第二話 利かん坊主の白うさぎ

 この世界のルールは『錬金術』で説明される。


 第一質量プリマ・マテリア。第一質量を取り巻く四大元素があり、それに紐付く超自然の力を操るエネルギー遷移をまとめて『魔法』と簡単に呼称するようだ。


 この世界で生まれた者の体内にもプリマ・マテリアが存在すると考えられており、その第一質量と空気中にある元素を反応させてエネルギーを生み出すという。この世界に対する『裏世界』出身のアリスは当然ながら体内にプリマなんとかなど持たないからそのままでは魔法を使うことはできないが、代わりに『杖』を持たされる。形状はなんでも良いが、プリマ・マテリアと似た性質を持つ物体を織り込んだこの『杖』が自然元素と反応して、魔法もどきを使えるようになるのだ。


 アリスが杖として選んだのは右手に嵌めるグローブだった。余計な装飾品は好まないし何か特別なものを持ち歩くのも厄介だと考えた彼は、科学院に登校した初日に教員からどんなものが良いかと聞かれてそう答え、特注で作ってもらった。指抜きしてあるので普段の生活にもほとんど支障がないお気に入りだ。


 アリスがこの国に学びにきたのももちろん錬金術である。高校生時代に錬金術の存在を知り、独学で知識を深め、外交官である父の部屋にあった錬金器具で錬水銀の単離実験を成功させた。錬金術それ自体は魔法とは少し性質が異なり、元素の結合や分解はプリマ・マテリアが不在でもある程度の段階まで行うことができる。しかし物質の完全な純化や元素変性といった特殊な技法は四大元素の即時的な収拾と構造変化、つまり魔法の力がなくては成し得ない。大学進学を考えたとき、父から異世界への留学と本格的な錬金術を学ぶことを勧められて了承し、今に至る。


 この度の異世界移住で、プリマ・マテリアに近しい力を手に入れてからは大喜びで実験に取り組んだ。科学院の授業が終わると校舎内にある錬金実験室を借りて、かつての世界で途中まで成功していた錬金物質の純化を次々に成功させては学長に実験ノートを送りつけ、入学一カ月にして『初級錬金術師』の資格を授与されたのだった。


───


 そんな初級錬金術師アリスの朝は大体遅い。午前も終わるであろう時刻にようやくベッドから起き上がり、そのベッドから立ち上がった姿勢のまま目の前の洗面台で軽く身なりを整える。寝癖のつきにくい髪質は将来の禿げが怖いところだが、今のうちは都合が良いので未来のことは考えないようにする。


 制服代わりの白衣風のジャケットを着て、グローブを嵌める。これがなければこの世界のルールに則って生活することができない必需品だ。首元には気に入りの灰色のマフラーを巻き空気の波に揺られる覚悟を決めて外に出る。四畳半の寮室はほとんど監獄のようだが外よりも幾分マシだと思えるのはやはり、外気に潜む常に頭を揺さぶられるようなこの奇妙な感覚によるものだ。同級生に聞いたらあまり感じないとのことだから、やはり育った世界の違いなのだろう。本で読む限りでは『魔力の流れをそういう物理的な波のように感じる者もいる』とのことだが、事実は不明のままだ。


 午後一番の授業を受けるために教室に入ると、数人から奇異の目を向けられる。自分で勝手にカリキュラムを決めて不要な授業はサボタージュする『異世界人』を不思議がるのは無理もない。しかし中には気軽に声をかけてくる者もいて、アリスはそんな同級生を邪険にすることはなく軽い挨拶を交わすことにしていた。


 授業内容の理解は最初こそ難しかった。錬金術にはそれなりに精通し予備知識はあったとはいえ、この世界の『パラダイム』にはいまだに慣れていない。かつての世界に当たり前のようにあった技術、電気、工学、その基盤たるエネルギーそのものが異なり『魔法』として表現されるのだから無理もない。しかし数学理論だけは変わらなかったので、数学の授業ではあっさりとトップの成績を修めることができた。錬金術そのものの授業だけでなく他の科目でも、授業が終われば教員に質問を投げかけることは忘れず、『初級錬金術師』資格だけでなく教員たちからの『優秀な留学生』という評価と信頼を勝ち取るのは早かった。もちろん興味のない授業は受けないのだから、該当する教員からどのように思われていたのかはアリスの知るところではない。

