第四話 帰省 Part 1

 家庭教師アリスの平和な日々はあまり長く続かなかった。朝早くに科学院の寮の部屋の扉をノックする音で起こされて、寝ぼけ目を擦りながら扉を開けると寮の管理人が困ったような表情を浮かべて立っている。


「電報があって……」


 電報。この世界にはインターネットなどない。そのため緊急の要件があれば電話をするか、電話通信─もっともこの世界に『電気』の概念はないので、名前を借りているだけで全く別物だが─を利用した電報という形でメールを送るのが一般的らしい。ともかく『緊急要件』であることはまず間違いなく、それはすなわちあまりいい報せではないことは明白だった。だとすれば皇太子関連か、そうでなければ科学院か、あるいは。


「それがね、外務省? からなんです。『成る可く早期に帰還求む』。……アリスさんは向こうから来られたんでしょう、おそらく本国へ帰るようにということかなと」


 アリスは頭を抱えた。できればこっちの世界で片付く問題であって欲しかった。外務省はMPWAのことだろう、そうなれば父からの命令だろうか。今更になって世界を超えて、なんの要件で呼び出すのか。


「それだけです?」

「それだけです。ええと一応、差出人はトオガネさん、ですかねえ」


 知らない名前だ。軽く痛む頭を押さえながら差し出されるままに電報を受け取る。


「とりあえず、今日すぐ帰ります。電報どうも」


 管理人はお気をつけて、と添えて扉を閉めた。アリスはどうしたものかと部屋を見回す。本国への帰還命令、内容は不明だが厄介ごとであれば数日は空けないといけないかもしれない。ひとまず今日のバイトを休むこと、帰りも見通しが立たないことをチャールズさんに連絡しておいた方が良さそうだ。しかしどうやって? 電報をお願いしようにも連絡先を知らない。悩んだ末に手紙を書くことにして、さっさとポストに出した。皇居宛に雑な手紙を出すというのは不敬罪かもしれないがアリスは知ったことではない。数日分の荷物をまとめ、ゲートへ向かった。


 二ヶ月弱ぶりの新札幌空港。季節はようやく春を迎えて、雪がない景色は少しだけ目新しく映る。そのままMPWA支部へ向かい、いつぞやの警備員に声をかけるとその場で待つように言われた。


「蟻巣くんだね」


 背後から声がかかる。振り向いて会釈して相手を見る、父よりは幾分か若そうな男は慌ただしく名刺を出した。『東金とおがね あきら』という久しぶりに見る日本人ネームに安心する傍ら、確かに電報の相手だと認めるとやや身構えた。


「蟻巣頼貞です。父が世話になってま……、警察?」


 名刺の肩書きに目が止まり思わず聞き返してしまう。よほど怪訝そうな顔をしていたのだろう、東金は苦笑してからすぐに真剣な顔つきで頼貞の肩を叩いた。


「警視庁の平行世界間連絡部署の者だ。落ち着いて聞いて欲しいんだが……」


───


 久しぶりに電源を入れたスマホにはいくつかの着信履歴と、メッセージアプリへの公式アカウントからのものと思われる999件の通知が来ていた。SNSなどをやらない頼貞にとってスマホは時々グーグル検索をするための板で、あとはメッセージアプリには付き合いのあった中高の同級生の連絡先と公式クーポンだかなんだかのアカウントが数件登録されているくらいだ。電話番号は初めてスマホを所持したときに両親と交換した他にはインターネットサービスに登録するくらいで、要するに今回の『着信』は残念ながら親インシデントであることがすぐにわかってしまう。履歴一覧を開くと地元の市外局番から始まる知らない番号から何件か着信があったことがわかり、東金に伝えられた番号と一致していた。


 電話をする場所にMPWA建物裏の路地を選んだのは単純に他に場所がなかったからである。深く息をついてから発信した。数回のコールの後、受付に繋がる。


「西田無総合病院です」

「すみません。お電話いただいてました蟻巣といいます。そちらにお世話になってる蟻巣 理子りこの件で電話しました。息子です」

「少々お待ちください」


 保留音はクラシックの『木星』だ。搬送された母親の容体を聞く前に聴くには壮大すぎる。大したことはないとはわかっているし、正直なところ世界を超越してまで呼び出されたことへの不愉快の方が勝る。頼貞は頭を強く振ってから建物基礎のコンクリートの出っ張りに腰掛け、貧乏ゆすりをしながら待つ。


「蟻巣様。お待たせいたしました。蟻巣理子さん、確かにこちらで一時入院されていますね。先ほどお父様からもお電話いただきまして、ええと、今はお二人とも札幌にいらっしゃるんですか」

