第四話 帰省 Part 2

 こうして土曜の十二時、頼貞は西武新宿駅にいた。地元が同じ田村とは電車で出会うかと思ったが駅でも車内でも見かけなかった。彼には若干の遅刻癖があることを知っていたのでおそらく一本後の電車だろう。改札を出る前に書店に寄り、『最先端医療の七不思議』という本を手に取るとそのまま購入する。本を片手に開きながら、改札の先で人を待った。


「蟻巣くん」


 聞こえた女性の声に顔を上げる。スニーカーとごつめのリュックサックに似合わない若干フリルのついた半袖のワンピース、化粧けがなくパサついた小豆色のボブ。メガネこそかけていないものの、いかにもお洒落に無頓着な理系女子大生といった風貌の女は肩掛けストラップのついたスマホをおろして頼貞に歩み寄った。


「久しぶり」

「田村は?」

「まだっぽいね。てか急だね、四月から何してたの? 大学は?」

「えーと……」


 説明が面倒くさいなと思った矢先、駆け足で改札を抜けてくる男の姿があった。


「ごめん待った? 蟻巣くん久しぶり! 米村さんも」


 栗色の癖のない短髪にラフなポロシャツ姿の田村は、転びそうになりながら二人の前で止まる。身長が米村とほとんど変わらない彼の、屈託なく笑う姿は中学生にも間違えられそうだ。手を振りながら近づく半袖の彼の右の前腕には一本の裂挫創れつざそうがある。ジャングルジム事故の名残であり田村と頼貞の関係が続いている理由の一つだが、二人の間のある種の呪いでもあるそれのことは、今は心に留めておく。


「時間ちょうどだし大丈夫」

「お店ちょっと歩くけどいい? 新宿といったらカレーだよね」

「そう?」


 歩き出すなり田村が今日選んだ店の解説を始めたものだから、あまり喋りたくない頼貞は助かった。そうしてカレー屋に入り、席について水をもらうまで田村のおしゃべりは続いた。


「それで、蟻巣くん大学は?」


 田村のソロトークに飽きたのか米村が問う。田村に譲られるままにテーブルの奥に押し込まれ、隣り合う女子との距離感に迷いながら頼貞は水を飲む。


「蟻巣くんは留学してるんだよね」


 田村がすかさず口を挟む。助かったと思いながらコップを置いた。


「留学? どこ? ハーバード?」

「北海道」

「え?」

「の裏」

「裏?」


 米村はよくわかっていないようだ。解説係の田村が入る。


「函庭ってところだよ。陽国とか聞いたことない? 要するに異世界だって。蟻巣くんのお父さんは外交官でそっちと繋がりがあったから」

「異世界? そんなところで何を勉強するのよ」

「錬金術」

「錬金術? まさかあり得ない。そんな馬鹿げたインチキ科学」

「そうでもない。こっちの世界の医学や何やも大体錬金術から派生してる」

「だとしても時代遅れよ。それも三百年くらい」

「向こうではパラダイムが違うから現役なんだ」

「それで将来どうするの?」

「錬金術師として……」


 米村は不服そうな顔で詰めてくる。彼女がこうも詰めてくる理由はおそらく、頼貞と大学受験バトルをしていたつもりが不戦勝であったことが気に入らないというところだろうか。圧迫面接を受けている気分の頼貞の前で、田村は勝手にメニューを見ておすすめセットを三つ注文していた。


「よくわからないけど、蟻巣くんは賢いし何でもできると思うな。かっこいいじゃん、錬金術師なんて漫画でしか見たことないよ。僕あれ大好きだったな、『アバレン』」


 暴れる錬金術師、という漫画の話をしているらしい。頼貞もよく知らないが誤魔化そうとした矢先、米村が「あたしそれ知らない」と一蹴した。


「でもこっちの大学も受けたんでしょ」

「合格通知は来てたけど」

「何それ。どこ?」


 頼貞は黙った。受験先は米村の今いるという大学と同じだ。その話をすれば、彼女は勝ち誇り、自分も同じだが仮面浪人で東大を目指しているというマウンティングを延々と始めるのであろう。


 頼貞は正直、この女性に苦手意識があった。半袖からのぞく二の腕がどんなにふくよかで白く柔和で、その先に見える胸の膨らみが豊かで魅惑的であろうと、頼まれてもお付き合いなどはしたくない。現に頼貞はこの女性からの三回のバレンタインチョコに返礼をしたことがないのだ。


「米村さんは慶應大なんだよね。すごいなあ、さすが豊島一高の人って感じ」

「田村くんって高校どこだっけ」

「工農大附属高、言わなかったっけ」

「それどこ?」

「埼玉だよ。川越駅からバスが出てて……、そこしか受からなかったもんだから。部活ばっかりしてたから就活も乗り遅れかけて危なかったよ。今はもう少し勉強しておけば良かったと思うけど、僕にはこっちが合ってたみたい。大学行ってる人たちは尊敬してるよ」


 田村が陽気に話に入ってくる。こういうコミュニケーション能力というものを頼貞は知らない。やがてカレーセットがきて、田村は美味しい美味しいと一層ご機嫌になった。食事中も米村はなんとかして頼貞の現状が自分よりも下であることを証明しようと話題を振ってきたが、田村による完全無意識の防衛によって『異世界のある国の皇太子の家庭教師で城つきの術師見習いをしている』なんて余計な話をせずに済んだ。もっとも何を聞かれても漏らすつもりはなかったが。


 しかし現実は残酷だ。食事を終えて後は田村と帰るだけのつもりでいたが、あろうことに田村は夜は別の集まりがあるんだと言って雑踏の中に消えていく。西武新宿駅に取り残された頼貞は、米村の思いつきのまま駅ビル内のカフェに連れ込まれるハメになった。


