第三話 相見えて雨音

「テル、朝なの〜」

「ううん、まだ暗い。これは朝じゃない」


 皇太子がベッドの中でぐずぐず言っている理由は天気のせいだ。あまり年間降水量の多くない函庭で、今日は珍しく雨がぱらついている。気象病で低気圧に弱いテレスは体を揺する妹の手を掴んだまま頭を起こせないでいた。


「早く起きないとチャールズが来るの」

「それは嫌だ。うるさいのはもっとやだ」

「それでは起きてください、殿下」


 噂をすれば、小型の銅鑼どらを携えて足音も立てずにベッド脇まで来ていた使用人は銅鑼の縁を軽くばちで叩く。コーン、という控えめな音にも耳を塞ぎながら、ようやくテレスは顔を上げた。側近であり教育係のチャールズ・ヤンは、自分が現れたのと同じ空間拡張魔法を使って銅鑼を彼方へと引っ込めてから恭しく礼をする。


「おはようございます、テレス殿下。コンスタンティナ殿下」

「おはようございます」

「……おはようございます」


 不機嫌なままのテレスもきちんと立ち上がって礼をすると、チャールズはよろしい、とニンマリとした。枕元にあったメガネを妹から受け取り、寝る前に読んでいた本も持って二人は朝食テーブルに向かった。


「本日の予定を申し上げます」


 ベーコンエッグをつつき始める二人に向けてチャールズは畏まる。テレスはあくびをした。


「本日のお勉強は午前十時から。本日より私に代わり、家庭教師の方をお呼びしています」

「ええ!」


 思いがけない言葉にテレスは素っ頓狂な声をあげる。何よりも環境変化に弱い皇太子は早速癇癪モードに入った。


「なんで! 知らない人やだ!」


 これまでも過去に数人、家庭教師がついたことがある。その全てを「やだ」の一言で遠ざけていた皇太子のことであるから、チャールズにとってはこの反応は当然想定内だ。


「十二時には昼食を。本日はオムライスを予定しています」

「ねえ、家庭教師が嫌だって言ってるんだけど」

「シエスタの後、二時から午後の授業があります。おやつないし自由時間は四時からの予定で、その後は課題図書の読書に充てるなり……」

「ねえ聞いてんの!」


 テレスが立ち上がると室内の調度品が軽く揺れる。コンスタンティナは自分のスープ皿だけ軽く押さえつつ、意見を挟むことなく兄の様子を見守っている。


「ご質問は何でしょう」

「だからぁ、家庭教師ってなにさ。どうせまた厳しいうるさいおばちゃんでしょ」

「どうでしょうねえ。私もよく知りませんので」


 チャールズはご機嫌に嘯く。不貞腐れた皇太子は食事を終えるとソファに埋まりに行った。それを追って妹も隣に座る。


「シティもやだよね」

「僕はテルが嫌なことが嫌なの」


 少女は兄を真似してその一人称を使う。緩く首を振る姿に、テレスはまたひしと抱きついた。


「前みたいに一日で辞めさせてやるから」

「まあ、あまり『喧嘩』はなさらぬよう。また大揺れしたら堪りませんから」


 それでは楽しいお勉強を。そう言い残してチャールズは教師を迎えに出る、前に、厨房へ寄って今日のおやつはできるだけ良いものにするように、かつ念の為『耐震性のあるもの』を、と伝えたのだった。


───


 話は遡る。チャールズがその罪人と対面したのは事件の直後だ。


 「皇太子殿下と皇女殿下が視察先の科学院で異世界人に拉致監禁された」という情報だけを聞き、本人たちの無事を確認した上で皇帝陛下に深々と頭を下げに行った。


「私たちが悪いのよ、お話に夢中になっちゃって」


 皇帝は相変わらず気の抜ける話し方をする。皇后はそれに比べて素朴だ。


「テルちゃんの怪我も足を捻ったくらい。こっちにいたチャールズが気に病むことはないよ。シロちゃんの言う通り、私たちがあの子達をちゃんと見てなかったのが悪いんだ」


 シロちゃん、と言うのは皇帝陛下の愛称だ。倅たちのマイペースさもこの国の『ゆるゆる資本主義』も、この二人のもとで育った理由がよくわかる。チャールズはもう一度深く頭を下げてのち、問題の『自称錬金術師』のもとを尋ねた。


 函庭の皇居─城と呼称する者も多くいる─は街の中心地から外れた小高い丘の上にある。西洋と東洋のいいとこどりをしたような石造りかつ青い屋根瓦の張られた外観で、五角形に掘と塀が配置されているのが特徴的だ。塀の中には庭園やちょっとした原っぱがあり、中央にある建物は物見塔を除いて地上三階地下二階建のこぢんまりとしたものだ。


