第五話 それゆけ函庭フライヤー号 Part 1
今日はよく晴れている。梅雨がない函庭の初夏の気候としては良くあることだが、乾燥している上に、皇太子は少しご機嫌斜めだった。
「今日はアリス来ないの?」
曜日、という感覚は彼らには薄い。もっとも裏世界から輸入された週七日の暦は適用されており、今日は日曜日に当たる日だが、毎日なんとなく変わらぬ日々を過ごす皇太子にとってはあまり関係のあることではなかった。
「月水金でお願いしておりますので。それに休暇をいただいておりますゆえ、早くて次は水曜日、明明後日の予定ですね」
「休暇? なんで?」
「あちらの世界で色々おありのようですよ」
チャールズは息を吐きつつ数学のテキストを捲る。皇太子の歳には少し早い「方程式」の項目は、やはりテレスにはかったるいようだ。ガウスの定理「n次方程式の解は必ずn個存在する」とガロアの定理「五次方程式以上の方程式は代数的には解が得られない」を続けて聞いたものだから、テレスは「じゃあ結局なんなの」と完全に理解を放棄してしまっていた。
「あっちの世界って、本でしか読んだことないけど面白そうだよね。行ってみたいな」
「もう今月末にはパスポートが出ますが……」
「そうじゃん!」
ペンを置いてから十分、テレスはついに勉強机を立った。チャールズが咎めても、テレスは書棚に駆け寄って持ってきた本を机に置く。『ひこうき』と書かれた絵本は古いものだが、裏世界で執筆されたものだ。最近になって城の書庫から見つけてきて、気に入って部屋に置いている。
「あのね、飛ぶのは車じゃなくて飛行機って言うんだ。僕も乗れる?」
「……そうですね、パスポートがあれば。しかし殿下、お一人で行くつもりで?」
豆鉄砲を喰らった顔。テレスは腕を組んだ。
「シティと一緒じゃないとやだな。でも二年待つのは遠すぎる」
「保護者がいれば……」
「ならアリスに連れてってもらおう」
テレスはもうすでに心を決めたようだ。飛行機の絵本をめくり、楽しそうに語る。
「昔は頭についてるプロペラを回してたんだ。そうすると風の流れができて機体を持ち上げる。今のジェット機はそれだけじゃないけど、やっぱりその翼で風を操るんだ。魔法がないのにどうしてそんなことができるんだろう。魔法でやろうとしたって、こんな大きくて重そうなものを浮かべるなんて大変なことだよね」
「アリス様に解説していただかねばいけませんね」
「今日はいなくてつまんない」
「おやおや」
頬を膨らませて本を閉じる姿にチャールズは少し驚いた。妹や自分にばかり甘えて過ごしていた皇太子が、いつの間にか裏世界の知識とその宣教師にのめり込んでいる。
「向こうの世界に行ったらさ、知らないことがいっぱいで、何でも面白く感じると思うんだ。でも留学するっていうのはやだな、知らないことは好きだけど知らない人は嫌いだ」
「殿下に学校は合いませんでしょうね」
チャールズは納得して頷く。しかしながら実際、「見識を広げる」という名目での異世界修学旅行は彼の成長の為になるかもしれない、自分もこっそりと後を追うからと皇帝らを説得し……、とはいえ前回の科学院訪問での様子を見た限りでは許可が降りるのはいつになるやら。チャールズが思考を巡らせているうちにテレスはもう勉強を完全に放棄してソファに転がりに行ってしまった。
───
次の水曜日、家庭教師はプロペラ機のラジコンを持って皇居へやってきた。実際に飛ばすことができるおもちゃだと知るや否や、テレスは大喜びで家庭教師を中庭へ案内し、コンスタンティナもご機嫌で後を追った。
「動かす前に、パラダイムの違いの復習も兼ねてまず聞きたいんですが、あなたならこの飛行機をどう飛ばしますか」
赤と銀で塗られた機体に大きな2枚重なった翼、前方のプロペラ。感動して触って持ち上げて眺め回しているテレスの前で芝生の上にレジャーシートを引きながら、家庭教師は問題を提示する。