「そうです」


 正しくは札幌の裏側なのだが大体合っているので余計なことは言わない。それにしても父も連絡は取ったようだが、この受付嬢の言い方だときっと見舞いになど行くつもりはないのだろう。


「あ、今担当医にかわります」


 また『木星』がかかる。しかし最初の数音で終わり、気怠げな初老男性の声が響いた。


「あー医師のサトウですけどぉ、息子さん? お母様ね、睡眠薬飲みすぎただけだからね、引き取りに来て欲しいんだけど」


 オーバードーズ未遂の患者などたくさん見てきたのだろうからこの雑な扱いも仕方あるまい。頼貞にとってもそれは割と日常だったから、想像通りだとため息をつく。


「今遠方にいてすぐに行けないんで、普通に退院させてください」

「それがさぁ、一応ウチのルールで、精神患者には付き添いがいるんだよね」

「父はなんか言ってました?」

「同じこと言われちゃったからさ、まあ親孝行だと思いなよ」


 それきり電話は切れた。


───


 東京行きの飛行機は一日十便ある。空港のキャンセル待ちのカウンターにすぐに乗りたい旨─本当は乗りたくなどないが─を伝えると、ありがたいことに夕方到着の便に乗れることになった。小雨の降る滑走路を眺めながら、もう一人の厄介者のことを考える。皇居宛の手紙は何時ごろに届くだろうか。今日は城の錬金実験室で好きなだけ遊んでやろうと思っていたのに、アリス先生は出張に行かなきゃならない。せっかくの異世界出張だから電池式のラジコンでも買って行ってやろうか、アルカリ乾電池を持ち込めばその電力は異世界でも扱えるはずだが、そのまま動かしても芸がない。それなら錬金術式の電池でも作ってみようか。それを組み込めば同じように動かせるかもしれない。


 一時間半のフライトの間に錬金電池のアイデアをまとめた紙をクリップボードに挟み、混雑した電車に乗り込む。地元駅に到着した頃には日が沈んでいた。


 強い雨が降っていた。傘を忘れたことに気づき、病院に向かうために急いでタクシーに乗り込む。帰りはバスと歩き、もといダッシュで行きたかったがこの分だとまたタクシーだろうなと考えながら降り、受付に名前を言って、六床の大部屋に通される。いずれも中高年と思しき女性たちの冷たい視線に耐えながら奥のベッドに向かうと、顔色は悪いとも言い難い姿の母と対面した。四十にして惑い続ける女は髪を薄い色に染め、入院中だというのに化粧で顔を整えている。


「何も言わないで」

「言うつもりない」

「死のうと思った。あの人も帰って来ないし」

「死のうとしたって会いに来ない人のためになんで?」


 両親の仲が冷え切っているのは頼貞も知っていた。それでいて何かにつけ、夫が自分を愛してくれないのが悪いんだとヒステリーを起こす母のせいで、父が単身赴任してからこれまで散々苦労させられてきたのだから、頼貞が今回の事件を憂鬱に感じているのも仕方がない。母の声を聞くと肩が突っ張り、頭をぶるりと振った。


「退院しろって。引き取りを頼まれたから来たんだけど。向こうの世界にわざわざ警察から連絡あったんだから」

「あの人は?」

「来ないよ。だから俺が来た」

「あんたが来たって嬉しくない」


 実の息子にひどいものだ。母は一度もこちらを見なかったが、認め難い事実だが自分は父によく似ていると思うので、顔面だけでも代わりになると思うのだが、そういう問題ではないらしい。


「で。帰るの? 帰んないの?」

「いや。あの家にいると孤独よ」

「帰んないなら入院費はどうすんの?」

「あの人の口座から下ろして。足りないならあんたが払って」


 頼貞は深く嘆息して、また頭を振る。同じ我儘でも、どこかの皇太子の方がよっぽどかわいいものだ。


「俺から父さんに来るように連絡するから、来なくても週末のうちにどうにかして」

「いやよ。絶対に連れてきて」

「知らないよ。じゃあ医者に後二日縛っておいてって言うから」

「縛るって何よ。私のこと精神異常者みたいに扱うのね」


 事実なのだから黙れよ、と言いかけて飲み込んだ。頭を三度ほど強く振り、前髪を直してから鞄を下ろすこともなく対面していたが背を向ける。


「何とかしてよね。家族でしょ。子はかすがいなんでしょう? 何のために痛い思いしてあんたを産んだのかわからなくしないで。あんたは今でもあの家政婦が好きなんでしょうけど」


