第六話 硫黄 Part 1
アリスが家庭教師を始めてから一ヶ月が経ち、城の錬金設備はほとんど彼専用の実験室と化していた。家庭教師の仕事のある月水金には夜遅くまで篭っているし、時には錬金室に持ち込んだ寝具を使って床で寝ては朝になって科学院の寮に帰るような生活をしているものだから、とうとう皇帝の計らいで使用人部屋の一つが彼の寝室として与えられた。それでもたまに錬金室で寝ているので、深夜にトイレに行こうとして出くわした見回りの兵士に刺されかけたこともあった。それほどまでにのめり込んでいるものだから、いよいよ中級資格の取得も間近に見えてきた。
中級錬金術師の認定のためには、中央科学院の校長だけではなく隣国にある『陽国教会』からの派遣錬金術師のサインが必要だという。皇帝シロフォンもノリ良く自分が推薦したいと言い出したのでこれも取り計らってもらい、ついに六月の中旬、教会の錬金術師を皇居に呼んで試験が実施されることになった。校長もついでに皇居に入りたそうにしていたが、それは断ってサインだけもらった。
そして当日、書類を揃えてからアリスは皇居の錬金室で最終調整をしていた。
事前に「邪魔しないでください」と言っていたおかげで兄妹の侵入は免れたが、テレスはしきりに「僕もアリスがテスト受けるの見たいな〜」とつまらなそうにしていた。そんなテレスからは導線として使えそうな髪の毛を数本奪ってきているので、終わったらお礼は言ってやろうと思っている。なおもっと長くて使い勝手が良さそうなのでコンスタンティナからも拝借しようとしたが、それはテレスに強く止められて叶わなかった。
「アリス様、術師様がいらっしゃいました」
ノックの後チャールズが顔を見せる。頷くとその後ろから女がやってきて礼をした。
「陽国教会つきの上級錬金術師、イシスと申します。今日はよろしくお願いします」
イシスと名乗る女が顔を上げる。てっきり教会の堅物牧師おじさんが来るのだと思っていたから、若い女性だと知り少し驚いた。儚げだが目鼻立ちの整った彼女の、イシスという名はエジプトの豊穣の女神の名だが、その女神は錬金術にも通じていたという伝説がある。この世界では錬金術に明るい家庭で子供につけるのにポピュラーな女性名であることは想像に難くない。要するにエリート中のエリートだろう、そう想像しながら「アリスです」と軽く会釈しては、美女の登場にやや動揺してソワソワと錬金器具を触る。
「中級錬金術師の資格認定ということですね。初めに少しだけ面接をさせてください」
チャールズが椅子を引き、二人は器具の並ぶテーブル越しに向き合うように座る。資料に目を通してから、肩口で切り揃えられた蒼色の髪を軽くかきあげて耳にかけると、では、とイシスは微笑んだ。
「これまでの経歴と、錬金術師としての今後のキャリアプランを教えてください」
「はい。日本国で高等学校まで出ました。高校は普通科ですが独学で錬金術の理論の勉強を。この春に函庭に来て、初級錬金術師の資格を取得後に皇居で教師をしています。中央科学院にも在籍していますので、あと二年半そこで学び、卒業後は独立研究所を持ちたいです」
さらさらとそこまで喋ってから、あー、と付け加える。
「独立前までに上級の資格は取りたいです。早くて今年中に」
イシスは「まあ」とくすくす笑った。確かに驚きもあったが、それ以上にアリスの野心に思わず笑ってしまったようだ。
「あら……、失礼。いいえ、否定しているわけではありませんわ。それに初級錬金術師の資格取得から一ヶ月で中級を受けられるのですもの、きっと叶うと思います」
「はあ、どうも」
微笑みながらイシスは「ところで」と続ける。
「あなたの手を見せてくださる? その手袋は?」
「ああえーと、杖です」
「杖?」
手を出してと言われて机の上にグローブを嵌めた右手を乗せると、イシスはグローブを吟味するようにアリスの手に触れた。少し冷えた細い指先で手のひらの皺をなぞり、手の甲側もじっくりと眺める。
アリスのグローブは今や手にすっかり馴染んでいるが、この世界の人間に生まれ持って備わる『魔法を操るための才能』とも言える物質『プリマ・マテリア』を補うためのものだ。今ここで外せと言われてしまうと、錬金術の操作はできても最終的な性質化合や元素生成を行うことが手軽にできないので少し緊張する。