「どうって……、風を起こしてそこに乗せる? このくらいの大きさだったら、そこまで大変じゃない」
「やってみてください」
テレスは頷いて、飛行機を掲げて立つと軽く放り投げる。周囲の植え込みや花壇の花々が揺れたかと思うと旋風が吹き、飛行機は回転しながら上空へと飛び上がった。近くでクローバーを弄っていたコンスタンティナも風につられるように側にきて、やがて錐揉み回転しながら墜落するまでを見守った。アリスは少し慌てて取りに行き、機体の無事を確認してから再びそれを広げたレジャーシートの上に置く。じゃあ続きですがと言いながら、ラジコン飛行機の機内から筒形の物体を取り出した。
「これは電池と呼ばれるもので、二つの電極に備わる金属の化学反応によって発電し、回路に組み込むことでエネルギーを何らかのモーターに流すことができる代物です」
テレスは早速混乱しつつ、魔道具のようなものなのだろうかと首を捻る。
「でん、何? もう少し易しく言ってよ」
「えー、難しいこと言わないでください。ともかく電気っていうのが、向こうの世界のエネルギーの基本だと思っていただければ結構です。まあまずはこれを分解しますか」
「え、え、大事なものじゃないの?」
筒形の物体に対していきなりニッパーを押し当てるアリスにテレスが慌ててラジコン本体を掲げて見せるがアリスは止まらない。あっという間に筒を破き、ラジオペンチで円形の蓋を引きちぎって内部から棒を抜き出した。シートの上にバットを乗せ、棒を置くとそれにまとわりついたゲル状の物質が垂れる。
「何それ、ばっちい」
「これが電極です。筒の中には二酸化マンガンとゲル亜鉛が入っていますね」
さらに紙に包まれたゲル状の物質が抜き取られ、筒の中には黒い粉っぽい物体が残る。この黒いのが二酸化マンガンでゲルが亜鉛と電解液の合剤だとアリスは説明した。こっちは何、と紙を触ろうとするテレスの手は即座に掴まれる。
「電解液には水酸化カリウムが含まれてます。タンパク質を瞬時に溶かすほどの強アルカリです。指溶けますよ」
テレスはヒエっと悲鳴をあげて指を引っ込めた。
「この紙はセパレーターです。イオンだけを通すようにできています」
「イオン?」
「電気を生む仕組みを、今は『化学反応』と紹介します。二酸化マンガンと亜鉛という物質の化学反応の過程でエネルギーが生じます。エネルギーの流れを起こすには道が必要ですね。こんな感じで道を作ってやるわけですが」
アリスは分解した電池の中身をバットに整列し直し、電極のある負極に銅線をつけて豆電球と繋ぎ電極はバットの中のゲル状の亜鉛に押し当てた。コンスタンティナは既に理解を諦めてクローバーを摘みに行ってしまったが、テレスは唸りながら粘っている。
「まず亜鉛は酸化するときに電子を放出します」
「ええ、電子って何」
「簡単にエネルギーを持った玉のようなものと思っていいです。量子論では波として説明されますが今はいいでしょう。さてエネルギーの玉の行き先を決めてやるために、こんなふうに正極に繋いでやります。これが回路です。この電球という器具は内部のフィラメントを電子が通過する際に電子同士がぶつかり合うことで光を発することができますが、ここで初めて電子がエネルギーとして活躍する訳ですね」
言いながら銅線の一方を筒の中の黒い粉に押し当てると、早速豆電球は光り出す。不思議な現象ではあるが、テレスはまた納得行かなそうに首を傾げた。
「正極側にある二酸化マンガンが電子を受け取ると、酸化マンガンとして還元されつつ水を電離させて水酸化物イオンを出し、セパレーターを通過して負極側に移動します。するとその水酸化物イオンが亜鉛を酸化させて、陽イオン化する過程で電子を生み出す。この反応の繰り返しによって電子が連続的に生み出され、電気が流れるわけですね。酸化反応と還元反応は同時に起こるという化学的性質を利用して、おまけの電子をエネルギーとして抽出しているんです」
