1st spring semester

第一話 到着

 新札幌空港の77番ゲート。売店やトイレも遠く彼方に過ぎ去った奥の奥地にそれはある。搭乗口前には待機椅子の一つもなく、警備員に紫色のパスポートを見せてロープを潜り、係員の案内に従って通路を進む先にはボーイングの新型ジェット、とはいかない。通路の先にあるのは一つの大きな『扉』だ。小洒落た木製の大扉には北国らしく熊の彫刻がなされ、金メッキの取っ手は剥げもなく妙に使用感が薄い。青年は自らその扉を引くように指示され、「ボン・ボヤージュ!」という気楽な挨拶と共にその先へと送り出された。


 扉の先の『異世界』は、青年にとっては拍子抜けするほどに変わらない風景だった。また通路を抜けて歩くその施設内装は先ほどまでいた空港とほとんど変化がなく、案内表示板の文字も日本語だ。ただ少し違うところといえば施設職員の見た目だろうか、昭和時代の風格漂うダブルジャケットや帽子を身につけ、制服ではなくカラフルな身なりで多様な顔つきの人々が往来している。青年の携える紫色のパスポートに気づいた職員は「ようこそ」とこれまた気楽に声をかけては去っていき、青年は一体誰に声をかければいいのかとやや不安になりながら手近なカウンターに向かった。


「本国からお越しの方ですね」


 流暢な日本語で受付嬢はにこやかに話す。青年はパスポートを開いた。


「蟻巣です。ええと、留学目的で」


 ぎこちなく伝えると受付嬢はパスポートを確認し「アリスさんですね」と頷いた。本国でも散々『その』イントネーションで呼ばれてきた青年は今更訂正する気もなく、はいと答えた。


「お迎えの方は?」

「タクシーを使えと言われました」

「タクシ?」

「あー……、キャブ? 迎車? とにかくそういう乗り物を手配して欲しいんですが」

「ああ。かしこまりました。では馬車をお呼びしますね」


 同じ言葉を使っているはずが微妙に通じない。なるほど異世界だなあと思う中、最も引っかかる単語は間違いなく『馬車』だ。確かに受付嬢はそう言った。写真では見たことがあるが本当にあるのだろうか、この時代に? そうはいっても技術の進歩レベルは異なっているのだから車がなくても仕方がないか。青年はまだよく知らぬ土地へと足を踏み出し、指定の場所で車を待つ。空港と認識していたその施設は想像の百倍は狭かった。外へ出ると感じるのは空気の差だ。本国の排気ガス臭さはなく、代わりに不思議な『波』を感じる。ごくわずかなものだがそのまま立っていると船酔いのような感覚に陥る。近くのベンチに座って目を閉じた。


───


 三月の頭、札幌にはまだ雪が舞っていた。東京からはるばるやって来た感想はシンプルなもので「寒い」ただそれだけである。大した思い入れのない高校の卒業式をブッチしてまで飛行機に乗った目的は、父に会うためだった。


 外交官。それは実世界の国同士の交流を担う者、あるいは「実世界と異世界の国同士」の交流を担う者。父は後者であり、MPWA(ミニストリー・オブ・パラレルワールド・アフェア)札幌支所に勤務している。以前は東京の家で同居していたが異動になったとかで、高校を変えたくなかった息子と更年期障害真っ只中の妻を置いて単身赴任となっていた。


 MPWA支所の建物は古く、人の気配が薄い。受付に行っても人がおらず、青年はしばらく開かずの自動扉の前での徘徊を強いられた。十分ほどで受付カウンターから警備員が顔を出したが、対応は雑なものだ。


「要件とお名前」

「人に会いに来ました。蟻巣をお願いします」

「あんたの名前」

「はい蟻巣です。蟻巣 頼貞よりさだ。要件の相手は親です、蟻巣 貞友さだとも

「え? わかりにくいね」


 俺だって好きで親と似た名前になったわけじゃないです。ややの苛立ちは胸にしまい込みながら内線をかける警備員を見守った。電話の先の相手はすぐに出たようで、警備員は短いやり取りのあとカウンターから身を乗り出して壁に貼られた館内見取り図を示す。


「そっちの通路をまっすぐ行って、階段があるから、三階に上がって、大きい扉が二枚あるからその先行って、右手に応接室があるからそこね」


 抽象的な説明に頼貞は困惑したように片眉を上げた。しかしそれきりカウンターの奥に入った警備員にそれ以上追及することはやめ、『応接室』を目指すべく階上へ向かう。


 その部屋は思いがけず簡単に見つかった。古い建物の各部屋の扉の上には、アンバランスに新しい銀色のプレートが嵌められている。その中から目的の文字を見つけ出すのは容易だった。今ばかりは自身の高い視力に感謝しながら大股で向かった扉を、頼貞は躊躇せずに四回ノックする。プロトコール・マナーに従うのであれば、父親相手には一回分多いと思われるだろうが彼らの状況は少し違っていた。


「入りなさい」


 わざとらしい厳格な声音。「失礼します」と頭を下げながら扉を開けて、閉めてから改めて向き合う父の顔は、以前に見たものよりも随分と白髪が増えて一段と老けたように思えた。応接室の低いテーブルを挟んでソファに腰掛けると、そのテーブルの上にはすでに数枚の資料、それから真新しいパスポートが置かれていた。