「あたし、知的水準の低いやつと話すの時間の無駄って思う」

「田村のこと言ってる?」

「含めた、そういう人種のこと。そもそもカレーだって高くて、あいつは社会人なのに奢りもしなかった。格安イタリアンで喜ぶ二次元栄養失調女が好きな男より最悪」

「格安イタリアンが良かったってこと?」

「蟻巣くんと二人だったら嫌よ。それとも蟻巣くんも格安イタリアンで喜ぶ女が好き?」

「いや別に……」


 頼貞は一番安いオリジナルブレンドコーヒーを一杯だけ注文し、ケーキセットをノロノロと食べ進める米村のお気持ち表明を半分受け流しつつ聞いていた。


「受験勉強で時間も限られてるし、田村みたいなのに付き合うのもったいないなってこと」

「今の時間は無駄じゃないの?」

「蟻巣くんはこっち側でしょ。だからいいの」


 頼貞は精神分析医のジークムント・フロイトの語る『エディプス・コンプレックス』の話を思い出していた。誰しも異性の親に惹かれ、同性の親に反発する精神性があり、それをギリシャ悲劇のオイディプス王に擬えてそのように呼称するらしい。要するに、女は自分のお父さんみたいな人を好きになるし、男はお母さんみたいな人を好きになるのだそうだ。頼貞はあまりそれに賛成する気はないがこうも考える、『男はお母さんみたいな人を引き寄せてしまう』のかもしれない。人の悪口を言って、目の前の人に愛も配慮もないくせに、目の前の人は自分を愛してくれるはずだと甘えてくる。そういう女が二人も自分の周囲にいることは些か気分が悪く、それと同時にこの程度の人々に甘えられてしまうほどに自分のレベルも同等なのではないだろうかという不安に苛まれる。結局彼女の通う大学を受験したことを言わされ、それを蹴って異世界留学をしている旨を伝えてしまったことは頼貞の甘さであることは確かだが。


「でもさ、どうするの? 就職とか」


 城に雇用されればそれでいい気もする、現に今も学費を余裕で払えるほどのバイト代をいただいているし、さっさと上級錬金術師資格を得て研究室を作ると言えばおそらく相応の援助と生活には困らない程度の奨励費が皇帝から与えられるとも思う。しかし詳細を言うつもりのない頼貞は「そうかも」とだけ答えた。


「今どきいい大学出たらいいってわけじゃないのは私もそう思う。でも東大で院進してさ、修士卒で大企業に入れたらそこそこ出世コースでしょ。蟻巣くんもまあ、今は異世界で遊んでても、東大の院に来ればきっといい生活できるよ。学歴ロンダリングだよ、簡単に入れる研究科もあるし。まああたしはそういう人たち好きじゃないけどね、他の大学からわざわざ外部進学しても結局本当の東大卒じゃないんだから大きい顔しないでほしいし」

「そうかも」

「絶対そうよ」

「そっか。米村はよく考えててすごいね」


 頼貞の適当な相槌に、女は得意げに鼻を膨らませるのだった。


───


 カフェを出て、新宿御苑でも歩いてみないかという誘いは断って駅に戻る。誘いを断ったことで何らかの地雷を踏んだのか「蟻巣くんって童貞っぽい」と誹謗されながら、頼貞は高校時代同じクラスだった深山という少女のことを思い出していた。


 カルタ部のエースだった深山との関係は残念ながら一瞬で終わった、というか、二回ほどうまいこと両親不在の自宅に誘った以降は機会がないまま自然消滅してしまった。そんな鮮烈で儚い青春の思い出を米村は知る由もない。カルタ部で和装をすることもあるのにも関わらず金に近い茶髪に髪を染めていつでも化粧をばっちりしていた、それなのに偏差値70を超える高校でそれなりの成績を保っていた明るい勝ち組ギャルとの関係を例えばいま米村に伝えたところで、彼女は深山のことを徹底的にこき下ろすに違いない。情事の後に目の中に二つ黒目があった─カラーコンタクトレンズがずれたのだろうことは後になってわかった─ホラー映像のことも思い出して心を平静に保つ。


「また連絡するけど、異世界だとスマホ使えないんだっけ。手紙を送ったらいい?」

「多分送られてもすぐに見れない。MPWAを通して向こうに引き渡す必要があるから」

「それでもあたしはいいよ。すぐ返事がなくても気にしないけど、たまに近況報告は聞きたいかも」

「忙しくてそんな暇あるかな」

「なければないでいいんだ。こっちに戻ってきた時にメッセくれるだけでもいい」


 米村が食い下がるせいで改札も通れない。肩が突っ張ってきて、強く頭を振る。諦めた頼貞はその場で、メッセージアプリに手紙の送り方を記して送信した。


「それじゃあ」

「またね。連絡待ってる」


 母の心配も明日の無事の帰還も祈らないまま、米村はJRの新宿駅に向かって歩いて行った。


───


 翌日の母の退院付き添いは最小限のストレスで済ませたかった。病院に行くだけ行き、母と一緒にタクシーに乗って、頼貞は母と一度も会話することなく先に降りてまっすぐ新東京空港へと向かった。


 かのオイディプス王は、それと知らずに神託の通りに父を殺し母と交わったそうだ。成長する過程で一度でも父を殺したくなったことのある少年はそれなりにいるだろう。しかし母か米村かと性交したいかと問われれば頼貞は「死んでも断る」と言うだろう。何も知らなければ或いは、否それはない。思春期の少年が過ごした不条理に満ちた世界と今一度訣別し、彼は新しい自由な世界を目指してゲートを潜る。

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