アリスは早口でその仕組みを解説したが、テレスには一割も理解不能だった。化学の基礎も知らない九歳児相手だろうと全く容赦がないため、テレスにとって彼の授業はたまに謎の呪文を聞くだけの時間になってしまう。だいいち、そんな訳のわからないことをしなくても、こんな豆電球ほどの明かりをつけるくらい簡単な魔法で解決できるのに。
「さてここからが本番です。これを魔法で再現しましょう」
「えー、もうこれでいいじゃん」
テレスは豆電球と同じくらいのサイズの光の玉を浮かべるようにして指先に灯してみせるが、アリスはノンノンと指を振った。
「魔法式の乾電池を作るんですよ。この筒のサイズの機構で大きな動力を生み出します。今回は水元素を風エネルギーに変換し、風の力でプロペラを回す構造にしましょう」
「風で直接浮かせるのじゃダメなの?」
「それだとラジコンの意味がないんでぇ」
「ラジコンってなにさ、ねえまずは普通に動かしてみたいよ」
「いやでーす」
家庭教師は笑いながらまた機体を壊しにかかる。プロペラを外し、その根本からモーターを引っこ抜いてそれもバラバラにしてしまう。モーターの電磁石の部分を取り除き、力をかけるとプロペラが回転する機構だけを残した。
「まずは錬金元素の変換についておさらいしましょう。水を風にするには?」
続いて話しながら地面の、芝生が禿げたあたりに木の棒で図を描いた。真ん中にプリマ・マテリアを置き、四方向に伸ばした矢印の先に各元素『火・水・風・土』と置く。隣り合う水から風へ矢印を引っ張り、そこを軽く叩いてみせると、テレスは首を捻る。
「えっと、『冷』の性質を『熱』に組み替えたらいいんだ。『湿』はそのまま」
プリマ・マテリアから伸びる矢印の上にテレスは『性質』を書き足した。『冷・熱・湿・乾』の四種類の性質の組み合わせによって元素が生成されるという説に従い、そこから水元素と風元素の違いを見出して答えるとアリスはその通りと頷く。
「ではその組み替えには何が必要ですか」
「ええ〜、あっためたらいいのかな。なんとなく火の魔法でやっちゃう……」
「そうですね。具体的に解釈するなら熱を与えて水を蒸発させ、その蒸気に含まれるエネルギーに働きかけるとも言えるでしょうか。それでは熱をなんらかの方法で作り出して与える機構を考えてみましょう」
「魔法で『性質』を集めたらいいじゃん」
テレスが口を尖らせるも、アリスは異なるアプローチをどうしても試したいらしい。地面の曼荼羅に向かってもう一度木の棒を突き立てる。
「金属のイオン化のお話はしました。なぜそんなことが起きるのかというと、金属はそもそも小さな粒子からなるからです。まあ量子論では……一旦置いておきましょう。ともかくこの『粒子』がここでの錬金術でいうところの『性質』であると仮定しましょう。水に熱のエネルギーを与えるための『熱の粒子』を物質から取り出して、『冷の粒子』と入れ替え、風の元素を作り出す。そういう回路を作ればいい訳ですね」
「よくわかんないけどわかった。でもなんで水を使うの?」
「夢があるからですよ。ただの水から動力を生み出せたら楽しそうだなって。元ネタは燃料電池ですね、あれは水素と酸素の反応なので違う構造になりますけど。そっちはまた今度やりましょうねぇ。それじゃあ、作っていきましょう」
アリスはさらにマッチ棒と乾電池と同じ大きさの二重の筒形容器を用意し、マッチ棒を包むように粘土を巻く。その物体の形があまりにも歪だったので、テレスは貸してと言って綺麗なマッチ棒ロールを作っておいた。
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