 

 その日の授業終了後は少しだけ流れが違った。にわかに廊下の方が騒がしくなり、帰り支度をしながら数名の学生が廊下に顔を出しては報告するように教室内に声をかける。


「皇帝陛下が視察に来てるらしい」


 そういえばそんなスケジュールが配布されていたような。数週間前の記憶を辿りながら、アリスは興味なさげにカバンを持ち廊下に出て、騒動に巻き込まれまいと遠回りをして階段に向かう。そこまでは良かったのだが、人気のない階段の踊り場で明らかに慌てた様子の女性に出会ってしまった。


「あっ、学生さんですか!」


 逃げるというコマンドはないと悟ったアリスはその場で立ち止まり愛想笑いを浮かべるしかない。困り顔の女性は確かに学生らしくなく、小綺麗な出立ちや先の情報から皇室関係者であることは明白だ。騒ぎに巻き込まれるのは避けたいと思っていたのに運が悪い。うんともはいとも言わない間に、女性は詰め寄ってくるなりアリスに顔を寄せて小声で伝えてきた。


「突然にすみません、私は皇帝陛下の付き人です。お邪魔してます、その、少しだけいいですか?」


 ダメとは言わせない、ひどく困った雰囲気にアリスも徐々に諦めがついてきた。軽く深呼吸してから頷く。


「いいですけど、何かありましたか」

「実は……、この建物の中で、お子様を見かけませんでしたか。男の子と女の子、一緒にいるとは思うんですが……」


 さらに小声になって目を泳がせながら付き人は告げる。皇帝陛下の付き人が探している子供といえばどんな人物だろうか、さらに嫌な予感を感じながらアリスも声を顰める。少なくとも公に知れ渡ったら大問題になる、そんな気がした。


「見てないですね。学生の他には誰にも会ってません」

「そうですか……、あの、もし、見つけたら……」


 なんと伝えるべきか付き人も迷っている様子だ。それもそうだろう、自分の想像が正しければ、それを言葉にした時点でニュースになってしまう。アリスは嘆息し、承諾するように頷いた。


「わかりました。どこに連れて行けばいいですか」


 付き人は明るい顔になった。言葉にせずとも伝わったことの安堵もあるだろう。


「この建物の裏手でお願いします。どうか、あまり人に知られないようにだけ」


 付き人の女性と別れたアリスはまず屋上を目指した。目当ての『子供』がどのくらいの年齢かは知らないが、子供は高いところが好きだと思っている。自身の少年時代、少し付き合いのあった同級生がジャングルジムから落下したのを目撃して責任を追わされかけた記憶がふと蘇ったが、嫌な思い出なのですぐに切り替えた。ところが屋上に出る扉は閉ざされており、カードキーで開錠して進みどこを見回しても人の気配はない。無駄に悲しい記憶を掘り起こしただけとなった。


 次に向かったのは図書室。またしても自身の少年時代を思い出す。今は単身赴任で家にはいない父の部屋はもともと大きな本棚がいくつも並んでいて学校の図書館のような風貌だった。蟻巣頼貞少年は時々その部屋に侵入して本を読み漁ったものだ。今となっては母の機嫌が悪かったタイミングで呼ばれた『遺品整理』業者の手で伽藍堂にさせられてしまったわけだが。


 本学の図書室は本館と別館にそれぞれあり、さらに大きな書庫が独立した建物として敷地の隅に存在する。この建物、本館の図書室もそこそこの広さと蔵書量を誇り、アリスもお気に入りの場所だ。皇帝来襲の騒ぎに乗じて司書も出払って、閑静な室内には日差しが差し込み穏やかな昼下がりを演出していた。アリスは慣れた足取りで本棚の間を進んでいく。哲学、思想─この辺りはまだ読む価値がある─数学、『裏世界』の科学。いずれも専門的な内容で、子供が読むには少しばかり難しいだろうか。この部屋に価値があるとすればかくれんぼをするくらいだろう。例えばこの裏世界工学の棚の横のひっくり返った踏み台の影なんかに──。


「うわ、いた」


 いた。思わずその相手が誰であるかという推測のことなど忘れて、大変無礼な感嘆詞を漏らしてしまった。三角座りのまま本棚に寄りかかる茶色い頭の小ささに、久しぶりに子供という存在をを見たな、と妙な感動を覚える。アリスの声に反応し、少年は泣き腫らした顔を上げた。