 皇太子たちの部屋は地上一階にある。昔は皇帝の執務室や厨房があった階だが、この度の皇太子の固有魔法に合わせて大規模なリフォームが行われた。庭の見える一角に寝室と勉強部屋とクローゼットを備えて、彼らの居住スペースにしている。代わりに厨房は地下に移動され、皇帝と皇后の居住スペースは二階に上げられていた。


 そのおかげで、地下には全体的に食欲をそそる香ばしい匂いが充満している。厨房のある地下一階から一段下の天井の低い地下二階でもそれは変わらず、そんなところに罪人や不届者を一時的に収容する牢屋があることは収容された者にとってはある種の拷問であろう。錬金術師は地下牢の奥の奥に閉じ込められていた。中央科学院に通う学生の制服兼実験服を身に纏って壁に凭れる姿は確かに聞いた通りだが、チャールズはその手のグローブをまず警戒した。何らかの魔道具であることは確かで、相手は何をしてくるかわからないという緊張感のもと、チャールズは彼に声をかける。


「お初に。皇太子・皇女殿下の側近のチャールズ・ヤンと申します」


 丁寧に挨拶するとその男は気だるげに体を起こす。


「そうすかどうも。とりあえず出してくれません?」


 その雑な態度に、看守が槍を持って近づいてくるがチャールズはそれを手で制した。


「錬金術師アリス様。先にお話をお聞かせ願えますかな。あなたは何の意図を持って殿下らに近づいたのでしょう」

「えーと、あの時にいらした付き人さんから話は聞いていないんですかね。俺は彼女に頼まれて皇太子さんを探しました。見つけた時には怪我をしてましたし、俺は彼と一緒に妹君を探したんです。妹君が自分で見つけたシェルターが準備室でした。なんでその話が通じないのか俺にはわかんないんですけど」