「印鑑は?」

「発注が間に合わなかった。百均では売ってないし」


 資料を勝手に手にして目を通しながら質問に答える。父はため息をつきながら自身の予備の印鑑を机から出してきて息子の手元に置いた。


「大学受験はどうなったんだ」


 親子の会話のつもりだろうか、答えは決まっているのにわざわざ聞いてくることに、頼貞は特段の落胆こそないが顔を見るつもりもなく素っ気ない声を出す。


「一応受けたよ、記念に。慶應理工。受かったか知らない」


 記念受験先の大学名を答えながら、用意されていた履歴書には卒業したはずの高校の名前を書く。ご丁寧にパスポートのものと同じ写真がすでに貼られていた履歴書にはそれ以上書くこともなく、さっさと次の書類に移る。全ての書類が揃うまで、それ以上の会話はなかった。父は書類を合わせてざっと読み、ファイルにしまってから再度口を開く。


「お前が行きたがるとは意外だった」


 頼貞は顔を上げて父を見る。目が合うとさりげなく逸らした。


「気が変わった」

「母さんは元気か」

「全然。最近ヒステリーが酷いから、俺が出ていって楽になるんじゃない」

「そうか」

「手続き終わり?」


 頼貞の関心はそれだけだ。父は何か言いたげに口を開いたが、すぐに咳払いをしてファイルを持ち立ち上がった。


「そうだ。……このまま行くのか?」

「いや、一回東京戻る」

「そうか。二度手間になって悪いな」


 悪いな、という言葉に頼貞は顔を上げる。頑固で自分の非など一切認めようとしない父らしくない言葉だ。後頭部に広がる白髪を見つめながら、老いという名の変化に妙な胸のざわつきを覚える。


「学校の教務課に、よろしく伝えとくから」


 背を向けたままの父に、自分からあえてそう声をかける。外交官の息子の留学という外的圧力が歪んだ親子関係を無理やり再び歪ませて真っ直ぐにしようとしている、頼貞には少しだけそんな期待があった。終えどきのわからなかった反抗期への終止符は自ら打たなければならない。


「頑張ってきなさい」


 父はそう告げた。高校に入学したときにはなかった言葉だった。


───


 「波」が落ち着いてきた。アリスの目の前には小ぶりの一頭立ての辻馬車が停車しており、幌のついた客席の後ろ側に立ち乗りしている御者が手を振るので近づくと早速乗るように言われた。


「どちらまで?」

「中央科学院の寮まで。ええと、北一条の中央三番地」

「へえ! 術師様の卵ですな、お安くしますよ」


 御者は嬉しそうに言って、アリスがきちんと着席する前に馬は走り出した。とんでもない白ウサギだな、なんて思いながら見慣れない馬の背越しに街を眺める。建物は全体的に古く一昔前の風貌だが、碁盤の目状に区切られた道に沿って並ぶ建物は高さや色に統一感がありヨーロッパの街並みを想起させる。その実物を見たことがあるアリスにとっては電信柱がないことは特段不思議には思わなかった。古い建物が残っているということは地震も少ないんだろうか、と考えているうちに馬車はあっという間に目的地に到着した。空港、否、『ゲート』は街の中心部に近かったらしい。御者に運賃として早速この国の通貨で支払い椅子を降りた。日本円にして千円取られた。どこがお安いのか、馬車だから仕方がないのか。


 この街は国の最高学府である『中央科学院』を中心にデザインされているらしい。おおかた学園都市、という認識だったが、想像するそれと比べたら規模感で言ったら十分の一サイズだ。それでも高い塀に囲まれた学校は大きく、学校の前の道路は広い。驚いたのは路面電車が走っていることだ。今後は馬車を使わずとも生活には困らないだろう。


 正門をくぐると目の前には大きな時計のついた大講堂が見える。どこぞの首都の有名大学のそれを真似していることは明らかだ。二つの世界の行き来は、刀をさげている時代にはすでに確立していたと言うのだから、昔から文化交流もそこそこあったのだろう。むしろ明治大正期の方が自由に往来できたという話もある。現代ではパスポートが必要になったことで往来に規制がかかり、本国からすれば科学技術進歩の遅れたこの世界にわざわざ来る人も減ってしまったらしい。


 大講堂を見ながらさらに奥へ進むと、敷地内の隅に寮があった。古びた外観だが前庭は整備されており、清掃員の人が明るく挨拶してくれる。事務部がついており、窓口で名前を言えば部屋の鍵を渡されて簡単な施設の説明をされた。風呂トイレは共用で部屋は四畳半ほどと狭苦しいが、家賃が無料であるのだからそのくらいは仕方ないだろう。部屋にはネームプレートが付けられており、想像の通り『アリス・ヨリサダ』と、どちらが苗字かわからない仕様にされていた。日本語が通じるのに人名や人種や慣習が微妙に異なるこの世界への適応のため、彼はネームプレートの後ろ半分をマジックペンで消しておいた。


 異世界『函庭』。この世界に降り立った青年アリスの、それなりの日々が始まる。

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