ただしその緊張がグローブによるものか、久しぶりに感じる女の手の感触によるものなのかは少し疑問が残る。女の柔らかで繊細な指がアリスの指先に触れ、そっと離れると、アリスは右手を引っ込めると同時にちょっと嗅いだ。
「確かにプリマ・マテリアの『気』を感じますわ。いいでしょう、あなたが裏世界からいらしたことを鑑みて、着用したままの受験を認めます」
「はあ、ありがとうございます」
「それでは実践に移りましょう。すでにお伝えしている通り、決められた課題はありません。ご自身で得意とする作業を実行して見せてください」
イシスが立ち上がるとアリスも倣った。イシスは少し離れた場所に再び着席し、もう一人後ろに控えていた試験見届け人からバインダーを受け取った。見届け人も並んで座り、イシス、見届け人、城の使用人数人が見守る中、アリスは机に広げた器具を前に宣言をする。
「俺が提唱するのは新たな術です。ただしこれは実現の途上にありますから、まずは基礎的な操作から始めます」
アリスはまずビーカーに亜鉛板、電解液として薄い硫酸と銅板を入れて、銅線を繋ぎ電球を光らせる。これは簡単な電池の原理で、錬金術の関わるパラダイムとは違う。教会の錬金術師は難しそうな顔をした。
「電子はこのように、抵抗によって様々なエネルギーに変化しますね。では電子のような魔法エネルギー粒子、あるいはそのような量子が存在するとしたら。抵抗の種類を変えれば、魔法エネルギーもその他の形に変換することができると考えます」
電池一式は引っ込めて、錬金釜やフラスコを並べてもう一度試験官の顔色を伺う。彼女は黙って、バインダーに何かをメモする。
「ただし魔法エネルギーとはもともと四元素に備わる自然の力に依存するもので、変換は容易ではありません。うちの皇太子レベルになると無意識にやってる訳なんですが、俺みたいな異世界人にはできない訳ですね。そこで、魔法に関わる『性質』を粒子的に捉えた場合の『核』を同定することを最終目標として、この電子のように『性質』を取り巻く粒子および物質の同定、その前段階としての『性質の単離』をお見せします」
そう言ってフラスコに土を入れた。テレスの髪の毛を
「この石は玄武岩です。火成岩のうち地表で急冷された火山岩で、この世界では水元素との相性が良く、最も粗雑な魔法石としても知られています。粗雑すぎて現代で使っている魔法使いはいないと聞きますが……。石の組成は主に土元素、火成岩ですから火山由来のわずかな火元素、そして抜けきらなかったわずかな風元素。水元素を加えると全ての元素を包含した『安定物質』になっていくからこそ水との相性がいいんですね。ともかくこれで、今このフラスコには全ての元素がある状態になっていることが明白です」
石には多数の空隙がある。風元素の含まれる隙間の話を認識し、イシスが「続けてください」と呼びかけるとアリスは頷いて、それを純水の中に落とした。早速空隙に水が入り込み、泡が発生する。フラスコに二又になった管と送風口がついたゴム栓をして、二又の一方を別の、テレスの髪を入れたフラスコに、一方をポリ袋に繋いでそれを
「
物質を変性させ、金を錬る
「この中には熱と乾の性質が昇華されています。火元素の元になるものですね。これでは単離したことにはなりませんが、別々に昇華された二つの性質はまだ結合していません。まあちょっと刺激を与えればこの通り、結合を済ませる訳ですが」
アリスは予告もせずにポリ袋の横で指を弾いた。プリマ・マテリアの含まれたグローブによる『プチ魔法』によって性質が結合するや否や、ポリ袋は大きな音を立てて燃え尽きた。
「本題はこちらです。余剰な水と風を加えて玄武岩から湿の性質を抜きつつ、安定物質化する途中でアタノールで熱を加え、さらに『結合先』を用意してやったことで、熱と乾が火の形でこちらに出た一方で、残った冷だけをこちらに単離しました。すでに空気中の水分、湿の性質と化合し始めていることがわかるでしょう」
炉から取り出されたとは思えないほどに冷え切ったフラスコは、空気に触れると水蒸気を発して表面は結露し水滴が凍結し始めている。水滴を拭き取って、中の髪の毛が見えるようにする。
「このままだと危ないので、元素に変換して安定させますね。俺も手が霜焼けになっちゃうんで」