 このセリフも何百回と聞いてきた。頼貞は振り返り、言いたいことを何重にも漉してからつとめて冷静に母に告げる。


「あのさ。家族だからってなんでも甘えていいと思わない方がいいよ」


 母の後の言葉は雨音に消えた。


───


 家に着くと、室内は荒れ果てていた。リビングに入ることは叶わず、頼貞はそのまま二階の自室へ向かう。


 自室もいくらか荒らされていた。母が勝手にまた『遺品整理』の業者を呼んだのであろう。それを見越してある程度片付けて出たので、古い漫画本や使い終わった参考書の類が売り捌かれたのか本棚ごと消えていた以外にはさほど困ることはなかった。クローゼットから掛け布団代わりになりそうなブランケットを引っ張り出し、そのままの形で残されていたベッドに腰掛けてから、ふとスマホを開く。


 メッセージアプリに来ていた999件の通知を無視していたのだが、何気なく開くと『人間』からの連絡が二件あったことに気が付く。一つは田村たむらという男からのものだ。小中学の同窓生の中で唯一親交がある彼からのメッセージは一ヶ月前の『久しぶり! 僕らももう大学生の年だね、きみは優秀だからいい大学に行くんだと思うんだけど、家から通うの?』というものと、つい昨日の『きみの家に救急車きてたけど大丈夫?』の二つだ。どちらもお節介な連絡だが、二ヶ月弱の間に二件だけというあたりが、あまり交友関係に積極的ではない頼貞と長く親交を続ける秘訣なのだと自分でも思う。頼貞は返信欄を開き、面倒臭がらずに返事をする。


『久しぶり。連絡ありがとう。今は函庭に住んでる。救急車の話は親、問題なかった』


 彼からの返事は早かった。通知としてスマホの上側に一部のみ表示される『返事ありがとう! 函庭ってゲートの向こうの? すごいね、お父さん外交……』まで見届けて、続きは後でいいかともう一つの連絡を確認する。


 差出人の名前は『米村よねむらつばき』だ。高校の卒業間際に連絡先を交換した女子生徒である。連絡が届いていたのはやはり一ヶ月ほど前だった。このまま無視しても構わないが、見てしまった以上放置するのも心地が悪い。


『蟻巣くんこんにちは。卒業式にいなかったけど、今は元気に大学行ってるのかな。高校同期のメッセグループにもいないから、なんとなく気になって連絡してみました。私は慶應理工で、今は日吉に通っています。でも仮面浪人だよ。よかったら近況とか聞きたいな』


 メッセージを読んでようやくその存在を明確に思い出す。米村という生徒は確かに成績がよく、頼貞とはクラストップを争っていた。定期テストで彼女が一位になり、頼貞は二位という時はやたら絡まれたものだ。頼貞はそれが正直面倒臭かった。彼自身が特段、成績というものに興味がなかったからだ。それはもちろん今のように興味のない授業にはとことん興味を持たないせいもあり、「関心意欲態度」の項目が減点される制度に納得していなかったのもある。学業成績や志望大学というものに振り回される周囲の学生との心境の隔たりを感じ続けていた高校時代で、確かに頼貞の心に悪い意味で印象を残した生徒こそがこの米村であった。先ほどの田村のように自分との距離感を掴めていない相手に返信する時間を割くのが勿体無いと思った頼貞は、スマホに充電ケーブルを挿して一旦身から離した。


───


 ところが翌日土曜日、頼貞は急遽、しかもなぜか二人の知人に同時に会うはめになる。


 きっかけは金曜日の夜寝る前に田村に返信をしたことだ。簡単に現状報告し、今は東京にいることを告げると返事はすぐに返ってくる。


『大変なところだと思うんだけどいつまでこっちにいるの? 色々話聞きたいしご飯行こうよ。ちょうど明日は休みなんだ』『実はさ、米村さんから連絡があって、蟻巣くんのメッセに既読ついたって。三人で会わない?』


 連続で送られてきたメッセージにはうっかり既読マークが付いてしまう。実際田村と会うのに問題はない。母の退院予定は日曜で、父が来るにしても来ないにしても一応付き添ってからその日のうちに飛行機に乗れるように手配済みなものの、土曜日は丸ごと暇だ。


 問題は米村の方だ。SNSの繋がりというのは恐ろしいもので、フェイス何とかだか呟きったーだか知らないが、ともかくそのようなツールの機能によって田村と米村は知らぬ間に勝手に繋がっていたらしい。頼貞の定期テストの点数に異常に執着していた米村のことだ、彼女から田村と連絡を取ったのであろうことは容易に想像がつくものの、頼貞にとってはあまり嬉しい事態ではなかった。


 続けざまにランチの店の候補が送られてくるものだから返事に窮するが、特段の問題は起こらないと信じていれば起こらないもの、アドラーも多分そう言っていた。頭を振り、自分に言い聞かせて返信した。

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