 男はやや苛立ったように見えた。チャールズも莫迦ではない、情報を頭の中で整理してから、不服そうな彼の目を見て告げる。


「心証が悪いのは、あなたが異世界人だからでしょう。珍しい存在ですからね。何でしたっけ、サッポロ?」

「出身は東京です。身内が札幌支所の外交官だった都合でこちらに錬金術を学びにきたんです。なのでこっちには慣れてもいないし、なんかすごい魔法も使えません」


 彼は面倒くさそうにしつつも丁寧に出自を述べる。チャールズも裏世界の知識は多少ある、少し彼に興味が沸いた。


「では今一度、あの場に出向した者たちに証言をいただくとしましょう。裁判という裁判にはなりませんのでご安心を」

「勾留にしても何もなくて暇なんですけど。何かありません? ここは皇居でしょ。なんか面白い錬金術の禁書とか見せてくださいよ」


 彼は壁に後頭部をつけたまま怠そうに宣う。毎日のように皇太子の我儘を聞かされているチャールズも流石に呆れた。それと同時に、ある愉快な思いつきが頭をよぎる。


「随分とお勉強熱心でいらっしゃるんですねえ」

「勉強しにわざわざ異世界に来てるんですよ、そりゃそうでしょ」

「しかし今の状態でそのまま放逐されたところで、あなたは皇太子誘拐未遂のペド野郎、という烙印を押されてしまいましょう」

「うーんと、言い過ぎじゃないすか。確かに皇女は可愛かったですけどぉ」

「あーあ」

「あーあ、よしてくださいね〜」


 異世界人は死んだ魚の目で天井を見た。半ば全てを諦めた表情だが、チャールズとしてはもう少し遊びたい。


「そんなペド野郎に、ちょっとした提案があるのです」

「ペド野郎って連呼しないでもらえますかね。違います」


 文句を続ける彼の視線に合わせるようにチャールズは屈んだ。男は面倒くさそうに顔だけ向ける。


「勾留中の暇な時間でちょっとしたアルバイトをしませんか」

「懲役刑じゃないですか、やだ〜」

「もちろんあなたの希望通り、錬金術に役立つアルバイトであることは保証しますよ。この城にも錬金術専用の実験設備があります」


 錬金術師は座り直した。何というか、皇太子と同等に欲に忠実な人だなと思う。


「設備が使えるってことっすね」

「ええ。1週間ほど様子を見させていただく間、お使いいただけます。ただし監視はつきますが」

「どこまで揃ってるんです? 釜の最高温度は?」

「そのあたりはご自身で見ていただいて……、当然、中央科学院と同等以上ですよ。アルバイトの成果によっては城付き術師として登用も……」

「やります」


 錬金術師の黒い瞳には光こそないが、既に半分立ち上がっていた。チャールズは満足げに笑みを浮かべてから、改めて『アルバイト』の内容を通達した。


───


 午前十時、皇太子の部屋にはあらゆるトラップが仕掛けられていた。

 まずは定番の、入り口の扉を開けると発動するもの。ただ汚い雑巾を落とすだけでは芸がないから、魔法で顔のあたりにジャストヒットするようにしてある。次に絨毯を踏んだら水が湧き出る仕掛け。さらにタイミングよく窓が開いて、強風で外へと放り出す。避けられた場合の予備として、テレスの座る勉強机の前に座ればたちまち椅子が床ごとせり上がる仕組みをつけた。上手くハマれば家庭教師はそのまま天井とサンドイッチになってしまうことになる。


 経験上、家庭教師として来るのは子育てが落ち着いたおばさんか、学校の教員を退職したおじいさんが多い。一度若い男が来た時があったがテレスと壊滅的にうまが合わず、テレスの癇癪によって酷い目に遭い翌日には辞めていた。今回も誰が来ようと突っぱねてやるという硬い気持ちで今回の罠を拵えた。コンスタンティナは終始一貫、テルがしたいならいいと思うの〜のスタンスでそれらが仕掛けられる過程を眺めていた。


「真面目なフリして座ってよう」


 二人は勉強机について、さあ勝負開始だ。


 扉が開かれる。魔法の雑巾が飛び出し、彼の顔面を襲う。


「よろしくお願いしまーぁ、あ〜」


 緩い言葉遣いで頭を下げた彼に雑巾がヒット。テレスはきゃっと歓声をあげそうになるのを堪えてわざと背を向けた。


「えーなんですかこれ。めちゃくちゃやだ……」


 見事に最初のトラップにかかった男は顔から雑巾を剥がしつつ歩き出す。忽ち男は絨毯の水に足を取られ、ジャンプして逃げた先で窓から吹き飛んでいった。トラップは大成功、テレスははしゃぎながら窓に駆け寄り雨の中庭に得意げに顔をだす。


「へっへへ〜ん! やーい、大丈夫〜?」

「大丈夫に見えます〜?」


 庭先の植え込みに突っ込んでいた錬金術師はよろけながら体を起こして葉っぱを取り払う。雨なので服の裾は泥だらけだ。見るも無惨な姿にテレスはうきうきだが、顔を上げたその姿にきょとんと目を見張った。


「何なんですか一体。てか中入ってもいいです?」


 気怠そうに言う彼には見覚えがあった。いかにもテレスにとっては一応の恩人であり、憧れの異世界人。そんな人物からの怒りも呆れも通り越した無表情の圧がそこにあった。


「どうもぉ。中央科学院マスター課程錬金科、初級錬金術師アリスです。まずはさっきの三種類の魔法について詳細のご説明を願えます?」


 テレスはむっと口を結んだ。ちょっと厄介なのに当たったかも、と不安を覚えた。


 テレスが午前の『授業』を終えた感想は「怖かった」だった。勉強机の椅子のトラップはかわいそうなので解除してのち向き合うと、その錬金術師は先ほどのイタズラについて機構とその過程でのエネルギー遷移を説明せよと言い出した。


 テレスは感覚的に魔法を使っているので何とも答え難い。答えに窮すると再現を求められた。


「ここの、絨毯の裏に魔法を仕掛けて……」

「その時点で水元素との反応は行われてるんです?」

「時間差で風を呼んで……」

「風元素を操る際にはどの座標を定義するんです?」


 わかんない〜とテレスがぐずり始めるまでそれは続いた。最初こそ家庭教師を何とかして追い払おうとしていたテレスだが、初めて感じる忖度のない『圧』に心を折られかけていた。「僕は皇太子殿下だぞ」が通用しない相手がこんなにも面倒だとは知らなかったのだ。


「ていうかさ、何できみが家庭教師なんかに? 学校の人じゃないの」


 それをようやく聞けたのは昼食の席だった。チャールズがわざわざ取り計らい、三人で部屋で食べるように食事が用意されてきたのだ。オムライスの上にケチャップで何を描こうかと兄妹がキャッキャしている間にさっさと先に食べ始めた家庭教師を見て、チャールズは少しだけ困ったが彼は気にする様子もなかった。