ゴム栓を抜くとフラスコが内側に向かって収縮するように破裂し、ガラス片に混じってその場には砂がサラサラと流れ落ちた。冷の性質が周囲の空気の『乾』と結びつくと同時に土に変化するように道筋を決めたのが髪の毛の役割である。これが烝解であり性質の単離です、と自信満々に伝えるが、試験官はまた悩ましい顔をしていた。
「ご説明をありがとうございます。ですがその性質の単離、誰もが普通にアタノール内で行っている操作を見えるようにして、それをどのような方向に活かしていけるのかが少々疑問ですわ」
「ええと、それは最初に言いましたとおり、元素変換のために元素の核と性質を分離することで変換を簡単にする理論を構築しようと思っていまして。確かに魔法の窯があれば性質を分離して再結合するのは簡単ですが、具体的に言語化して釜の外に『単離された性質』を持ち出すのは独自の技術というか……」
「面白いとは思いますわ。性質が結合する時の密度変化によって空間の収縮が起きるという点も。しかし我々の術の本質はどこにあると思いますか?」
「それは核に……、あ、ああ」
指摘を受けつつ口ごもるアリスは慌てて残されていたフラスコから玄武岩を取り出した。変性されたそれは水元素を多く取り込み再凝集して、形は歪ながら青く光る錬金石へと固定されていた。試験官は笑顔を見せる。
「とても素敵な色だわ。少し形が悪いけれど、錬金術は成功」
小さく拍手をして、しっかりと成功を伝えてから彼女は錬金石をアリスの手から受け取った。軽く叩くとこびりついていた石のかけらや土が落ち、澄んだ青色の宝石となった物を眺めてから光に透かすようにして、石越しにアリスを見つめる。
「しかしね、アリス様。錬金術とは物質のそれ自体を変性する神の術。変性の過程を理論化することは確かに重要だけれど、求められるのは結果だわ。あなたのいらした世界の科学とは『パラダイム』が違うのだから、元の世界のパラダイムをなぞるだけでは『石』は完成しない。今一度そのことをよく考えていらして」
イシスは笑顔のままゆっくりとそう指摘した。アリスは黙り込んだ。
───
陽国というのは異世界の国の名前だ。位置としては東京の裏側にあたり、日本列島に相当する土地にある
各国間の移動は東京側の─こちらからしたら『裏世界』と呼ばれる─世界のように飛行機でとは簡単にいかない。最近では一度裏世界に出て飛行機で移動することもあるらしいが、今回のイシスは各地に点在するゲートを乗り継いできたらしい。
「本国にも行ったことはありますわ。でも『電波酔い』がつらくて……」
皇后が呼んだ晩餐の場で、イシスは恥ずかしそうにそんなことを言った。
「電波酔い? アリスちゃんはある?」
皇后が話を回してくる。アリスはすでに慣れたはずのテーブルで、食欲がわかずにちまちまとパンをちぎっていたところだった。中級試験は正直、楽勝だと思っていた。それが思った以上に目の前の女性からの追及が鋭く、自信を失っているので致し方ない。
「俺は電波は感じませんけど……、逆にこっちにきたときはなんか酔いましたね」
「まあ。似たような現象が起こるのですね。パラダイムの違いに体が順応する過程で起きるのかしら」
「いや厳密には違うと思います。パラダイムってのは突き詰めると『科学的考え方』という人間が定めた曖昧な定義のことなので、確かに考え方の大きな変化は混乱を生む訳ですがそれが直接脳に『酔い』として作用するわけではありません。電波酔いはおそらく電波による刺激作用を敏感に感じちゃうだけで、俺の魔力酔いも空気中にあるなんらかの魔力物質とか元素の性質とかに過敏になるので、それぞれ目に見えないなんらかの力を体が感じるのにそれが見える訳じゃないから酔いとして自律神経の混乱を招く。もちろん広義のパラダイムの違い、つまり生活インフラの根底が電波にあるか魔力にあるかの違いで生じる感覚、心的にも体的にも感じるそれ、の差異への順応と言う意味ではイシスさんの言ったことに間違いはなくて……、多分。知りませんけど」
アリスはなんとなく拗ねたまま早口でブツブツ語ってから俯いてパンをちぎる。しかしイシスは優しく笑って頷いた。
「まあ。ええ、その通りね。私も言葉遣いには気をつけなくちゃ。ふふ、あなたは素晴らしい家庭教師さんだわ」
「へえー。そんなもんなんだ」
話を聞きながら、わかっているのかいないのか、皇后は呑気な声を出した。
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