「あー。失礼しました。多分……、皇太子さん?」


 図書室の棚の一つの隙間。騒がれても困ると判断し、そこに丸くなっている少年に一歩だけ近づく。目を合わせるとか顔を覗き込むとか、そういう慰め方は知らないので、とりあえず無駄に警戒されないようにだけ意識してしゃがみ込んだ。茶色い頭が動き、涙の跡で汚れたメガネを外して袖で拭いてから、ぎゅっと眉根を寄せて威嚇するような表情を作る。


「そうだぞ! 僕はこの国の皇太子殿下だ。この国の、サイコーがくふの、視察に来てやったんだ」

「そうですか」


 言いたいことは色々あるが飲み込んだ。厄介ごとは避けたい。


「とりあえず立てます? 連れてくるように密命を受けててですね」


 ここからならば窓から出るなりして人目を避けつつ建物裏へ回れるな、なんて考えつつ声をかけると、皇太子は意外にも素直に立とうとする。しかし足でも痛いのか、膝をついた姿勢からは動けなくなった。


「本でも取ろうとしたんですかぁ」


 近くに倒れている踏み台を見るにつけ。皇太子はまた悔しそうに頷いてから、今度は気弱そうな表情をアリスに向ける。


「……シティとはぐれちゃった」

「シティ?」

「妹。一緒に探検してた」


 最初の威勢はどこへやら、ぽつぽつと不安そうに説明してはまた顔を歪めて泣きそうになる。そういえば最初に会った付き人は『男の子と女の子』と言っていたと思い出すとアリスは立ち上がった。いや学校に皇族として来て勝手に探検するなよと言いたいが、今は事態を収拾するのが先だ。


「探してきますけど、どこに行きそうです?」

「待って! 行くなら連れてって」


 皇太子は駄々をこねるように両手を伸ばす。アリスはちょっと困った。


「そう言われても、歩けないんじゃ」

「おぶって!」

「えー」


 素直に嫌そうな声が出る。子供を背負った経験などないし、背負っての行動は機動が落ちる上に目立ちそうだ。


「皇太子殿下ならなんか魔法知らないんですか? 俺留学生なんで、この国の魔力にまだそんなに馴染んでないんで」


 すると皇太子は不思議そうな顔になる。異世界人を初めて見たということが一瞬で窺い知れた。


「留学って? 遠くから来たってこと?」

「まあ、そんな感じですけど。本国て言ってわかります? いやこの言い方は相応しくないか、日本国。東京とか聞いたことあります?」


 皇族様からしたらこの国こそ彼の『本国』だろうと思って言い直す。それで通じたようで、少年は驚いたように目を丸くした。


「トーキョー! すごいや。電車が空飛んでるって本当?」

「電車は飛ばないですけど、空飛ぶでかい乗り物はありますね」

「ヒコーキだ! いいな、僕見てみたいんだ」

「皇族様はパスポートをお持ちでない?」

「10歳になったらもらえるって聞いた」


 先ほどまで泣きべそをかいていた少年は目を輝かせ始めた。アリスは長くなりそうだと察して、これでいいのかとわからないなりにおんぶの姿勢をとる。


「とりあえず行きましょう。で、妹君の行きそうな場所は?」

「わからない。でもあんまり人が多いところには行かないと思う」


 皇太子が背中にのりかかったのを確認すると足を持って立ち上がる。子供って軽いんだな、と当たり前の感想を抱きつつ、背中に感じる温もりは少し気持ち悪く感じて早めにことを済ませるべく図書室を出た。あまり使われていない階段を上って実験室を目指す。


「どこに行くの?」

「魔法が使える部屋。熱を検知する魔法で人の気配を探ります」

「その部屋に行かないと魔法が使えないの?」

「さっきも言いましたけどぉ〜」

「熱を検知したらいい?」


 足を止める。さてはできるな、と思うと具体的な指示を出すべく頭を回転させた。


「その前に、土元素の検知はできます? 周辺の壁に含まれる土元素の座標を投影して地図を作ります」

「一番簡単だよ。僕は土元素との相性が一番いいんだ」


 皇太子の口調は得意げと言うよりもさも当たり前のようだ。アリスは一度彼を床に下ろし、床の塵を周りに散らしてから一点に指を置く。


「この位置を基点にして、周りの土元素配置を表すことができますか?」


 皇太子は床にぺたんと座ってから頷く。アリスの指に軽く指を重ねると、周囲の塵が線上に規則正しく並び始めた。やがて塵によって建物の見取り図が描かれると、アリスはひそかに興奮した。