「あなたのせいですけどね、大体。捕まって審判が終わるまで勾留です。暇なんで紹介されまして。まあ初っ端から放り出されるとは想像してなかったですけど、あなたもガキだし馬鹿だから扱えるかなって」

「バカじゃないやい」

「土元素と結びつきの強い第一質量を持つ高貴な人物を観察できるのも面白いかと思いましてね」


 無礼なことを飄々と言う家庭教師を止めるべきか否か、チャールズや使用人たちは耳を欹てていたが、テレスは意外にも怒鳴り散らかすことはなかった。


「面白いかは知らないけどさ。シティも土元素は得意だよ」

「本当です?」


 反応の速さに、話を振られた皇女は目をぱちくりとする。


「土を呼ぶの。そうすると剣が出るの」

「その剣は土からその場で造られる?」

「ううん。そのまま出るの」


 人見知りをする皇女は言葉少ないが、それでも自分と兄の恩人であり、今後世話になりそうな者相手にはそれなりに心を開いている。チャールズにはそれも意外なことだった。


「午後はそっちの話を聞いても? 元素そのものではなく既存の物体に働きかけて転移させるというのは流石に魔法の領域ですから」


 素直にコンスタンティナが頷く。チャールズもテレスも意外そうに彼女を見ていた。


 しかし面接をされる妹に対して、シティは僕の〜と皇太子がぐずり始めるのは早かった。大剣を召喚し振り回す姿に家庭教師は大いに感動し剣の組成からコンスタンティナの腕から観察して問診してありとあらゆることを暴露しようとするものだから、ちょっと待ったと言いたくなるのはそれはそうだ。しかしテレスは妹の体が弄くり回される以上に、そんな家庭教師に対して素直に従う妹のそれ自体に不満を持っていた。


「ねえ、やだ、やだ。シティに変なことするな」


 家庭教師のマフラーを引っ張って抗議するとやっと家庭教師は床に臥した。


「絞殺する気です?」

「テル、僕は大丈夫なの」

「シティが良くても僕がやだぁ」


 べそべそとそのまま泣き出すと、妹がそばにしゃがんで頭を撫でてくれる。いつでもそうしてくれる妹にすっかり甘えている兄は、その膝で丸くなった。


「ええ〜」


 ちょうどそこにおやつのワゴンが到着する。チャールズが軽くベルを鳴らしながら部屋へ入ってきた。


「四時です殿下、お疲れ様でした」

「チャールズさん、これどうしましょ」

「いつものことですので」


 授業も何もかも放棄して丸くなった皇太子を見て、執事はため息をつくでもなく平然とテーブルを片付ける。二人分のタルトが並べられた。


「アリス様、いかがでした?」

「いや別に。それよりバイトは終わりです? 錬金部屋はどこですか、早速使わせてくださいね。監視は誰が来てくれるんです?」


 チャールズは呆れた。


 翌日もその次も、家庭教師はやってきた。テレスはシティに変なことするなと言いつつ、家庭教師から与えられる『魔法理論に関する考察』に何とか応えようと頭を捻り、コンスタンティナも並行してその体に宿したパワーの扱いとその理論を語られるままに聞いていた。家庭教師は時々眠そうだった。テレスが問うと、この城の錬金設備が充実しているから毎日遅くまで遊んでいるのだと言っていた。


「アリスは錬金術が好きなんだね」


 ある日の昼食にテレスがそんなことを言うと、しかし彼は首を捻った。


「好きなんですかね」

「好きでないと続かないと思うの」


 淡々とコンスタンティナが口を挟む。テレスも頷いた。


「僕も錬金術、もう少し頑張ろうかな。僕たちの持つ土元素との親和性はすごいってアリス言うし、ちょっと興味出てきた。それに錬金術のことならアリスなんでも教えてくれるでしょ」


 何日も語り合ううちに、テレスにはちょっとだけ目的意識が芽生えていた。アリスははじめ少し驚いたようだった。


「じゃあ明日は一緒に実験しますか」

「したい」

「するの」


 テレスは手を差し出す。小指を立てて家庭教師の前に出した。


「そうしようね」


 アリスは不思議そうにその手を見た。


「何です? それ」

「知らないの? 指切りだよ」


 小さな小指と、節の目立つ細い指が絡む。家庭教師として皇太子に認められた男の審議の結果は無罪と認められ、錬金術師は科学院の寮に帰された。皇太子の認定及び要請のもと、中央科学院から週に三回出向し、城の設備を使用できる代わりに皇太子及び皇女の教育業務も担う外部講師として勤務することが正式に決まったのは五月の半ばごろだった。

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