭は財力がある都会だと言える土地ではない。昔の日本にも似た封建主義的絶対王政で、農業と漁業以外にこれといった産業もなく、こちらの東京や札幌などと比べたら全体的に貧しい土地で、いわば多くの国民が『低賃金労働者』だ。科学院の前で身障者の物乞いに出会ったことも何度かある。それでも物乞いに直接的に攻撃されたこともなければ暴走族もいないし、女子生徒などは夜に出歩くことをしないのが常識であるから危ない話もあまり聞かない。世界間を繋ぐゲートにも近いし、頼貞もといアリスからすれば十分に住みやすい土地ではあるから、そこで暮らした経験をもとになんとか平和な返事を捻り出す。


「日本社会が厳しいのは事実だけど、こちらがまず住む土地を選べばいい。英語ができれば外国でもいいし」

「でも私実家から離れたくないし。都内の実家ってアドバンテージでしょ」


 やっぱりこの女とは無理かもしれない、と半ば絶望が脳裏を過ぎる。「言いたいことはわかる」となんとか誤魔化し、今夜は一人でホテルに帰る想像をしている頼貞のことなど構わず米村は持論を次々に展開していった。その一割も同意できないので、頼貞は女の顔立ちに注目する。異世界上司に似た丸い目と小さな口。「だめ、もう……」と呟いた上司の艶やかな唇の甘さを思い出すと、腫れぼったい米村の目や汚い言葉も霞んでくる。俺はやるぞ、と心に決めていれば、気がつけば『結局全ては男が悪い論』にも「そうかも」と返していた。


「蟻巣くんって男だけど話しやすくて助かる」


 店を出る頃には米村は上機嫌になっていた。これはいけるだろうと思った。


「今日のホテル、駅前の取ったんだけど」


 米村は足を止める。


「え? 何、キモ……。ごめんけどそれは無理」


 この間は誘わなかったからって童貞だと揶揄してきたのに。頼貞はショックだった。塩顔とはいえ肌もケアしていて身長も一七四センチというちょうど良さ、これまでの人生でキモいと言われた経験は全くなかったのである。こちらの世界はやはり不条理であった。

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