「次に熱の検知です。同じように座標を特定して地図に重ねればサーモグラフィーが描けるはず」

「でもそれじゃ土への変換ができない。土は冷と乾の性質しか持たないから」

「別に土元素でやれとは言ってないですよ。そのまま火元素でも風元素でも使って地図を光らせたらいいんです」

「そっか」


 地図を光らせろ、なんて無茶な事象も彼には当然の現象のことのようだった。少年がまた少し念じると、地図上には順々に赤い光が灯る。建物の南東側に熱源が多いことが見てとれた。


「皇帝陛下たちはこの辺にいるみたいですねー。妹君がそっちを目指した可能性はないです?」

「シティは多分、一人になったら人混みには行かない。パパやママがいようが、知らない人は苦手なんだ」

「じゃあこっちですかね」


 地図上のある部屋に一点だけ浮かぶ赤点を示す。準備倉庫の一つだが、わざわざこんなところに潜んでいる生徒や教員がいるとも思えない。


「行ってみよう」

「足になるの俺ですけどねー」


 肩をすくめてから再び皇太子をおんぶする体勢になり歩き出す。地図はその場に描いたものなので放置でいいかと思ったが、不思議なことに塵の並びはそのままに彼らの足元を追いかけるようについてきていた。


「その魔法疲れません?」

「別に? ねえ、そろそろだよ」


 皇太子にとっては魔法の使用は日常なのだ。改めてパラダイムの違いに驚くが、この操作も今自分が教えたこととはいえ、裏世界の人々がスマホで地図を見る動作と変わらないのかもしれない。準備室の扉の前に立ち、皇太子の手でドアノブをひねるように言う。


 細く開いた扉の先には、予想通りの人影があった。長いふわふわとした黒髪の少女は、最初に見たアリスの姿に硬直したものの、次いで顔を覗かせた兄を見てくしゃりと顔を歪めた。


「シティいた! シティ!」


 皇太子が揺れるので仕方なく床におろした。足はまだ痛むのかそのまま座り込んでいたが、妹の方が駆け寄ってきて少年にひしと抱きつく。再会できてよかったですねー。と緩い感想を漏らしてからアリスは廊下を振り返る。周囲に人の気配はないが、さてどうやってこの二人を校舎裏へ連れて行こうかと思考を巡らせる。再度皇太子の魔法で地図を描き、道筋を決めるべきか、時間節約のために突破するか。決めかねていたアリスの眼前に光が瞬き、あっという間に廊下に現れた二人の兵士の槍の矛先を向けられて両手を上げさせられた状態になる。手を上げながら、地図を作る時間が無駄だったかなと死ぬ前の懺悔を脳内で始めた。


「貴様何者だ」

「中央科学院マスター課程錬金科、初級錬金術師アリス。学生です。死にたくないです」


 目を閉じながら呪文のように名前を唱えるついでに命乞いをした。一人の兵士がアリスの喉元に槍を突き付けている後ろで、無事に皇太子たちはもう一人に保護されたようだ。


「皇太子たちを監禁し何をしようとした」

「何もしてません」

「嘘をつくな!」

「魔法でもなんでも使って暴いて構いませんけどぉ……」

「は? 何の魔法を使うつもりだ!」

「待って、その人は魔法は使えないよ、違う世界から来たんだ。怪我させないで」


 兵士の背後から援護射撃がかろうじて飛ぶ。しかしその言い回しはより兵士の誤解を生んだようだ。ああなんて日だ、哀れなアリスはまたしてもとんでもない白うさぎに出会ってしまったようです。タクシー馬車のそれよりも明らかで、非常にややこしい、それ。


「異世界人だと? 何の目的で殿下に近づいた!」


 これはもうダメだ。「僕をおんぶして、それで……」とまた中途半端な情報を皇太子自身が与えたせいで、アリスの思考は呆気なく兵士による失神魔法によってブラックアウトした。

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